美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

2018「とうほく陶芸家展」参加陶芸家を訪ねて 2 ジェームス・オペ 雷窯 (柴田町) 

2018-04-30 11:09:00 | 私が作家・芸術家・芸人
オペさんの窯の名「雷窯」は、近くにある神社の来歴と関係がある。折石(さくせき)神社というのがその名だが、大樹に囲まれたこんもりとした丘陵があって、お狐さんの石像を両脇に配した鳥居と社に通じる石段が設けられているのが県道からも見える。オペさんの話だが、社には雷に打たれて割れた大石がご神体として祀られているという。幻妖な趣きの大きなお狐さんといい、鈍感な私にも強い霊気が感じられて、何だかおっかない。勝手な想像だが、古代ケルトの石の文化と近似するものを感じて、オペさんはこのパワースポットを選んだのだろうか?それについては今度会うときに聞いてみることにしよう。
オペさんの窯はこの神社と県道を挟んで向かい側の丘を分け入ったところにある。以前来訪したときの記憶をたどって走ったが、結局行き着けず、折石神社の前まで迎えに来てもらった。彼の工房は立木に埋もれるように建っていた。古代然とした環境と山里の隠れ家のようなこの小さな家で、英国ポップな作品が作られているとは誰も思うまい。
オペブランドは、カラフルなレインボーカラーの釉がけで知られる。雷雨のあとにかかる虹は、工房の場所とも結びつく。オペさんの器には、雨雲が去り光が差して虹がかかるときの晴れやかさが感じられる。しかし、よくある衣裳に走って使いにくい器ではない。とりわけ紅茶茶碗には、英国と日本の用の器の伝統が絶妙に融合されていて、我が家では常用品となっている。
ロンドンの中心部から少しはずれた静かな住宅街に生まれ、大学をドロップアウトして、アルバイトでためた資金を元に世界に飛び出した。様々な仕事をしながら、米国を縦断し、ハワイ、フィリピンを経て、少年時代の焼物修行で中国系の先生から教えられた焼物の本場、日本に行き着いた。それから相馬焼に弟子入りするまでの詳しい経緯は、最近出た雑誌「りらく」を見て欲しい。オペさんにとって極東日本は、思うがまま轆轤を引くための「虹の端」だったのだ。
オペさんはコンクールにも意欲的に挑戦し賞をとっている。訪れたときも4月の半ばから始まる日本現代美術工芸展 に出品するという作品が置いてあった。口を半ば開いた貝のような形状の作品は、外に雲がたなびき、内側にはやはりあのレインボーが描かれていた。
帰り際、鴨居の上にデビット・ボウイのな70年代の傑作「アラジン・セイン」のアルバム表紙が飾られているのが目に入った。虹色のブラシを顔に施したボウイの写真とオペさんとのつながりについても、今度の展示会で聞いて見ることにしよう。

「折石神社」については以下に詳しい。
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/a15755737e4ad77daf01349d7be361bf

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2018「とうほく陶芸家展」参加陶芸家を訪ねて 1 工藤修二 座主窯 (栗原市) 

2018-04-30 10:44:18 | 私が作家・芸術家・芸人
陶芸家の工藤氏には藤沢町で毎年8月に開催されている「藤沢野焼祭」で何度かお会いしていたが、なかなかお話しをする機会がなかった。「藤沢野焼祭」は、1976年、同町の陶芸家本間伸一氏の発案によって始められたものだが、工藤氏はその1年前に本間氏の一番弟子となって焼締陶器の世界に入った。一人で最初から最後まで関われる手仕事に関わりたいとの思いを抱いていた彼に、陶芸はまさに打ってつけの仕事であった。
工藤氏の窯は、美しい花山湖を眼下に望む高台の地に設けられている。私が赴いたときは3月の半ばであったが、例年になく暖かい日が続いたせいか、道路から雪はすっかり消えて、湖には澄んだ雪解け水が満々と湛えられていた。この湖と対面するかのように傾斜面に本間氏と同型の穴窯が鎮座している。1300度近くまで温度を上げて猛り狂う炎とそれを鎮めるかのように静かに佇む湖。その対称の妙を今度は見に来たいと思った。
窯は今年は1月、4月、9月の3回焚くという。窯の両脇には秋田から原木で取り寄せた赤松の薪が積み重ねられている。土は山形県の大石田から運ぶ。花山の近隣は栗駒山系の火山層が分厚く覆っているので陶芸に使える粘土がとれないという。かって湯の倉で地層が深く露出したところを見つけ、採取を試みたことがあったが、2008年の岩手・宮城内陸地震により採取が困難となった。
新しく取り組んでいるのは磁器土を使った焼締。 薬をかけたものも試みている。焼締の醍醐味である自然釉や窯変を生かした工藤さんの作風に新たな魅力が加わるのが楽しみだ。
奥様のお話では、近年は花山も国際化の波と無縁ではなくて、オーストラリアやスウェーデン、アイルランド、インドネシアなど多様な国々の人々がこの風光と陶芸家の生活に魅せられて訪れる。おみやげに工藤氏のどっしりとして力強く、素朴な趣のある土瓶を買って、ほうじ茶を愛飲している外国人もいるという話は、自分のことのようになんだかうれしい。
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野中光正展2016/2・3~12 (ギャラリーアビアント)から野中語録

