美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

第5回とうほく陶芸家展inせんだい開催にあたって 手の人が作る小さな器が巻き起こす生活の微風

2018-05-15 21:02:53 | レビュー/感想
昔ながらの器がなかなか売れないのは、和の生活が消えてしまったことにあると誰もがいう。確かにめったに膝を折って食事をすることはなくなった。しかし、だからといってそこで長い間積み上げてきた器のかたちや厚みや重さや色彩の感覚を捨てていいということにはならないと思う。伝統の窯を交えて、この展示会を続けて行く意味のひとつは、そこにある。これまでの器に受け継がれてきた蓄積を大事にしつつ、流行に流される器でなくて、現代の生活に根ざした「使える器」を作り続けて行く、その道筋と環境がこの展示会でのお客様との対面、そして作家同士の交流の中から生まれて来てほしいと願っている。
ここに集まっている作家は、いずれも器を作って売ることを生業として、またそうありたい(正直厳しい世の中だから必ずしもそういかない現実がある)と思っている作家たちである。そうした生活の座が成り立たなくなるとき、東北の風土の特徴を帯びた手づくりの「使える器」も消えてしまう。モダニズムの究極的な姿を呈して、都市的環境はますます均一化の方向を加速している現実。器の世界もすべて頭の人のデザインに基づいて設計された工業製品、ユニフォームになってしまうだろう。そのことの寂しさ。
手づくりの小さな器に込められた特徴ある風土の匂いと作り手の思いが、使うものの心にも微風のようなものを巻き起こし、ささやかながら、命にあふれたほんとうに豊かな生活をしていくための入り口になればと思う。

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予告 野中光正&村山耕二展  2018 6月14日(木)〜23日(土)杜の未来舎ぎゃらりい 

2018-05-10 13:01:27 | レビュー/感想
創るもの、生まれるもの。このふたつがうまくミックスされ、バランスされたところに作品が生まれる。創り込みすぎてもだめ、生まれたままでもだめ。作品として成り立つには、分かたれないひとつのもの=美として成立していなければならない。このふたつを絶妙にバランスさせるものは何か。神というか、自然というか、それは人間の知恵においては、永遠の謎なのだが、作家のモチベーションの大元にあるのものに違いない。個性も年齢も出自もすべてが違うふたりが年に一度の展示会で出会い続けられるとしたら、この共通点においてだと思っている。
村山の作品は、日本からモロッコまで、世界を巡る幅広い行動力から生まれてきている。無辺の大地から抽出されたエキスが感界で捉えられ、美とつながる野生の思考に育まれ、手の内でいのちあるかたちとなって吹き出している姿を見る感動。もちろんこの錬金的変容は稀有な個性のうちだけでは生まれない。真っ先に砂や炎や光や自然の計り知れない力、そして同じ魂を持って器を日常に引き入れてくれる人々、このふたつの強力な坩堝を持つ作家の幸せ。
野中の立体作品には、地方人には真似のできない、東京下町浅草の生活に根づいた昭和モダニズムと、彼の中核にある部分、戦時中、中島飛行機の部品を作る町工場主であったという、父のDNAを受け継ぐ堅固な職人魂が見て取れる。綿密に構築する美的設計がないと、彼の「零戦」は飛翔しない。一方、従来の平面作品(木版画モノタイプ・ミックストメディア)が繊細な調和を見せるのは、それが音楽のように軽やかに優雅に舞い降りた瞬間であったのだろう。このふたつの美を成り立たせる複合的な人格の不思議さ。