美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

馬渡裕子展 5/3~6/16 リアス・アーク美術館(気仙沼市)

2019-06-27 19:48:33 | レビュー/感想
昼間に我々が経験したことや見たことは無意識層の中に積み上げられ、夢の中で唐突に予想外のイメージとなって蘇ることがある。馬渡さんの絵は、この夢のイメージをスナップショットのように、キャンバスに定着させたもののように見える。しかし、夢の形や色をそのまま写実することは難しい。なぜなら夢は眠っているときの脳の働きによって生まれる極めて主観的な閉じた体験だからである。目が覚めて我々は夢の片鱗を元にそれを再構築しようとするが、それはすでに意識の世界の出来事であり、「そのような夢を見た」と言ってるに過ぎないのかもしれない。まして、色や形を正確にとなると‥‥

さて、馬渡さんの絵についてである。そう言うことだから、その一見夢のように見える世界は、精神分析の対象になるような夢の報告ではなくて、画家が意識的に作り出した世界ということになる。画家自身、「毎日を過ごす日常の風景とそれを眺める目の間に、スライドのように今そこにない光景を挟み込む」と創作の秘密に触れているが、こういう常人には真似のできない意識的な操作と高度な絵画技術が合間って、画家のユニークな絵画世界を形作っているのである。

それは主観と客観(一般認識としての)の間に精緻に打ち立てられた中間領域のようなものだ。どのような場所かというのを譬えるとするなら、自分の幼年時代のことを思い出したら良い。女性なら片時も離さない人形やぬいぐるみがあったであろう。そしてこれら無生物に想像力を発動させ、極めて生き生きとした生活世界を形作っていた。だが誰もがここから卒業させられる時がくる。それが成長していくことだ、大人になっていくことだと言われつつ、また自分でも納得しつつ。

馬渡さんの絵は、大人になってしまった我々にもこの世界を再び蘇らせてくれる。画家が扱うモチーフには、人間はもちろん、ウサギやネコやクマやトリなど様々な動物が出てくるだろう。しかし、それらはどこか人形っぽい、ぬいぐるみっぽい、あるいは置物っぽい。かといって無生物かというと、微妙な仕草や表情はまさに命のあるもののそれだ。画家が繊細な造形センスとスキルによって作り上げた世界の中で、それらは確かにリアリティーを持って生息している。

ほとんどの作品は平平たる日常の中で、画家のアンテナが捉えた生活風景や物が基本のモチーフになっている。しかし、ときに衝撃波が襲う。例えば、あの大震災はどうだろう。その前には予兆のように一群のお化けが登場してたり、その後には変幻する霊のようでもある巨大な盆栽がクラシックカーと合体するなど、画家の穏やかな絵の世界にも黒雲が広がり不穏な嵐が感ぜられた。この現実の災厄から呼び起こされたかのような異世界からの強い力は、最新作「VS」に例をとれば、力士の目から発するビームとなったり、画家の静止的な世界を時折揺り動して、白昼夢のようなちょっと怖い異様なイメージを喚起する。

勤め先の広告用ポストカードの元絵を始め多くの小品には、言葉にしすぎると魅力が砂のように滑り落ちてしまう程の、ささやかなストーリーが見る者の想像力を刺激する。お馴染みの馬渡アイコンと彼らが生息するギリギリまでシンプル化された舞台装置を通して、誰もが幼年時代に持っていた想像力を働かせて、小さなフレームの中に立ち上がった馬渡世界の構築に参加できる。その開かれた自由さが美術ファンのみならず、一般の人も深く魅了する馬渡絵画の持ち味であろう。

今回は、東北で活躍する若手作家の一人として選ばれ、美術館での初めての展示となったが、一連の馬渡作品が大きな公共空間にあっても、それに負けない絵画としての夢の堅牢さを持っていることを改めて確認できた。

佐立るり子「デジタルと感覚」5/28~6/9 Gallery TURNAROUND

2019-06-09 18:13:02 | レビュー/感想
コンピュータのデジタル環境で作られたものであっても、モノとして出現するときにはアナログとして存在し始めなければならない。佐立さんがトライしているように、コンピューターソフトで作られたものでも、出力時点では紙や布といったアナログ素材を抜きにしては存在できないからである。故に「純粋デジタル」というのがあるとしたら、我々の脳内にしかあり得ないし、それは純粋には取り出し得ないし、我々が五感で触れて見れるものは「デジタル的なもの」でしかない。

だから問題があるとしたら、目の前の驚くべき現実を忌避して、別の現実(バーチャルリアリティ)を創り出せると思っている、本質的にイデオロギーの発生装置である脳に実装された宿命的な指向性の問題なのであろう。しかも、そのような「脳化」の方向は、世の権力を後ろ盾としている。そういう指向性の強い人たちが常に世を支配し、ときには教育というかたちで政治や経済や文化の仕組みを強化し、世の中はそうしたものによって発達し進歩し、良い方向へ歩んで来たように思わせているから厄介なことだ。マトリックスに出て来るような脳内幻想だけで成立する逆ユートピアへと我々は歩んでいかざる得ないのだろうか。

見て触れることができる自然の物質にこだわって、その美とパワーに後押しされて作品を作り続けている佐竹さんは、この脳化社会の逆ベクトルを遡行する歩みをしているかのようだ。この展示会では、「デジタルと感覚」というタイトルから想像されるようなデジタル的な作品が展示されているわけではなかった。佐立さんがデジタルとは何かと思考したあとが、たくさんのプリントや文字によって示されているだけで、展示されている作品とはほとんどつながりを持たない。だから、ここにあるのは「デジタル的なもの」がテレビやインターネットや、ビデオなど映像文化を通して日常に浸透している現代社会に対する、彼女の強い問題意識であろう。農業体験をベースにした子ども教室の主催者であり、母親でもある作家が、余計にそうした社会状況に敏感であらざる得ないのはわかる気がする。

佐立さんの作品は、脳化の先進国である欧米渡りのフレームの中では、抽象画のカテゴリーに入るのだろうが、それは形態や色彩を頭の中で煮詰めて、人工的な材料で造形するという作業から生み出されたものではない。今回の作品では炭と蝋が用いられている。これまでの作品でもそうだが、彼女の作品においては「自然の中で見い出した」素材が素材以上の大きな存在感を持っている。この素材を見出した時点で、もう作品の出来不出来は半ば以上決定されていると言ってもいい。素材の選択と仕込みを重視する料理人のようなものだ。優れた料理人がそうであるように、佐立さんは自然に実在するモノが発する磁力を五感でキャッチし、その素材の力を生かして美味しい料理ならざる美しい作品を作りだす力に優れている。

佐立さんのそうした力は、自然の中で作物を愛情を持って育てていく、淡々とした労働の日々の中で(彼女は美術大学ではなく農業大学を出ている)育てられて来たもので、料理人がそうであるように、天性のセンス、自然にポエジーを感じる力を背景にしている。今回のメインの作品を見ていると、柔らかい日差しを受けて所々に黒土がのぞく雪道を長靴でさくさく歩いているような感触とともに、人工的な都市環境の中ではすでに感じられなくなった春を迎える喜びが鮮明に蘇って来る。

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