美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

縄文の炎・藤沢野焼祭2019 8/10(土)〜11(日) 一関市

2019-08-20 12:08:32 | レビュー/感想
44回を迎える「藤沢野焼祭」に今年も参加した。これに参加しないと夏は終わらない。しかし、例年ほど熱くなれなかったのは、比較的涼しかった天候のせいばかりではない。いつもの窯焚き仙台チームのメンバーである、かつての勤務先の上司であるW氏や、毎回洒脱で奇想天外な作品を出してみんなを驚かせる90歳(たぶん)のK氏が、体の不調ゆえに参加しなかったのが大きかった。しかし、W氏から預かった作品は慎重に窯に入れた。そこで翌朝5時過ぎにはいそいそと起き出して、鎮火した窯へ、作品取り出しに向かった。

そこにはすでに窯から取り出した作品を眺めているH氏がいた。H氏は毎年縄文土器のレプリカを作り続けている。その力あふれる作品を見て並みの情熱ではないなあ、と思っていた。しばし、その彼と話す機会を得た。彼は各地に赴いて実にたくさんの縄文の出土物を見ている。火焔街道と言われる信濃川流域の出土地域では、見事な火焔土器に触れさせてもらった体験を嬉しそうに語る。こうした実物を見て触った感覚的体験と、本業である電子部品の技術開発に基づく、綿密な分析設計能力がミックスされ、作品制作にフルに生かされている。

目の前に置かれた今年の作品は、群馬のもので、インターネットを通して出土物の情報や写真を入手し、図面を書いて再現した。この文様は踊る人だと言われているが、彼は実際に作って見て、そうではない、これは女性の顔だと直観したという。女性器も埋め込まれているから、豊穣への呪術的な祈りと関わりがあることも想像される。彼の話では、文様とその呪術的な意味合いは小集団ごとに違い、相互に秘匿されているのだという。くびれ部分に付いた取っ手が、装飾と思っていたら、上部を支える構造的な役割を担っていることを知ったという。情念的な観点からのみ見られがちな縄文土器と言えど、その形は合理的な思考によって制御されいると知るのは、製作して見て初めて分かることだろう。

一次資料となる文献がないことをいいことに、出土物や遺跡跡などから想像をたくましくて作り上げた様々な人の知見を読み込んで、縄文像を作り上げることには、どこか胡散臭さを感じていた。しかし、彼の話を聞いているうちに、縄文探求のために実際に作って見て、プリミティブなやり方で火にいれてみるというのは、結構悪くない方法だなあと思い始めていた。なぜなら縄文人であれ現代人であれ、同じ感覚と思考機能を持った共通の人間である。その連続性の上に、制作し火と相対するうちに古層と呼ばれる深いところに眠っていたものが蘇ってくることはあり得ないことではない。

もう一人、窯出しの場にいた作家のお名前をあげておこう。児玉智江さんは、祭りの初期の頃から参加し、大賞、池田満寿夫賞を始め何度も賞を取っている常連アーチスト&詩人。(だから、実名を上げても許していただけるだろう。)幾分これまでのものより小さくなったが、彼女ならではのスタイルのトルソを今年は無事に焼き上げた。今はお一人だがかつては車椅子に乗ったご主人と毎年のように来ていた。ご健在で、精力的に制作を続けておられるのがとにかく嬉しく、駆け寄って握手をした。一方では、年々、好きな人がやってよとばかりに、メインの野焼きはそっちのけで、しつらえた舞台で次々繰り広げられるエンタテーメントを、スマホ片手につっ立って見るだけの人たちが増えてるように感じる。これは今形を変えてどこでも見られる光景だと思うが、彼女のような(最大の実質的功労者の陶芸家の本間伸一氏はもちろん)本当に野焼祭の精神を担っている人たちを大事にしてほしいと、心から思う。

もっとも里帰りの若い人は、とにかく都会でのストレス多い仕事にクタクタで、昨今は一段と余裕がなくなっているのだろうなあ、と想像する。私のような作家でない凡庸の人も、燃え盛る炎を掻い潜り、汗みどろになって薪をくべるだけで、うちにある本能や命のほとばしりを感じる、本当の意味で贅沢な経験ができる、いいチャンスなのに、残念だ。
(写真右はH氏の作品、本物の上端の飾りはもっと大きい。しかし、支えきれず一回り小さくなった。左はH氏が私淑する大木義則氏ー実験考古学的活動を中心に縄文文化の謎を探求する縄文文化研究会の主催者ーの思いがたっぷりこもったディープで存在感ある作品である。)

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平福百穂展 実相観入の道行き 7月13日(土)〜9月1日(日) 宮城県美術館

