美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガの力 宮城県美術館

2014-07-05 15:00:24 | レビュー/感想
当然コマ割りあってのマンガである。この展覧会でも一コマを拡大して見せるのではなく、コマ割りが詰まったページを展示している。しかし、すばやく絵とストーリーを平行して追うという若者が難なく出来ることが、もう久しくマンガを見ていないゆえに出来なくなってる自分に愕然とさせられた。ゆえに展示会の促しに反して、マンガを「読み込む」ことは諦めて、いささか早足でざあっと絵面を追って行くだけとなった。そういった見方だったので踏み込んだことはあまり言えないが、手塚治虫と石ノ森章太郎をライバル的に括ったのは何故であろうか。二人が戦後マンガに影響を与え,人気を二分した二大巨人である故か。それとも、単純に宮城が石ノ森章太郎のふるさとであり、集客効果を狙っての「よいしょ」なのか。どうせVSで括るのなら、時系列に並べるだけでない、興行師ではなく研究者が集まっている美術館らしい分析の糸口を示してほしかった。

手塚治虫の絵面で最初に引かれるのは、無機物、有機物を問わず見て取れる、セクシーと言ってもいいような生命的な形態である。これは小さい時に昆虫を観察するのが大好きで、医学生であったということとも関係していると思う。端的に言えば自然がベースにあるのだろう。今ギャラリーには期せずして、この展示会のポスターが貼られた隣に、瀧口修三ともつながりがある宮城出身のシュールレアリズム作家、故宮城輝夫氏の初期作品(写真)が並列して置かれているが、その丸っこいチャーミングな形態の類似性をいつも不思議に感じていた。この二人にはもちろん何のつながりもないが、おそらく考えられるのは、ベースに自然があって、その身体的な受け止め方が類似しているためだろう。これは二人の資質の類似性を超えて、仏像から始まって(いや縄文土器からかもしれない)、鳥獣戯画、浮世絵を経て、もっと普遍的な、現代にも引き継がれている日本人の形態感覚のDNAにつながるものかもしれない、などと妄想は広がって行く。当然この生命的な形態は動くことを志向する。手塚が初期の段階から映画的な手法を用いてるのは、模倣と言うに留まらない、その生命的な表現の必然的な流れであったのでないか。しかし,自然がそうであるようにときに手塚の形態はグロテスクな様相も見せる。手塚のマンガには、ページを開けるのを躊躇させるような気味の悪い絵面が時々ある。ときに熟練した医学者のような暗い冷徹な目と手技を見せる手塚は、子供向けに安心できる、単純な愛と平和の作家ではない。

石ノ森章太郎に至ると、この形態の生命的な動きは止まる。手塚よりはるかに頭の人である石ノ森の形態は先駆者手塚の形態を情報的に模倣整理したパターンとなって、このパターンの画面の中でのざん新なレイアウトが見せ場となる。戦後手塚のうちに生き生きと受け止められた欧米文化の影響は息を潜めて、浮世絵という日本らしい伝統に先祖帰りした結果、キャラクター(類型)を中心に置いた表現となって、マンガが新しい日本の浮世絵として欧米でも評価を受ける下地が出来て行った、ということになろうか。
戦後漫画家達の梁山泊「トキワ荘」の3/4 スケールの模型は、フェークとは言え、真に迫る感じで見応えがあった。

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魂が入ってるって?

2014-07-03 15:38:40 | レビュー/感想
自分にとって、作品の良し悪しを見分ける上で中心に置いている基準は思いのほか単純かも知れない。技術が多少伴わなくても「魂」が入ってるかどうか、ということだから。ルオーは晩年、彼が良しとしない作品を大量に暖炉の火にくべたが、灰になったのは「魂」が入っていない作品ではなかったろうか、とふと思う。しかし、「魂」とは目に見えないものである。信仰と同じように、本物と偽物を見分ける判断基準(信仰で言えば信条)をあげて、すべてクリアしました、といっても、それで「魂」が入った作品になるとは限らない。柳宗悦が民藝の美を規定した本を何冊か読んだが、彼も同じジレンマに落ちいってるようだ。これが自分が選んだ(つまり魂が入った)作品についての素直なエモーションを開陳するだけならよいが、その理由を項目だてて挙げ立てることになった。これには彼が当時抱いた近代化に対する深刻な危機感と「民藝運動」の唱道者としてのバイアスがあるのだろうが、新たな「律法」となり、枷となり、後身は中世の職人のように無心であることを強いられることとなる。魂の入ってない技巧偏重の風潮に対して「下手」の美を唱えるのは良い。

しかし、実際にはリンゴを食べる以前のアダムにはもどれないように、もはや誰も古代や中世の職人にはすんなりと戻れない。われわれは意識的に進み、いつしか意識を超えなければならないという困難な課題を背負わされている。強烈な自意識と本能だけで這い上がって来た魯山人が、そんな柳に、恵まれた出自の大正教養人特有の理想主義の偽善的な匂いをかぎとって、激しく噛み付いた理由もむしろよく分かる、気がする。自由とはやっかいなものだ。近代人である創作者は個であることを引き受けて、存在をかけて、芸術の魂を追い求めて行かなければならない必然を持っている。願わくはその狭い道が、狷介、固陋な閉じこもりの道ではなく魂の自由と喜びの根拠としての神と共同性を新たに見いだす営為とならんことを。

一方、こんな面倒な「魂」なんぞないという立場からすれば、そんなの単に個人の好みじゃないか、ということにもなろう。現実、その結果、マーケッティングの父とも呼ばれるF.コトラーばりに、これまでの美術の歴史を総覧して、新しいオリジナルのカテゴリーづくりに意識的にいそしむ、美大出のなかなか利発な「アーティスト」も出て来る始末だ。それで現実にそんなすき間狙いが美術市場で大当たりをとる例もあるわけだから、勝てば官軍。今の時代、作品の魂の有無なぞ世迷いごとに過ぎないのだろう。明治以降は西洋のイミテーションのそのまたイミテーションにしかならないが、それ以前の世界文化の蒸留装置のような日本はすき間狙いの材料には事欠かない。そうした目ざといゲーマーのようなアーティストが江戸をほっておかないのもよく分かる。しかし、まだ市場経済では価値変動という調整機能があるが、江戸以来の村社会が下敷きになっている特殊社会主義的な日本では、そんな浅はかな下心が肩書きや団体となって価値を恒久的に固定化してしまうことになるなら、もっと干涸びたひどいことになりはしないか。

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