美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

第4回とうほく陶芸家展(5月26日〜28日)開催に際して、そして東北最古の窯「相馬駒焼」の現在

2017-05-24 16:43:55 | レビュー/感想
昨年度は会場の駐車場が土砂に埋まり中止を余儀なくされた「とうほく陶芸家展」を再開することとなった。会場で配るパンフレットの冒頭にこの展示会の目的を述べたので、以下に再録しておこう。

4回目の展示会となりますが、震災からの復興支援の意味合いが強くあったこれまでとは開催の意味が微妙に違って来ています。端的に言えば、東北らしい陶芸の姿をどう残していくか、という点にウェイトを置いた展示会にこれまで以上にしていきたいと思います。マーケッテイングをベースに使い手のニーズに基づき頭でデザインするという一見スマートなやり方からは、同じようなテクスチャやかたちのものしか生まれないというのは巷に見るところです。そういう中で、東北の陶芸を他と差別化していくには、これまで受け継がれてきた伝統、東北の風土が育てた感性という2つのものを自覚的に出していく必要があるでしょう。その意味で、長い歴史を経て風土の感性を染み込ませ、多様な試みの集積を財産として持っている伝統窯と、東北の地でリアルタイムで使い手の反応を見ながら個性を磨いている個人窯が交流する場としての存在意義は大きいと思います。生活環境の東京化=ステレオタイプ化の中で、暮らしの変化にあるところでは合わせつつも、時代に流されず、「東北の魂、心はここにあり」といういのちあふれる器の魅力を、新鮮なものとして若い世代にもアピールしていければと願っています。

今回は会場のスペースの都合もあって、参加の窯は20窯に絞った。なかでも第1回以来ずっとご参加いただいていた相馬駒焼が今回は見られない。残念だが故15代の作品で買い求めやすいものは残り少なくなって貴重品ばかりとなった現状で、故15代の奥様に神経を使う出品を依頼するのは憚れた。
相馬駒焼の元禄の初期形態を残す窯については、県の文化財課の尽力で窯の保存処置がなされることが決まった由を前に書いたが、その結果窯を囲む立派な鞘堂ができた。ただし、あまり立派過ぎて、煙が内部に滞留してしまい、これで昔のように窯を焚くのは難しくなった。奥様の話では来年春には一般公開されるという。
かくして震災前まで稼働していた東北最古の相馬駒焼は文化財になってしまった。あとは窯のまわりに散らばっていた古い窯焚きの道具まで含めて、研究者や陶芸家の視点を入れた適切な保存を望むのみだ。
古い窯は使えなくても、いつか相馬駒焼に後継者が現れ再興される日が来ることを祈りたいが、その時はもはやかつての趣は再現できないかもしれない。大きな障害は土の問題。かつて代々陶土を採集してた場所は除染が進んでいない。それを見透かすかのように、太陽光発電の業者が土地使用を願い出てきたがそれは断った由、奥様から伺ったが、ここの土を使えないとしたら相馬駒焼を名乗ることができるか疑問だ。東北の伝統窯はいずれもその土地土地の土を使ってこそ意味があるからだ。この土の特性に縛られる中で他にないユニークな造形がなりたっていたからだ。これは今他地域から仕入れた土でかろうじてなりたっている大堀相馬焼が抱える問題でもある。再興の手助けは出来ないが、せめてその貴重な歴史を事実に即して残し、一般に知らしめる役割は微力ながらこれからも果たしていきたいと思う。

