美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

前衛のみやぎ 6月20日~8月16日 宮城県美術館

2009-07-22 09:53:06 | レビュー/感想
この展示会の中心的な作家、故宮城輝夫さんとは何度かお会いしたことがある。もっとももう20年ぐらい前のことだ。その頃、某デザイナーと共同で借りていた事務所は、デザイナーがデパート系ギャラリーの企画運営をまかされていたこともあって、企画展が近づくと画家の卵たちのたまり場状態となって夜更けまでアルコールも入ってにぎやかだった。そこにたびたび訪ねてきたのが宮城さんだった。私は当時、宮城さんについては、地元大学の美術系大学の教授という以外ほとんど知らず、お話ししたこともなかったが、ベレー帽に赤い鼈甲のメガネという特異な(?)いでたちは、伝え聞いた往年のアバンギャルド、滝口修三とも交流があったシュールレアリストの面目躍如で、穏やかな風貌ながら嫌でも目を引き独特のオーラを発していた。

後日、油業系のPR誌で宮城さんの作品を紹介する企画があって取材のためお宅にうかがった。仙台北部の起伏の多い団地にあったご自宅は、坂の下にめり込むように立っていた。昭和30年代によく見かけたような変哲もないモルタルの住居だった。通された畳部屋のアトリエは、薄暗くてあまり覚えていないが、襖を挟んだ奥に画架が立てられており書きかけの絵が掛かっていたような気がする。画家はどのように絵のインスピレーションを得るかを静かにとつとつと話してくれた。就寝前に枕元にスケッチブックを置いておき、いつでも目覚めたときに夢に出てきた生物たちを忘れないうちに書き留めておくのだという。

宮城さんの絵に登場する植物とも動物ともつかない、夜の国の住人たちはこうして描かれたものだ。私は宮城さんの絵の中でも、初期のこうしたキャラクターたちが作家の魂の住人たる切実さをまといつつ登場し始めた頃の絵が好きだ。(「踊り子」「小さな声で」など)この時代はキャラクターのバックのマチエールも夜の闇のように深度がある。造形的にきわめる方向に進み、キャラクターが模倣されていくと同時に、画面はグラフィカルに平面的に、そして大きくなり、一方で心の奥に密かに生息していた切実な声、ポエジーは薄れていく。別の言い方をすれば、縄文の呪術性とシュルレアリズム(ブローネル風)のミクスチャーは、スタイルの確立と共に、日本の屏風絵や浮世絵に連なる伝統的な造形性に回帰していった、とでも言えようか。

展示会場には限定版の画集(第一版画集「夜の旅から」、第二版画集「いろとりどりの驟雨」)が展示されていたが、宮城さんはこのようなアンティメートなメディアにおいてこそよりいっそう魅力を発揮する作家だと思う。オートマチィズムさながらに書かれた序文は今は滅多にお目にかかれない馥郁たる名文で、二度と見れないと思うとしばらくその場を立ち去りがたかった。いささかなりとも所有欲をそそられた。

ところで宮城さんの絵が常時見られる喫茶店が仙台の中心部にある。二番丁通り電力ビル地下のラメール。仙台の喫茶文化の草分けであるこの喫茶店は、初めは地下フロアの中程にあった。実は、今の女性主人が父上から当の喫茶店を受け継ぎ、同じ地下の今の場所に移るにあたって、メニュー看板などディスプレーの相談を受けた。私はこの喫茶店の周りのガラスにぐるりと黒くペイントされた抽象的な造形が、宮城さんがこの店舗のために描いた元絵に基づいて作られたことを知っていたので、ぜひこれを残すことを提案し、トレースをして、カッティングシートで新店舗にオリジナルと遜色なく再現した。戦後、先代が集めた(寄贈された?)様々な在仙画家の絵が掛かっているが、そのうちの2枚は宮城さんの作品だ。一枚は私が好きな初期の「宮城キャラクター」が描かれた絵。そしてもう一枚はバラの花を描いた絵。宮城さんには珍しい具象画だが、リアルではない。抽象画とも共通する宮城さん固有の色彩が躍る。喫茶店ガラス面のディスプレーとともにご覧いただきたい。なお、ラメールの珈琲は昔ながらのドリップ珈琲。戦後昭和の懐かしい空気感を醸す喫茶店にぜひお立ち寄りあれ。

展覧会評といいながら宮城さんの話ばかりになってしまった。この展示会で最も心引かれた作品の名を最後に記しておこう。加藤正衛の「庭」。感性の深いところに訴えてくる流行を超越した絵だ。加藤正衛は東北大学医学部の解剖学教室に画工として勤めていた。地方で美術教師(出展画家の経歴を見ると圧倒的に多い)とは違う職業で糊口しつつ、画家の魂を純粋に全うするには、ある意味で理想的な環境ではなかったか。 ダダカン(糸井貫二、初めて作品を見た!)とはまた違った芸術家の真っ直ぐな貫き方を教えられた気がする。

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染付 藍が彩るアジアの器 7月16日 東京国立博物館

2009-07-20 13:45:24 | レビュー/感想
時代や地域によって多様な展開を見せる「染付」の器を短い時間で概観できる良い機会だった。最も心引かれたのは元時代の「青花蓮池魚藻文壷」。完成された中国の水墨画がイリュージョン(バーチャルリアリズム)の現出に主眼があるとしたら、この元時代の「染付」も同じ目的を持っていると思う。ただし前者は写実性、後者は装飾性において。展示会の解説に述べられているごとく、描かれた池中の世界は、アニメーションを見るかのようだ。壷の回りを巡りながら眺めていると、まさしく揺らめく藻を縫って多様な魚が泳ぐ水中世界に引き込まれてしまうかのように感じる。口縁の波濤文、唐草文が絶妙なリズムを刻み、装飾化された魚や水草がゆったりしたメロディーを奏でる。見る者をひとつの音楽的な世界に導くよう、卓抜な筆先の力が駆使されているのである。展示の最後には江戸後期、伊万里の染付大皿の見事なコレクションを見ることが出来た。イリュージョン的な中国絵画の影響を脱し、空間と形態の造形的表現において独自の発展の道を辿り浮世絵において大衆化した日本美術の特徴は、この伊万里の大皿の染付にもはっきり見て取れた。大陸との真っ向勝負を避けることで見出した独自性の要は、歌麿や写楽などの浮世絵と同じトリミングの妙にある。

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