美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

可能性の北前船

2011-10-26 17:33:44 | レビュー/感想
「東北炎の作家復興支援プロジェクト」の展示会に関連して、加賀との間を車で4往復した。仙台からの距離は日本海ルートで片道およそ600キロで、途中大阪を経由して内陸を横断したこともあったから、約6,000キロを走破したことになる。これは日本の本州ほぼ一周に相当する。世界一過酷なモータースポーツ競技と言われるパリ・ダカールラリーが12,000キロのレースと考えると(何と言う恐れ多い比較対象だ!)たいしたことはないが、ふだんは車をほとんど運転しない自分にすると大事業を成し遂げたような気になって来る。

展示会の期間中は、加賀ではかつては日本一の富豪の村と言われた北前船船主の里橋立に逗留先を提供され過ごした。展示会もそろそろろ終わろうという頃、ようやく余裕ができて逗留先の目と鼻の先にある「北前船資料館」をのぞいた。それまでは北前船と言えば、江戸後期から明治にかけて、鉄道が引かれる前に北陸と北海道の間を行き来していた国内定期航路の運搬船くらいの認識しかなかった。それがなんとこれはこれは大変な代物であることが分かった。

「北前船の里資料館」となっている建物自体がかつての船主の家であった。フナムシがぼこぼこに穴をあけた一見粗末な船板をつかった外観と、狭い間口(これは間口の幅によって税高が決まって来る町屋ゆえだろうと後から解釈した)からすると、ちょっと大きな網元の家ぐらいに思っていたが、中に入って驚いた。30畳敷きの大広間がバーンと広がっており、最高級の建材を惜しげもなく用いて柱や梁は総漆塗りのつくりだった。それも漆は高級調度品並に何度も重ね塗りされているので、今も創建当時の豪奢を保っている。

ボランティアの方の熱のこもった解説では、まず北前船は、大阪を出て瀬戸内海を経て、東北、北海道に至る航路を往復したのだという。こんな基本的なことも知らず近くの橋立港から出たのだろうと思っていたのだから恥ずかしい。橋立の人たちは年に1回の出航時には徒歩で1週間かけて京都を経て大阪の堺港へと向かった。途中、京都で寺社仏閣を詣でて神仏に航海の無事を祈った。1回の航海で今のお金にすると1億円ぐらいの収益があったそうだ。1人で10艘を越える船を所有していた船主なら、その収益は莫大であったろう。最盛期には橋立にはおよそ100艘の北前船があったそうだから、1村で100億円を稼ぎだしていたことになる。その往時の莫大な富を表す例として、100万ドルの夜景で知られる函館山や小樽運河ののレンガ倉庫も橋立の船主の所有だったのだと言う。

江戸末期から明治へと時代が激しく動く中で、人々のチャレンジ精神が高まる「坂の上の雲」の時代、橋立の人たちが身につけた航海術(それは古来大陸との間で盛んに行っていただろう交易を通しても育まれたものかも知れない)に近江商人から提供された商いの知識がセットされ、北前船という名のイノベーションの装置が成立した。造船の面から見ても底を平たくするなど日本海の湾深く浅瀬にも乗り入れ可能なつくりとなっていた。大きな利益は積み荷にプロダクトアウトとマーケットインが見事に噛み合った鰊の絞り滓による肥料がセッティングされたことによる。1億円の利益のほとんどは関西から運んだ塩や酒などの物資よりこの肥料の収益によっている。加賀地方では江戸末期、農地の拡大が限界点に来て、単位面積あたりの米の収穫を上げるため肥料の工夫が行われていたそうだが、航海術、商知識に加えて、こうした商品開発の努力も背景にあるのだろう。しかし、鉄道網の発達が北前船の優位性を突き崩し、明治末期には沿岸から北前船の姿は消えた。電信網の発達も、リアルタイムで価格情報を得ることを可能にし、利幅を縮少せずには得なくなった。新しい技術がそれまでの成功のフレームを陳腐化するのは、今も繰り返し見られることである。北前船の船主たちは莫大な資産を元手に銀行家や保険業へと転身し、日本近代の金融経済の礎となる。

加賀と仙台の間を東北の作家さんの作品を乗せて車での往復を繰り返しながら、これも極小規模の北前船だなと思った。それと同時に、グローバリゼーションの現実の中にあって、コピー可能な品やサービスが新興国との競争の中で安価な労働力に太刀打ちできずデフレの波に呑まれる一方、独創的であることを生命とする美術工芸品は残された唯一の差別化商品(とくに縄文時代以来の日本陶芸は究極の差別化商品)であるなあと思いつつ、このプロジェクトが世界に文化を発信するハイパー北前船を生む契機になることを夢見ている。「石川県九谷焼美術館」の収蔵品の中には、北前船の船主の子孫が「うちの蔵にあったものだけど」と持って来た高価な品が並ぶ。もう一枚は戦後マッカーサーへの寄贈品となったという時価5,000万円という、小さな古九谷のモダンな絵付けの皿もある。さて、その莫大な財力によって加賀の文化を押し上げた船主たちと同じチャレンジ精神と心意気を持った現代の船主は今どこにいるのだろう?