2019-08-16 15:43:56 | レビュー/感想
突然目の前に出現した、俄かには分からない「もの」に驚いた。タイトルには「七面鳥」とある。それが今まさに六曲一双の屏風の上を、体を膨らませたりデフォルメさせながらコロコロと動いているようで、見る者もその動きとともに余白のうちに巻き込んでしまいそうだ。一般の絵の概念、それも流派に分かれ、チマチマとした約束事に縛られた日本画という狭量なカテゴリーなど、吹っ飛んでしまうような、命あるもの実相をまさに写し取ってダイナミックな存在感がある。これを見られただけでこの展示会に来た甲斐があったと思った。

平福百穂というと、どのような作品を描いた作家なのか皆目知らなかった。角館にありながら中央画壇でも大家として業績を残した経歴から、地元を中心に過大評価されているのではとも思っていた。展示会の案内チラシの代表作とされる小さな作品写真からは、やはり表面的な美しさを基準にした日本画のステレオタイプの静力学を抜け切れていない印象で、正直あまり期待はしていなかった。それが入り口近くで16歳のとき描いた「武尊誅梟帥図」を見て、いやこれは違うかもしれないと思った。当時の美術雑誌「繪畫叢誌」に「筆力勁健なり」とまで評されたとあったが、少年期にして既成の枠を突き破って魂から迸る力があった。

平福百穂の父、穂庵も東京の中央画壇で活躍した画家であったが、13歳の時に早世している。手持ちの資料から作例(「乳虎」)を見たが、不思議な深みを持った絵だ。自然の実相を写そうとするDNAがすでにここにあるように思う。この父から百穂はほんのひと時だが、絵の手ほどきを受けたという。才能を認めた父のパトロンの援助もあって、上京。円山派の分派、川端玉章の内弟子に入り、次いで東京美術学校日本画科選科にも通った。そこには当時は岡倉天心を校長として、その理想を体現しようとする日本画革新の流れがあった。

その模範的な具現者として菱田春草があげられると思うが、その傑作と呼ばれる絵を見ても、それを実現した非凡なテクニックや才能には感心するが、計算通り一部の隙もなく完璧に仕上げられた、結局は学校や公募展に受けの良い綺麗な、文字通り「絵空事」のような絵に見えて好みではない。むしろ、期待に応えようと日夜精進し命を縮めた人生に、天心というカリスマ、強烈なイデオローグに振り回された無惨さを思う。

百穂は、大見得を切って進められるような、この主流の動きには馴染めなかったようだ。画家の本能は、観念から入って完成された綺麗な日本画を描くことに抗っていた。友人に「自然のままを描くのが本当の絵だ」と語っている。そこから、小坂象堂の日常の生活風景を描いた「養鶏」に感銘を受け、自然主義を標榜する无声会に加わり、写生の追求を始めた。入学した東京美術学校西洋画科では洋画デッサンを経験し、着実に写生手法の幅を広げて行った。

日本画の画材にはなかった市井の働く人々を描いて、雑誌や新聞の挿絵の仕事を求められるようにもなった。当然、自分の思う絵を描いていくための経済的な裏付けを得る、というリアリスティックな計算もあったであろう。「國民新聞」に入社して描いた帝国議会の挿絵は、江戸の近代人渡辺崋山ばりの写実で、線の運動の中から自然に対象の性格が浮かび上がり、ユーモアさえ滲み出て来て、世間の評判もよかった。

一方で、文展にも繰り返し出品を続けた。「アイヌ」「木槿の頃」「桑摘み」などの出品作品を見ると、入選を狙って企むことなく、探求している写実の姿を素直に見せていて、いづれも清々しい印象を持つ。先の「七面鳥」は、大正3年(1914)、第8回文展に出品した作品で、三等となった。墨のにじみを活かした「たらし込み」技法が用いられている。「たらし込み」は琳派の手法とされ、カタログでは同時代の琳派再評価の機運に触れるが、その不思議な「粗々しさ」(斎藤茂吉)から滲み出た精神性は、光琳より宗達に近いところを志向していると思う。

この後、新南画に取り組むようになるが、百穂は蕪村の絵画を評して「筆墨の形式にとらわれず直ちに自分のかき表わそうというものをつかまえている。即ち直接性がある」と書いている。写実主義と言っても主観から独立して物を捉えることは不可能だ。百穂の方法は、対象の概念化が始まる前に、感覚や心に捕らえられた「もの」の存在感、生命感をどう定着させるかというところから来ている。自ら「直接性」と言い、また「放脱的」と評されるのは、この故であろう。そこに、近代の絵画が失ってしまった、雪舟や仙厓の古画を産み出した精神への強い憧れを見る。

しかし、百穂の庶民の生活を描いた写実画や欧州旅行のスケッチは、欧米の画家が描いたと言ってもおかしくないモダンな感覚に富む。夏目漱石が「七面鳥」を賞賛したという話は興味深いが、他に優った近代精神を持ちながら、そのことに批判的なアンビバレンツを生きた二人に、ジャンルを超えた共通性を思う。百穂については、続けて書く予定。

(写真は「牛」(六曲一双)。「七面鳥」の写真は、著作権で厳しく保護されているようで入れられなかった。展示会では個人蔵の表記すらなくて、どこにどう保存されているのだろう。)

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