美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ルドン 「末期の花」

2011-08-28 19:53:26 | レビュー/感想
女優の松坂慶子さんはオディロン・ルドンの花の絵が大好きなのだそうだ。日曜美術館を通してそのことを知った。その中でゲストの舞踏家田中泯がこの花を評して「正面を見せながら後ずさりしていくような」と言っていた。世阿弥の「秘すれば花」という言葉の蘊奥をついているようでもあって、この絵にふさわしい言葉に出会った感じがした。再現性は保っているが現実の花ではない、まさしくルドンの絵の題名にもなっている「目を閉じて」、自然と観念の総合をめざした象徴主義。武満徹もルドンの絵にインスパイアされて曲を書いているが、ルドンの色彩は音楽が湧き出て来る同じ場所から溢れ出て来ているのだろう。

この花の遠くの風景を目の前に眺めている感じはフェルメールに近いが、少しづつ遠ざかっていくような動きを感じるのはなぜだろうか。この動きの中にルドンの控えめな自己主張があるように思える。ルドンはもともと現実には立脚点がない画家だ。師のギュスタブ・モローの方が題材は神話的だが、自分のカテゴリーを認識している分、遥かに現実的だと思う。エコール・デ・ボザールの教授として、マティス、ルオーといった両巨匠をはじめ多くの画家を育て、教育者としての役割も果たしていた。対してルドンは、終生、此岸と彼岸との中間のようなところから世界を見ていた画家だ。40代まではそれがネガティブな自己主張となって黒い闇に棲む奇怪な生き物を描かせた。

結婚後、子どもを授かった幸福感が、おのずと豊かな色彩となって表れ、彼の住む中間の世界はカラフルな色彩で彩られる。この色彩の質が近代の日本画に似ているのはなぜだろうか。現実に対する切実な葛藤を失った絵は、通俗的な幻想画に堕する危険性も内包している。ルドンの孤独な魂が作り上げた花園にもやがて終わりはやってくる。ルドンの花の美は哀しみをともなっていて、見ているうちに涙が出そうになるのは、この世界から「さよなら」するときに見える花だからではなかろうか。

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駒よ、再び嘶け 「相馬駒焼」上

2011-08-26 14:36:38 | レビュー/感想
ひとつの窯が今、およそ390年続いた歴史に幕を引くか、否かの瀬戸際に立たされている。「相馬駒焼」をご存知だろうか?「相馬焼」なら知っているよ、という方は、たいてい浪江市の「相馬大堀焼」を思い描いているのではなかろうか。「相馬駒焼」は、いわゆる相馬中村藩の「御留焼」であったがため、明治以降も他地域には多く出回らず、大衆的な「相馬大堀焼」と比べ一般の知名度は低い。窯元は田代窯、一軒あるだけである。歴史をたどると田代源吾右衛門が藩命により京都で名陶工 野々村仁清のもとで製法を修得し、師から「清」の一字を贈られて名を清治右衛門と改め、帰郷し開窯したのが始まりとされる。爾来、一子相伝により受け継がれて来た。何年か前に芹沢銈介美術館(仙台、東北福祉大学)で見たのが最初の出会いだった。芹沢銈介が収集した堤焼など民芸系の器の中にあって、唐津焼を思わせるさらっとしたやさしい釉がけと、名前の由来にもなっている味わいのある筆致の馬の絵に引きつけられた。東北の土味と御庭焼の品の良さが調和した器との印象だった。

再び相馬駒焼の名前を思い出させたのは、大震災後舞い込んだ英国在住の陶芸家ガス君嶋氏からのメールを通してだった。手紙の中で、君嶋氏は福島原発に近い相馬焼の状況をしきりに案じていた。英国の陶芸家仲間とつくった東日本の陶芸家の復興支援組織「KAMATAKI-AID」のブログを見ると、見事な古相馬焼の写真にお目にかかった。英国にまで知られている窯の存在を日本の、それも車で1~2時間のところに住んでいる自分がほとんど気にかけていなかった不明を恥じた。君嶋氏がメールに取り上げていたのは、避難地区になっている浪江市の「相馬大堀焼」のようだが、相馬市には、「相馬大堀焼」のみならず、「益子焼」や「笠間焼」の源流ともなる「相馬駒焼」がある。その現況についても知ってもらいたいと思った。ここには元禄以前に築窯された現役の登窯としては日本最古の窯が存在するのである。

