美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

門出和紙の里を訪ねて

2013-10-09 19:25:44 | レビュー/感想
柏崎ICを下りたら、綺麗に舗装され塵ひとつない道が山中の門出へ通じている。柏崎と言えば海岸には原発が並ぶ町だから、道路のような公共施設には十分過ぎるお金が投入されているのだろう。車窓にはかってどこにでもあったが、今は得難いものになった美しい農村風景が展開する。

門出の山里が生き生きして見えるのは、和紙づくりという生業があるせいかもしれない。かっては典型的な出稼ぎの村であった門出が一人のリーダーの出現によって変った。小林康夫氏。門出和紙の名付け親であり育ての親で、長年の和紙づくりの経験から独特の哲学を持っている氏のもとには、世界中から弟子を希望する人が訪れる。伝説の和紙職人として知られる人物である。小林氏の存在自体は当ギャラリーで毎年個展を開いている浅草の木版画家野中光正氏を通して知っていた。野中氏はかって家族を連れて1年間門出に住み、和紙づくりを経験した。十月初め、東北の作家の展示に車で加賀に行く途中、適切な逗留先を探していたら、野中氏が門出の「かやぶきの家」を教えてくれ、小林氏と思いがけずいろりを囲んで話す機会を得たのだ。

小林氏が和紙づくりをテーマに村おこしをする前は、門出は冬期には3、4メートルの雪に閉ざされる典型的な出稼ぎの村であった。冬の間の手内職でしかなかった和紙づくりを出稼ぎに代わる収益の道となるよう発展させ、門出を和紙づくりの里にしたのが小林氏であった。門出の和紙づくりは原材料のコウゾを栽培するところから始まる。コウゾを知らなければ本物の和紙づくりはできない、との考えからだ。膨大な失敗の連続だったが、「読んだり教わったりしてはすぐに忘れてしまう。時間をかけて、体の中に気づきや納得がたまって、五感になって行くようでないと、応用の効く本物の知識は得られない、それこそ、自然と対話して生きている百姓のやり方だ」という。

経済的な成功だけを望むなら、こんな手間をかけずに見かけだけ和紙に近いものを作れば良かっただろう。実際に市中に出回っているのはほとんどがそういったフェーク和紙だ。しかし、そうしてしまうと作る人間、そして作った物からもスピリットが失われてしまう。このスピリットを手放さないためにも、原料づくり、製品づくりの各過程で、頭だけではなく身体性を持って関わらざる得ないのだろう。かって20代の時はユニークな和紙を作ろうとした、30代には消費者が望む和紙を作ろうとした、しかし、50代になってはコウゾがなりたいような和紙を作りたいと思っている(土がなりたいような器を作りたいと言った陶芸家がいたが同じだと思った)、と語る小林氏は気さくな方だが、横顔には、自然に鍛えられ本物の知恵を得てきた、野の哲学者の面影がある。

問題はコストだが、これではどうしても高上がりになってしまうだろう。このささやかな「反近代」の試みは、大量消費時代に、生き残って行けるのだろうか。そのためには消費者の側にも本物の価値を認め、そのために少々高めのお金を払ってもよいという互助精神が求められる。われわれの回りからスピリットのある物がなくなるとき、われわれの生ももぬけの空となってしまう。ルイス・マンフォードがかって抱いた工業化社会への危惧が牧歌的に思える世界にわれわれはすでに生きている、問題はそのことへの危機感がわれわれにあるかどうかだ。

門出和紙は新潟の人気酒銘柄「久保田」のラベルづくりを請け負うようになって経営的に安定したという。工房では、私が覗いた時には、年間300万枚という、その大量の和紙ラベルを職人がひたすら漉いていた。「久保田」のラベルにはその事実はどこにも書かれていない。せめてそのことをこのブログで伝えて、小林氏のチャレンジと闘いをささやかながら応援したいと思う。