2016-01-21 10:35:56 | 私が作家・芸術家・芸人
野中光正さんは、浅草の画家であり版画家であり、毎年展示会をお願いしている作家さんだが、実は色彩とかたちで音楽を演奏されている方と言った方が良い気がする。すばらしい音楽を演奏するために、彼は持って生まれた才能はさることながら(20歳の時描いた風景スケッチを見ただけで、ずば抜けた才能の片鱗が見えてこの人は特別な人だなと思う)、40年以上の長い間、日々日記のように欠かさず作品を描いて、一人で何種類もの楽器(筆、色、和紙、キャンバス、版木、馬楝など)を感性が導くままに自在にこなせるまでに技量を磨いてきた。その総決算として、最近の作品には誰にも真似のできないようなすばらしいオーケストレーション(主としてクラシックの)の響きが聞かれる。
自分に与えられているものに正直な方でその自然なまっすぐさが作品にも出ている。これは受けそうだから、流行りだろうから、取り入れてやろうなんて小賢しくいやらしい計算が微塵もない。もっともそんなことをしたら、すぐ演奏に出てしまい人を感動させるようないい音楽は奏でられない。これが人の魂を表現の核に置いた抽象というジャンルの正直なところだ。
ときどきハガキをお送りいただけるがそこに書かれた言葉にはいつも心動かされる。最近届いた本所吾妻橋のギャラリーアビアントでの展覧会の案内状。そこにも作品(1980年代の旧作。線のいろんなタッチがあって面白い。上方の山のように見えるのは意図してやったわけではないが、マックスエルンストのフロッタージュのようになりましたとは本人の弁)とともに自筆の言葉が添えられていた。「描くことが生きること」である画家の言葉を、味わいのある文字といっしょに紹介したい。

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きのうボウイが死んだー「ラザロよ、出てきなさい」

2016-01-12 17:57:43 | 私が作家・芸術家・芸人
デビッド・ボウイは初めからクールだった。これはかっこいいという意味ではなく、冷めているという意味でのクール。良しにつけ悪しきにつけ世界を変えてきた若者の狂熱が現実の前に急速に衰えていく時代 、内向的厭世的な気分に鋭敏に反応してボウイが演じた、ジギー・スターダストという架空の宇宙ヒーローは時代の空白を見事に埋めた。若い私も演劇的な世界だと思いつつ、その極めて新鮮な音と哲学的な隠喩に満ちた詩の世界に当時はすっかりハマってしまった口だった。ファンタジーでも信じない限り、生きていくことができない空虚な時代だった。

しかし、歌の別れというようなカッコいいことでもなく、それまでのめり込んでいた感覚の世界にさよならしてでも生きて行くのに必死だった80年代、90年代の、騒々しくて嘘っぽい時代でも、ボウイはレコードを出し続け、レッツダンスのようなライトな曲をヒットさせ、結構時代を巧みに泳いでいた印象だった。70年代の初めにボウイを教えてくれた友人は、素の魂の奥底を作品に表現しているルー・リードは本物だけど、ボウイはルーのモノマネをしている作為的な商売人だからというようなことを言っていた。このとき、そのことが改めて納得できるように思え、それ以後ボウイの曲は一切聞かなくなった。これに関連して、BBCの記事に載ったボウイの言葉に、当時、芸術系の若者たちに圧倒的な影響力を持っていたアンディ・ウォルホールやルー・リードから英国のミュージック&アートを守った唯一の橋頭堡であった、というような言葉もあって、そうか当時ボウイはそういう立ち位置だったのかと、興味深かった。(大掛かりな舞台をニューヨークなどで打つなどした後、大赤字状態であったとの記事もあった。)