8月25日取材の目的で相馬駒焼の窯をやっと訪れることができた。実は田代氏の奥様との電話でのやり取りで、15代田代清治右衛門氏はすでに他界していることを知らされていた。15代は、去年から体調を崩し入院していたが、震災前の春、小康を得て再び製作を開始していたという。しかし、あの未曾有の大地震が襲った。これまで幾多の大地震に耐えた丈夫な窯である。全壊を免れたものの、焚き口と最後尾の房が壊れた、とのことであった。再スタートを切ろうとする気持をくじく出来事であったろう。それでも6月中旬頃焼いた素焼が残っている。50歳を過ぎて時間がないとしきりに言っていた15代だったが、ぎりぎりまで「相馬駒焼」に命を捧げていたのだろう。猛暑の7月に亡くなられたのことであった。享年64歳であった。

訪れた窯は相馬市の駅の近くの住宅街にあった。奥様の案内で、道路に面した店舗の隣の屋敷の門をくぐった。細長い庭をすり抜けたたところに工房があり、その奥の建屋の暗闇にめざす窯は沈んでいた。窯は登窯といっても土で築かれており、穴窯から登窯へとたどる窯の歴史の過渡的な形態を示しているように思われた。もともと窯を掘り込む斜面があった訳ではなく、人工的な土盛りをして窯を造ったのだそうだ。巨大な幼虫のような窯(連房式登窯)の表面はすべすべしており、火を入れずとも生々しく、生物が眠っているようであった。「ここにくるとほわっと温かいんですよ」と奥様がつぶやく。人が膝をついて作業するぐらいの高さしかなく、益子に残る同形態の窯は作業性を高めるためさらに嵩を加えた改良型であろう。14代までは窯の全房を用いて2000点程の作品を焼いていたが、15代は熱効率をあげるために中央の3房を用い、あとは捨て窯にしていた。約20年前の立て替えの時、郊外への移転も考えたが、窯が現役で残っている、また観光のシンボルとして残したい市の方の要望もあり、そのまま住宅街の中に残った。でも、いざ窯焚きのときには、あらかじめ周知していたとしても、周りの住人から通報があり、消防自動車が家の前に待機する始末であった。15代は「こちらが先に住んでいたのだからと頭を下げなかった」という。(続く)

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「百獣の楽園」(京都国立博物館)

2011-08-08 13:50:38 | レビュー/感想
京都に来たら、まずは京都国立博物館の常設館の中央の展示場に無造作に置かれた中世の仏像群に対面するのが習いとなっていた。特別仏像が好きな訳ではないので、単純に恐いもの見たさなのだ。ところがなんと常設館はすっかり取り壊されていて、工事現場の囲みには新しい常設館のモダンな竣工パース等が掲示されていた。がっかりである。暗くて重苦しい時代の建物がときに蒼古的なものを呼び起こす恐ろしいあれら仏像群にはぴったりだったからである。

たまたま開催していた夏の企画展示「百獣の楽園」に足を運ぶ。「百獣の楽園」とは日本美術に登場する様々な動物の姿を展覧するものだ。動物園とタイアップして夏休みの子どもたちを意識しての企画のようだ。そんな客引きの意図を割り引いても、神聖なものから愛玩の対象まで、動物の種類ごとに括って展覧する趣向は面白いが、興味は博物誌的なところにはない。やはり心を惹く絵との出会いがあるか否かだ。

ざっと展覧してもういちど戻って見たのは円山応挙の「雲龍図屏風」と長沢蘆雪の「朝顔に蛙図襖」だった。期せずして京都円山派の創始者とその異色の弟子の「写実的」といわれる作品に心惹かれた訳だ。応挙の「龍」には、うねりながら飛沫を上げて流れる渓流の姿を描いた応挙の絶筆「保津川図屏風」を見たときと同じ、背筋がぞくぞくするような感じに襲われた。実際に見たものではないとこんな龍は描けまい。そう思わせるぐらい迫真的だ。これに比べると他の作家の描いた龍は「漫画」=「龍という名の記号」に過ぎないように思える。そしてのたうち回る龍を孕んで、激しく渦巻き、変化し続ける雲の海。自然に対する畏怖の念を増幅する応挙の写実技法には舌を巻く。この写実の精神は見えることのボーダーを突き抜けて心霊的なものさえ捉えようとする。