写真は橋立外観はとっても地味な「北前船の里資料館」前の路地。石畳が敷かれ、景観保存地区となっている。

硲伊之助という画家

2011-10-05 22:40:29 | レビュー/感想
石川県加佐の岬の先端にあるギャラリー、「加佐ノ岬倶楽部」で硲伊之助の作品と出会った。硲伊之助は、画家としてよりはかって愛読していた岩波文庫「ゴッホの手紙」の翻訳者としての印象が強かった。その作品を見る機会はこれまでほとんどなかったが、たまたま加賀での復興展展示会場になった「加佐ノ岬倶楽部」が元硲伊之助美術館であったことから、オーナー宮本昭夫氏のご好意により数点の作品を見ることができた。宮本氏は硲伊之助の作品に惚れ込み、40代で施設職員としての給与をすべてつぎ込んで伊之助の作品を収集し、美術館建設を志した人なのであった。「加佐の岬倶楽部」では宮本氏が次から次へと出して来た実作品や古い画集を目の前にしながら、宮本氏が熱く語る伊之助に関するエピソードを聞くという幸福な時間を過ごさせていただいた。

伊之助の絵を見て、さらに生涯に触れて、この画家は明治大正昭和を通しての日本の近代西洋絵画受容史を、ひとつの錯誤過程として見る見方も含めて、眺め渡すには打ってつけの画家ではないかと直感的に思った。ビッグネームの天才的な画家ではこれはできない。かつて蓮實重彦氏がフローベルの友人「 マクシム・デュ・カン」を通して、近代という時代の空気とそこにおいて一般的に語られる芸術文化とその社会背景を浮き彫りにしたと同じことが、硲伊之助という今や一般には忘れ去られてしまった画家を通してできそうではないか。伝記小説を成立させるに十分な想像力を刺激する魅力的な素材がそこにはたくさん埋まっているように思われた。例えば、彼が生涯にわたって何度も描いている肖像画のモデルを巡る謎。新進美術評論家石塚フミコ(漢字不明)がそのモデルだが、女優で言えばどこか八千草薫に似たふっくらした面立ちとイタリア人と結婚の後、30代で亡くなったいう佳人薄命の生涯が好奇心をくすぐる。

硲はヒュウザン会から一水会まで、著名な美術団体の創立に立ち会った。その生涯をたどれば美術団体を中心とした日本近代美術史ができあがると思うほどだ。戦前フランスに幾度も渡りイタリア系フランス人と結婚、アンリ・マティスとも親交があった。コロー、クールベ、ポールセザンヌ、ヴァン・ゴッホといった近代画家たちの評論を書き、戦後は「マチス展」「ピカソ展」「ブラック展」の開催を企画しその実現に成功する。大正から日米開戦前夜まで、あこがれの芸術の都パリとの間を行き来した万を越える画家たちのトップランナーと言ったら良い画家だったのだろう。

しかし、晩年は東京を離れ、加賀に移り住み九谷焼の色絵に没頭した。これは単に画家の手慰みではない。自ら窯もつくって本格的に九谷焼に取り組んだ。この晩年の変身は何を意味するのだろうか。硲の絵を、とりわけ奥行きや空間の表現を見ると、単に西洋絵画のまねではなく、その精神を深くつかんでいた、日本洋画界では数少ない画家であったことが分かる。晩年中日新聞に連載された「わが半世紀」の最後で硲は日本美術界へいわば三下半をつきつける。「あの日展での事件(談合により入選作を決めようとしたことに怒り、日展を脱退し、日本の洋画壇と決別した事件)をきっかけに、ぼくは日本の美術界のことをつとめて考えないようにしているのです。世界の水準から、はるかに遅れた不思議で特殊な世界と思うばかりで、美術とは無縁のものだ、と諦めています」。精神不在のまま、西洋絵画のコピー技術を権威の柱として、談合的体質の村社会をつくってしまっている画壇への強いいらだちがあったことが伺える。そこから江戸絵画へ回帰した岸田劉生とは違ったかたちで、九谷焼のうちに日本の風土に根ざした普遍的美を求めての晩年の模索も始まったのかもしれない。

写真は宮本昭夫氏所蔵の硲伊之助の風景画。一般的にはセザンヌの影響が言われるのだろうが、私には淡い色彩がイタリア未来派、それもモランディの感じがする。若い頃伊之助が属したヒュウザン会の中心作家、岸田劉生の名作「道路と土手と塀」を思わせるテーマでもある。

「加佐ノ岬倶楽部」 http://www.seegarden.com/cafe_gallery.html

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