美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

魂が入っとらん

2010-09-11 12:29:03 | レビュー/感想
「魂が入っとらんと宝物とはいわん」。朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」はなかなか出来がよくて毎朝欠かさず見ている番組だが、水木しげるが彼の一種ビザールな民芸コレクションを見ながらつぶやく言葉を聞いて、はたと手を打った。そうなのだ。人を引きつける作品であるためには魂が入ってないとだめなのだ。とっても当たり前で単純なことだが、世の中はそうはなってないのはどういうわけなのか。
最高の技術を身につけた東京芸大出の画家の作品が必ずしも魂を打つような作品であるとは限らない。スキルを身につければつけるほど計算が鼻につくいやらしい作品になる。芸術の根っことは頭でっかちな人には見出しがたいアプリオリな「何か」だからだ。そういう意味で現代のスタンダード化した美術教育とは無縁なのかも知れない。
このあらかじめ埋め込まれた根元的美的な感情は純粋には抽象となってあらわれる。写実画は模倣の技術的な能力によっても描けるが、抽象は音楽のようにしか創れない。このことを近代になってヨーロッパ人は日本芸術の発見によって学んだが、本家本元の日本では明治以降、このより自然で根元的な抽象衝動を遅れたものとして、ヨーロッパ近代の自然主義を中心とした一面的芸術発展史観を下敷きに、上から教養主義的に教育制度や画壇のしくみを創り上げた。そのことは、本来的に誰にでも備わっている美的価値判断の能力を特殊技術的なこととし、大衆と芸術を引き離し、画家自身の経済的基盤も未成熟なもの(先生にならないと食えない、食えるか食えないかが既得権益的なものになる)にしてしまっていると思う。
現在の創る人の苦境を見ると、教養主義や近代主義に毒されず、本能を素直に働かせて「魂が入っとる」作品を愛で、求めてくださる個々自立した芸術創造のパートナー、切実なる芸術愛好者、パトロンの出現を切に願いたい。こうした美術を取り巻く閉塞状況は、芸術家だけでなく、普通の人々の自由の問題とも深く結びついていると思う。