人間の眼はカメラの眼ではない。言葉をかえれば見える世界を見続けることによって、心の奥底にある何かが滲み出て来るのだ。戦慄的な表現はそうした人間精神の底知れなさの表れでもある。ここで近代の写実の精神は、その合理的なフレームを超えて魔術的な世界に踏み込んでいく。これはレオナルド・ダ・ビンチが孕んでいるヌミノーゼと同じ性質のものだ。

長沢蘆雪は師の写実の本質を理解していたのだろう。そして技術的な修練を積んでも応挙にはなり得ないことを知っていたのだろう。「朝顔に蛙図襖」には、二番手が円山派に足を救われずにどう描いたか、がかいま見れる。師の生真面目さと違って、ここに見て取れるのは脱力を持ち味とする剽逸な魂。朝顔の蔓がどうしてここまで伸びたのだろうと言いたげな、蛙のとぼけた表情には師にはないユーモアの精神が見て取れる。

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セガンティーニと久方ぶりに出会った

2011-08-02 00:26:09 | レビュー/感想
日曜美術館でアルプスの画家ジョバンニ・セガンティーニが取り上げられていた。ずいぶんと懐かしい名前だ。高校の時、一巻ものの西洋美術事典の粗末なすり色の小さな絵になぜか心惹かれた。小さいときから空に近い屋根の上やら木の上が好きだったせいかもしれない。

高校では山岳部に属し、休日ともなれば山登りに明け暮れた。最初に入部したのは美術部だったが、他の部員のように大人びたデッサンができないのが決定的な才能不足のように思え、途中で山岳部に鞍替えした。高い場所にのぼれば上るほど何かが得られるかのように感じていた。雲海に映った自分の影の頭部に光輪が出来る「ブロッケンの怪」は、山好きなら当たり前に出会う現象だが、ナルシスティックな魂にとっては特別なエピファニー体験のようなものに思えた。青春特有の矜持が高所「嗜好症」に罹患させ、センガティーニを真の画家の代名詞のよう奉らせた。

しかし、魂にヒエラルキーがあるかのような幻想は一方で自分を追いつめていく生き方を強いてしまう。「狭き門」のヒロインがかかった典型的なオブセッションじゃないかと思ってはいたが、それが凡庸な無能者の唯一のアイデンティティとなっていたゆえにかんたんには逃げられなかった。絶望と希望の両極端をたえず揺れ動いて、その中間で宙づりになったような魂には、都会の雨上がりの夕暮れに見た群青の空は切なく胸に痛かった。しかし、その後劇的な転換に遭遇したわけではない。いつまにか思い描いたものとは似ても似つかぬ凡庸な人生の泥沼に引き込まれるにつれ、堪え難い心のうずきも、そしてセガンティーニへの関心も遠のいていった。

だが、画家であることを運命的に背負った者には、絵筆を離さず絵を描きつづけることにしか試行錯誤の舞台はなかった。センガティーニの晩期の作品にアルプスの風景に女性像を幻想的に絡ませた作品がある。幼いときに母をなくした自己のトラウマを象徴主義の手法をかりて克服しようとしたのであろうか?当時の流行である「象徴主義」への些かなりともおもねりもあったであろう。いづれにしろこれらの作品は体験の共有がないと深く心に響かない。かって描いた高原の牛の群れとは違い、聖母子や天使はどこか芝居じみて余計者にしか思えないのだ。圧巻はやはりさらにこの先はないと思われる高所に移り住んで描いた最晩年の風景であろう。淡々と営まれるアノニマスな暮らしのシルエットは、実は死と隣り合わせのわれわれの普遍の姿でもある。ついには放散する粒子となって空にとけ込むばかりの至福の魂がそこには描かれている。

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