しかし、ルー・リードも少し早すぎた死ではあったが、お茶の間テレビに出るような晩年は改心した懐メロスターのように一般社会に受け入れられ人生をそれなりに完うしたようだった。上記の友人が教えてくれた、ほとんどが20世紀を見ることなく消えてしまった、90'sと呼ばれるイギリスのマイナーポエットたちのように、決して情緒に溺れて破滅していく弱々しい魂の持ち主ではなかった。もっとも、現代の巨大な音楽産業がそれを許さなかったのだと思う。実は大衆の中の一人という自覚を持ちながら(街で隣にいても誰も気づかないくらい目立たない人物だったと、ニューヨークの友人の一人はいう)様々なヒーローキャラクターを演じたボウイと違って、彼はオンリーワンの強烈な個性を持ったルー・リードだけを生きていたのだ。ファンタジー作家と私小説作家では資質が違うんだから、単純に比較はできまい。

さて、ボウイ死去の報が入って、実に40年ぶりぐらいにボウイの曲を聴いた。死の前の週にリリースしたシングルカットLAZARUS(新約聖書ラザロの復活から)のPV。この闊達に動かなくなった体だからこそできる最後のミニマムダンス。ボウイの最後のユーモア。自分が今目前にしている死をさえ客観視できるこのクールさが、ずっとユニークなプレゼンテーションで変身を遂げつつ、時代の波を乗り切って生き残ってきた理由だったのだろう。少しばかりドラマテックな死を遂げたミシマのことを思い出した。しかし、恐ろしく孤独で絶望的な感情に支配されていたミシマと違い、「ここを見て、天国にいるよ」と私たちにメッセージを残し、愛する家族に看取られて亡くなったボウイの方がずっと希望がある、と思う。

ラザロのように目に包帯を巻きつけて臨終の床にあるボウイが、最後のシーン、さよならをするように自ら扉を閉めて衣装ダンス(棺桶)の中に消えていく。確かに“he's got drama, can't be stolen ”.ジギースターダストは自分の死さえ、痛切な、しかし誰にも真似のできないドラマに仕立てあげた。一緒に幕引きのプランを練った終生のプロデューサー、トニー・ヴィスコンティの力もあると思うが、美事な幕引きだ。かくて誰もが‥everybody knows him now‥確かに、自分の死を持ってアートとエンタテーメントを統合した本物の芸術家として、歌に予言した通りの結果が。ニュースは最後のアルバムBlack Starがボウイのレコードとしては初めてアメリカのアルバムチャートのNO.1になったことを伝える。

しかし、それだけだろうか。

Ground Control to Major Tom
Your circuit's dead, there's something wrong
Can you hear me, Major Tom?
Ground Control to Major Tom
Your circuit's dead, there's something wrong
Can you hear me, Major Tom?

初期のヒットアルバム Space Oddityで、地球帰還を自ら拒んだ宇宙飛行士の行き着く先は?最後のアルバムBlack Starではその結末を見せてくれた。漂い着いた死の惑星でドクロと化した宇宙飛行士。そこにも何もなかったのだ。一方、 Look up here. Im in heaven という短い最後のメッセージは、ファンタジーではなく、ボウイが死を前に垣間見た、誰もが理解できずにいるがわれわれすべてが、「今、ここに」持っている究極のリアリティーを指しているのかもしれない。
http://www.independent.co.uk/・・・/david-bowie-dead・・・

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初冬の夕暮れ、備前、金重有邦氏の窯を訪ねた。

2014-12-27 21:54:39 | 私が作家・芸術家・芸人
詩人の松尾正信氏に誘われて、夕暮れの備前で陶芸家の金重有邦氏に会った。叔父金重陶陽(古備前の再興者、人間国宝)、父金重素山(人間国宝)という名門の家系は、普通の個人の作家では一生かかっても会得できないような備前焼の精髄が、自然に身に付いていくような環境であったろう。その伝統を受け継いでいくのは当たり前のことで、むしろ、いかにそれを越えるかが、氏にとっての早い時期からの困難な課題となっていたかもしれない。

有邦氏の話は、モーツアルト、ベートーベン、ワグナー、バルトークと、好きな音楽の話が半分。そんな氏の嗜好を彷彿とさせて、話の途中次々と出して来られた茶碗、水指、花器など、歴史を受け継ぐ品格が漂う備前の器にも、どことなく音楽的なゆらぎが感ぜられて、それが氏の作風のオリジナリティにつながっているように思えた。しかし、音楽へのオマージュを語りつつ、「自分はかたちをつくりたくない」というのはかたちを抜きにしては成り立たない「陶芸家」にとって、何という矛盾なのだろう。何点か持って来られた徳利は、私の好きなモランディの絵のようでうれしくなって、何枚も写真をとった。(「モランディははまっちゃうんだよね」といったから、氏もそう言う時期があったのかもしれない。)

