フィンランドの画家というと、ムンクはノルウェーだし、ムーミンのトーべ・ヤンソンぐらいしか頭に浮かばない。そういえばこのポスターの自画像の全体にトローンとしたつかみどころのない感じはなんかムーミンのようだなあ、と思いつつ会場に入った。19世紀から20世紀に至る時代、日本と同様、フインランドもフランスやイギリスなどをメインストリームとする西洋近代絵画の圧倒的な影響下にあったのだろう。そうした中で、シャルフベック自身も早くから画才を見出され、フィンランド芸術協会の素描学校に11歳の異例の若さで入学し、18歳で奨学金を得てパリ留学のチャンスを得る。この展示会のポスターにもなっている「快復期」がパリ万博で銅メダル獲得というお墨付きも得て、この画家はトントン拍子で早くから国民的な作家としての名声を得て行ったのだろう。
確かにうまい。しかし、どこかそれは西洋画の技法を自家薬籠中にした優等生的なうまさで深く魂に響いてくるものがない。この本質に切り込まない薄いムードが時節にあって、今日本で巡覧する理由かなとも思ってしまう。例えば「お針子」は明らかなホイッスラーの模倣であるけど、この黒と真横の構図に必然的に結びついたホイッスラーの挑発的なダンディズムに代わる独自のスピリットがあるかというと疑問だ。ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、セザンヌ、エル・グレコと、一目見てその高度な模倣と感じられる作品が並ぶが、いずれにもこれらの画家の表現の核にあったものを掴んでいるとは言い難い。関心もなかったのだろう。
若い頃物事を深刻に感じすぎると人に言われた、と会場のパネルに書いてあったが、それはきっと自分自身のこと、自分の個人的な人生のことなのだろう。そういう彼女にとって画家としての成功は、果たして幸福なことであったのだろうか。二人の男性と関わりがあったという。しかし、思いは叶えられず結婚には結びつかなかった。彼女が生涯描いた女性像はすべて自画像のようで、しかも顔の色彩はメイクアップのそれのようでときどきの感情を引き写しているように見える。絵の唇の色から鮮やかさが消えていく過程は、実人生への希望を喪失していく過程を象徴しているのだろうか。晩年に描いた果物の静物画には、黒いリンゴがひとつ前面に添えられている。人生への悔恨の思いのように。
確かにうまい。しかし、どこかそれは西洋画の技法を自家薬籠中にした優等生的なうまさで深く魂に響いてくるものがない。この本質に切り込まない薄いムードが時節にあって、今日本で巡覧する理由かなとも思ってしまう。例えば「お針子」は明らかなホイッスラーの模倣であるけど、この黒と真横の構図に必然的に結びついたホイッスラーの挑発的なダンディズムに代わる独自のスピリットがあるかというと疑問だ。ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、セザンヌ、エル・グレコと、一目見てその高度な模倣と感じられる作品が並ぶが、いずれにもこれらの画家の表現の核にあったものを掴んでいるとは言い難い。関心もなかったのだろう。
若い頃物事を深刻に感じすぎると人に言われた、と会場のパネルに書いてあったが、それはきっと自分自身のこと、自分の個人的な人生のことなのだろう。そういう彼女にとって画家としての成功は、果たして幸福なことであったのだろうか。二人の男性と関わりがあったという。しかし、思いは叶えられず結婚には結びつかなかった。彼女が生涯描いた女性像はすべて自画像のようで、しかも顔の色彩はメイクアップのそれのようでときどきの感情を引き写しているように見える。絵の唇の色から鮮やかさが消えていく過程は、実人生への希望を喪失していく過程を象徴しているのだろうか。晩年に描いた果物の静物画には、黒いリンゴがひとつ前面に添えられている。人生への悔恨の思いのように。