野中光正・村山耕二展  4/22-30  ギャラリー絵屋

2017-05-08 14:17:23 | レビュー/感想
新潟の町屋を再生した趣あるギャラリー「絵屋」での「野中光正・村山耕二展」。3年前初めて2人の展示会を「絵屋」代表の大倉宏さんに持ちかけた経緯もあって、私もラスト2日間会場に赴いた。今回も2人の作品が出会って心地よい協和音を奏でていた。
絵(木版を用いた混合技法)とガラスとジャンルは違うが、2人には似通った点がある。野中は、自らの創作に毎日午前中の同じ時間に始めその日のうちに終えるリズムを課している。それは日記を書くのと同じようなものだから、タイトル代わりにそっけなく日付が入っているのみだ。一方の村山の創作は、野中と違って物理的な制約に基づくものだが、炉から取り出した高熱で溶けたガラスが固まるまでの時間に限られている。
2人とも油絵や陶芸のようにかたちや色をいつまでも持て遊ぶことを避けた、あるいはできない中で創作を続けている。それは彼らの執着しない、まっすぐな性格にもあっているのだろう。そんな中でどこで手が止まるかは創作のもっとも深い秘密に属することであろう。2人とも頭で考え思いを膨らましながらではなく、手が勝手に動いてかたちができていく時があって、そういう時が気持ち良く自分が好きな作品ができていく時だと語っている。雑念を去って素の心が働く瞬間とでも言ったらよいのだろうか。
そういうとき、野中の作品であれば、もう一筆も加えられない感じで絵は絶妙なバランスで止まっているし、村山の作品であればこれ以上かたちを変えると崩れてしまいそうな繊細を極めたぎりぎりのところでかたちが止まっているように見える。止まっているというのは、そこで終わっている、ちんまりまとまっているということではない。それは次の瞬間には動き出すように生きているように止まっているのである。
そこはこの世界の向こうの美の領域の瀬戸際でもあるのだろうか。創り続けることに究極のモチベーションがあるとしたら、ヤコブの梯子のように突然降りてきた美(あるいは永遠)への階梯が垣間見られるこのめったにない瞬間を体験すること以外にはないように思う。天性の才能に加えて、当然この瞬間を呼び込むためには長い間の単調な技術的な修練も必要とされるのだろう。才能や修練の度合いでは到底及び難い単なる鑑賞者も、作品をただ見るだけで、この瞬間を盗み見ることできるとしたらなんとも幸いなことだ。
(この作品展は6/5〜18杜の未来舎ぎゃらりいでも開催予定。)

第80回河北美術展 4/27~5/9 仙台市藤崎デパート

2017-05-05 16:26:34 | レビュー/感想
地元新聞社主催で80年も続いている展覧会だが、自分の評価とはだいぶ違う結果でいつもがっかりするので、今年は行くまいかと思っていたのだが、友人から招待券をもらった手前、いそいそと出かけて行った。会場は例年どおりデパートの催事場をうねうねと仕切った壁に作品が目一杯飾られている。ゴールデンウィーク期間中ということもあって通路には人がいっぱいで、正直とても一点一点静かに鑑賞する雰囲気ではない。展示環境のせいだけでなく疲れを覚えるのは、河北展に限らずどの公募展も一般的にそうなのだが、ほとんどの作品が下心満載で人に見せる顔を最初から作ってしまっているからなのだろう。ちょっときつい言葉で言えばほとんどが「嘘つき」の絵で、だからその公募展は「嘘比べ」となってしまう。実際目を引くよう意図的に作った顔が独創的な表現だと評価されている現実が入選作を見るとあるようだ。最近個展で見て力量を評価していた彫刻家なぞも正攻法ではだめだと思ったのだろうか、へんちくりんな台座をつけて作品本体の魅力を台なしにしている。
その一方で、相変わらずこれぞ絵だと思われている一般受けする題材とタッチ、色彩で描いたような作品が並ぶ。よくある題材を選んでも本当にそれが心から好きなものであれば、他の人も魅了するものになったかもしれない。また、一般的な観念に流されずに対象を見続けていれば、リアリティとともに不思議さが滲み出てくるものになるはずだ。当たり前のことだが、アイデアや細工に長けていても嘘があるところに他の人を感動させる独創性や個性は生まれない、と思うのだが。さて、生活や人格もさっぱり伝わってこない絵を描き続ける意味とは何なのだろうか、そんなことまで考えさせられる。クレヨンでかたちもタッチもなく無茶苦茶に描いた絵が入賞していたのは、精神的空虚を示すアイロニカルな表現として選ばれたのだろうか。他にも新奇性だけで選ばれたのではと思うような作品が何点かあった。審査員は、それぞれ習熟したスタイルを持っている画家の方々であろうが、必ずしも作品を見る目と心を持っているとは言えないようだ。
唯一心に残った作品は、入賞も何もしていなかったのだが「光の道」という日本画であった。暗い沼の横を走っているコケに覆われた道が光に向けて走っている。日本画でありながらドイツロマン派の絵のテーストがある。確かに沼の水の表現などに稚拙なところはあるかもしれない。でも流行とは関係なく先人の絵や自然にまっすぐに向かい合って精進している作家を評価してやらなければ、このような地方の公募展の意味はどこにあるのだろう。