美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

出口王仁三郎とその一門の作品展 4/6~10 宮城県美術館県民ギャラリー

2016-06-08 06:25:14 | レビュー/感想
宗教家の作品(作品と言ったらいいかも疑問なのだが他に言葉がないのでこうする)を面白いと思う。日本で言えば仙崖や白隠の禅画がそうだ。先に宮城県美術館の県民ギャラリーで見た大本教の教主出口王仁三郎の作品にもぶっとんでしまった。岡本太郎ならまさしく「これはなんだ」の世界だ。とりわけ「みちのくの滝」と題する作品には技巧を超えて奇跡的になりたった趣きがある。(今杜の未来舎ぎゃらりいで展示中の野中光正氏の抽象作品にも同質の感銘を受ける「滝」の作品があるので見に来て欲しい)俵屋宗達と同じ魂を持っている、こういう人物がほんの一昔前昭和の時代とクロスしていたなんてちょっと信じがたい。

私は王仁三郎が仙厓や白隠の作品を見たかどうかなど(「至誠」という書軸は白隠の作品に匹敵する。いや伸びやかな分それ以上だ)考証するつもりはないが、なぜそうなのか考えてみた。おそらく、彼らには往々にして画家が何かを表現するときどうしようもなく働いてしまう自己顕示欲がないのだと思う。もっとも修行や伝道の目的で描いているわけでそれが出たら「生臭なんとか」になってしまう。
最近大流行りの若冲にしてもどこかに「どうだこんなに描けるんだ。すごいだろう」というのが感じられていやな感じを受けるときがある。円山応挙に大変な対抗心を持っていたというのは最近知ったところだが。大体そういう作品はくどくどしいが世間は感心する。形はパターン化し、その同じパターンをデザイン感覚でハンコで繰り返し押したような作品になる。デザイン思考が行き渡り、デジタル時代の今ならそれはもっと容易になって、誰にも慣れ親しんだ表現となっているがゆえに評価も高く人気も出るわけだ。
それじゃ宗教家ではなく画家としての自覚を持って生きていかざる得ない人はどうするのだ、ということになるが、変人奇人に徹するしかないということかもしれない。もっともそれを意識して行うともっといやらしいことになる。ルネ・マグリットはそのいやらしさを知っていたから表向きはシルクハットの紳士の仮面をかぶった。表向きは絵を描くのをやめてチェスに没頭していた人もいた。だが韜晦というのも最高にいやらしい技術だ。

しかし、ほんとうの変人奇人は無意識の人だ。先に書いたボローニャから出ることなく同じモチーフの静物画を生涯書き続けたモランディもある意味でとてつもない真性の奇人だと思う。ゴッホなぞはほんとに涙ぐましい。一生懸命、世間と融和し、画家として大成して弟家族を楽にしてあげたいと考えている。でも世間の目からすれば奇人どころか危険な狂人なのだから、精神病院に隔離されてしまう。それでないとあんな別世界から飛び出てきたような、化け物じみた怖いひまわりの絵なぞ描けないだろう。危険な領域にまで踏み込んでそのリアリティを描いてくれたゴッホは、その意味で稀有の人であり、「聖ゴッホ」とでも言わざる得ない。
(写真は「みちのくの滝」水墨画 軸 155×70cm)

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