写真は生紙工房。地元の大工が地元の材料で釘を一本も使わず作った。このこだわりを実現してしまうパワーがすごい。

野中光正の版画及びミックスドメディア作品のご購入は下記サイトで


杜の未来舎ぎゃらりい




モローとルオー -聖なるものの継承と変容- 汐留ミュジアム

2013-10-04 20:23:32 | レビュー/感想
ギュスターヴ・モローの作品は、30年近く前、パリのギュスターヴ・モロー美術館で見ている。パリ9区に立ち並ぶ古寂びた石造りのマンションのひとつが当の美術館で、大きな看板が立っている訳でもなく、地図を見ながらあちこち歩き回た末にようやく見つけ出した。852年から死去するまで暮らした邸宅がそのまま美術館になったのだという。2階の展示室に入ると赤っぽいオレンジ色の壁面一杯にどろりと重たい色彩のモローの作品が飾られていた。それらは東洋からのたった一人の闖入者めがけて一斉に襲いかかって来るようで、旅の疲れもあって具合が悪くなりそうになった。一点一点を鑑賞する気力も奪われ、3階に通じる美しい螺旋階段から部屋全体を眺め渡すばかりで、学生のとき読んだユイスマンスの「さかしま」に出て来るサロメの画家の本物を見たというだけで満足し早々に退散した。
汐留の展示は、モローとその弟子ジョルジュ・ルオーに焦点を当てて、作品数は少なかったが、二人を結びつける一本の筋がよく見える展示となっていた。焦点の定まった近年出色の企画だと思った。二人とも主義の連続によって出来ているかのように知的に構成された近代美術史とは無縁の画家で、神話的世界とカソリシズムという違いはあるにしろ、ヨーロッパに伏在するスピリチュアルな中世に根ざした絵を描いた画家と言える。

モローがフォルムより色彩を重視したのは、そこにこそ彼が絵画の柱とする霊感と感情が働くとの想いがあったのであろう。彼が描いた下絵も展示されていたが、その理論に従って、写実的なデッサンをベースにするのではなく、ダイレクトな霊感と感情の反映である色彩を下敷きに抽象表現主義の絵画を先取りしたような趣きの作品となっていた。ゴルゴダの3本の十字架を描いた絵(「ゴルゴダの丘のマグダラのマリア」)があった。十字架の上にはもう人影はない。ただ、十字架の下の血だまりのような赤がここでなされた壮絶な出来事を物語っている。贖罪の意味がここでは不在の肉体を超えて強烈に物質化されているのである。まさしく十字架上のキリストが不在のグリューネヴァルトの磔刑図(『 イーゼンハイム祭壇画』)であり、カソリックのサクラメントが絵解きされているよう感じた。
弟子のルオーの作品は、このモローのスピリチュアルな表現から散文的で装飾的な要素をそぎ落とし純化したもののように思える。近代美術のパースペクティブからは捉えられなかったルオー絵画の本質が、モロー作品を媒介にして鮮明に捉えられた。ルオーの表現は、師モローを経由して中世ゴシックのステンドグラスへと一直線につながっている。やがて有名な一連の「人物のいる風景」へと発展する、初期の同名の写実的な作品(一番感銘を受けた作品だった)は、見えているものを写そうとするだけの写実的技法を超えて、自然と人と、つまりは世界に埋め込まれた魂をつかむ天才的な能力を示している。

世紀末「薔薇十字展」のエキセントリックな組織者、ジョセファン・ペラダンは、自らが唱える神秘主義的な思想をビジュアライズ化した画家として、かねてより賞賛するモローを訪れた。ところが、アカデミー会員であることを理由に「薔薇十字展」への参加をやんわりと断られ、モローの穏やかな常識的な人柄に接して意気消沈したとのエピソードは面白い。このようなエピソードからも従来のオカルティシズムに寄り過ぎたモロー観を再考してみる必要があるだろう。

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