美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

馬渡裕子新作展 杜の未来舎ぎゃらりい 11/17~30

2014-11-24 13:28:39 | レビュー/感想
常に新しい感覚の世界を開いてくれる、オリジナリティーのある画家とは滅多に出会わなくなった。とりわけ最近は、東京でギャラリー巡りをしても、どこかで見たような似たような、うんざりの作品ばかりだ。陶芸の世界もそうだが絵の世界も存在感が感じられない、気分の上澄みをさらったような曖昧な「薄いもの」があたかも進化した現代の勲章であるかのように、トレンドとなり、エスタブリッシュメントとなっている。そうしたトレンドが確立されると、一般の常としてそれに乗っかった方が未知の冒険をするよりいいという小器用さが優位となる。美術学校や団体という魂の欠けた標準化装置がそれを拡散させている。こうした閉塞状況を吹き飛ばすエネルギーを持った作家はめったに出て来ない。またそういった作家がいても、すでに鑑賞者の目を覆う厚い帳と鈍い魂を突き崩すにはいたらない。作る者と見る者との共犯から生まれる文化の退落が、現にこうやって起こっている。
この画家は震災後から「車と松の木」を繰り返し描いている。彼女は特別にとんがったものを、今の言葉で言えばエッジなことを描こうとして描いているわけではない。そういう表現主義的な意図は毛頭なくて、穏やかな性格のケレン味や小賢しさが少しもない画家だから自然に出て来たのだろう。彼女のこれまでの絵は彼女のアンテナに引っかかった淡々とした日常の風景に独特の想念のツィストが加わって出来上がっていた。しかし、2011年の壊滅的な大地震が、それまでの小市民的なインスピレーションのレベルを津波の巨大な波頭まで押し上げた。前に書いたことだが、大きな揺れで倒れた、彼女のご尊父(故人)が丹精を込めて育てていた盆栽と、日本車のミニチュアのコレクション(私には津波に流されたあのたくさんの車の映像が思い浮かぶ)が深層においてスパークした(のではないか)。それは平穏な日常的なレベルに偶然さしかかった巨大なヌミノーゼの影だった。この現実の出来事のボリュームは一回限りのスケッチ画で描きおおせるものではない。当然のように以後も反復的に描かれ、そして描かれるごと、リアリティーを、存在感を強めて行くことになる。この無限連環の中で絵は平面的な「イラスト」から立体感とマチェールとしての強靭さを得たすごみのある「絵」となって行く。その発展過程を発生の段階から観させてもらえたのは画廊主にとっても楽しい出来事だった。
現在杜の未来舎ぎゃらりいでは、この「車と松の木」の最新作を展示している。異界との出会いを描いた北斎のお化け絵、とりわけ「ろくろ首(何と言う名だったか)」のように日本人の古層にも無意識に通じている作品だと思う。馬渡とのショートトリップを楽しみたい方は30日までだが、ぜひどうぞ。そのうちまた画家は常態(?)のシュールなエスプリを効かせた小品に戻るかもしれないが、この絵の到達点は、それらのエンタテーメントの質を一段とあげていることだろう。来年の新作が楽しみだ。

Who could have imagined a pine tree, resembling a bonsai plant, growing out of a "domestic car" familiar to everyone in the post-war era? What's strange, however, is that if you look at enough of Mawatari's pictures, this sort of thing starts so seem normal. I am surprised each time I see this artist's work at the unique knack she has for nonchalantly pulling something incomprehensible out of a scene that feels so close to home at some point in each picture. Please enjoy her newest piece.

ミレー展 宮城県美術館 11/1~12/14

2014-11-06 12:19:40 | レビュー/感想
ミレーの作品は、ロマン主義でもない、写実主義でもない、その間にあって美術史のメインストリームから独立した性格を持っている。その絵の前に立つと、誰もがリアリティとは何かと言うことを問わざる得ない。それは写実主義的なリアリティではない。例えば、写実主義の代表クールベが労働や自然など身近な現実を描いたとしても、ロマン主義絵画のカウンターパートとしてのイデオロギー化された現実でしかない。弁証法的な発展の歴史を描く美術史の中では扱い安い存在だ。しかし、そういうものとは全く別のリアリティがここにはある。それはこのリアリティがどこから来るのか分からない限り、バルビゾン派という地名に結びつけた便宜的なカテゴリーで括るしかない絵だ。いずれにしろ、岩波のマーク「種まく人」のイメージに重ねて、神聖な労働といった白樺派的な社会倫理に絡めとられたステレオタイプのミレー像からはそろそろ脱却したい。

さて,ミレーの絵は最初からぐんぐんと心に入って来る。頭でっかちは別として、これほど分かりやすい絵はないかもしれない。ここにはミレーの最初の妻、3年間の結婚生活で子供も残さず儚くこの世を去っていたポリーヌ・オノが確かにいる。帰路につく羊の群れの後ろには今まさに暮れ行く秋の空がある。いずれも終わった現実だが、確かにまさに目の前で、今生きて、しかも動き出すかのようで、胸に迫って来るのはなぜだろう。日常の一点景を切り取るという手法には、当時浸透し始めた写真の影響があるだろうが、瞬間の表面を切り取るしか能のない写真ではこうはいかない。ここには並外れて繊細な伎倆でしか描けない、魂のレンジまで踏み込んだリアリティがある。そこから受ける印象は、根源的な「悲哀」といったらいいようなものだ。オスカー・ワイルドの「獄中記」にある「悲哀の中にこそ美がある」というテーゼが、久しぶりに呼び起こされた。

農民の姿を描いたとしても、ブリューゲルの絵が持っているような朗らかな聖なる空間はここにはもはやない。だから、誰もがいずれ労働して死んで行く、楽園追放以来、反復される人生の現実、そこに何の意味があるのだろうか、と絵の前で誰もが、反芻させられるようだ。われわれの現実をそのまま突きつけて来る絵のリアリティー。ゴッホのように、白熱したエネルギーでこの生活のボーダーを越境して行くベクトルはどこにもない。どちらかというと≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫と描いたゴーギャンに、こんなエゴティストではないにしろ、資質的に近いかもしれない。60才という長くはない人生を、このあまりに現実的な、どこにも飛び立てない世界に耐えて、 一毫も誇張のない、これだけの絵を書き続けたミレーは、立派な体躯と厳つい顔からも推定しうることだが強靭な精神と生活力の持ち主だったと思う。しかし、そんなパーソナリティだけではない。「落ち穂拾い」の聖書的主題である「ルツ記」に描かれたように、困難に満ちた人生であったとしても、時を越えた希望に励まされている、確かな信仰に根ざしていたのだろうか。

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