「花器であれ、見えない内側をきれいに。悪い波長を出さない。純粋にお金を得たいが創作の動機(誤解を恐れず、きれいごとではなく、そういえる人はなかなかいない。嘘から始めたらいいものはできるわけがない)。造形ということに疑問を覚える中、息子には暮らしの器から作らせている」。後からじっくり考えたくなる「音楽の人」の投げかけた無数の含蓄のある言葉とともに、最後に見せてくれたのは病を得て後、制作時間が限られる中で作った最新作(写真ー雲のように浮かぶようでありながら重心の定まった不思議な作品)であった。一般には見せ場と思われている紋切り型の備前の衣装を削ぎおとし、魂そのもののようになった、シンプルな美のかたちが、何とも愛おしく心に残った。

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「美の発見者は作者ではありません」 大久保窯(宮城県栗原市金成) 村上世一氏(77才)に聞く

2014-05-12 12:24:11 | 私が作家・芸術家・芸人
個人窯を宮城県に最初に築いた戦後東北陶芸のパイオニア、栗駒市金成町の村上世一さんの窯を訪ねた。お話を伺ったご自宅は、古民家を移築したものではなく、気仙大工の今や得難い技術を後世に残そうとの意図で、天然の栗の木を用いて建てられたもの。3階まで見事な木組みの吹き抜けが貫く豪壮な建物。村上さんが長い作家生活の中で掴んだ創作原理、黄金分割の考え方に基づいたオリジナル設計の建物だと言う。

ー陶芸家になられたきっかけは?

最初は絵描きになろうと思っていたんです。それが父に画家では飯を食えないと言われ、家を飛び出したんです。中学2年のときで、雪の散らつく2月の寒い日でしたね。駅のベンチに座って、ふと下を見ると草花があった。今はこんなでもいつかは花を持つだろうとの希望が芽生えた。私の原体験ですね。赤は生命の色、白は雪の東北の色として、器の絵にも今も反映されています。戦後間もなく物資不足の時代、小学6年のとき、家業の手伝いで一人で上京し、「日本民藝館」に備長炭を届けたことがあった。奥に柳宗悦の住居があったのを覚えています。それが焼き物に触れた最初の体験になりますか。東京にいたときには三宅一生のもとに行こうと思ったこともあるんですよ。気持ちが定まって、作陶修行のため会津本郷に赴いたのは22才のときで、初めの3年間は無給で働きました。

ー先生の焼き物は深く美しい色彩が特徴のひとつですね。

最初は藁灰を用いて「無」の色である白い器だけ出していて、村上の器は色がないと言われてたんです。そこで「アテルイ」の使う茶碗ならこういうものだという赤い茶碗を作った。そのときは「アテルイ」の像の写真を置いて轆轤を回したんです。河井寛治郎の出している生命感がある赤が東北でもできると信じて、美智子妃殿下(現皇后)が来仙の折出展したところ、たまたま妃殿下が赤い服をお召しであったことも関係したのか、ぼくのだけ7点選ばれた。色は言葉ですから、赤、黄、青と白い原稿用紙に言葉を連ねて行くように描いてきました。

ー陶芸で大切なことは?

東北の陶土の文献など誰も出していない中で陶芸を始め、地学からやろうと思って、地元の栗駒山から始まって青森まで土の分析に25年かけました。2年間バンクーバーのアートスクールで教師をした縁で、カナダやオーストラリア出身の外国人が多くいたこともありましたが、彼らにも他のお弟子さんと同じく土の大切さを教える意味で、土づくりから教えました。土も作れないようではほんとうのやきものはできない。土でも藁灰でも生活する場である地元の原料を使ってその特性にふさわしいやきものを創ろうと心がけて来ました。
手回し轆轤と蹴り轆轤を使って来ましたが,いいというかたちが分かるには技術が必要で、苦しいところを経なければなりません。
焼成はある意味、化学の世界。偶然に出来たでというのでは駄目。なんとなくそうなったというものでなく、これはこうだからと言い切れるものでないと、と思います。

ーどういう器がいい器と思われますか?

昔、出された器が欠けていたことがあった。それでもその器は美しいと感じた。そのとき以来、いいものは欠けていてもいいと思っています。
それから美の発見者は作者ではないということです。道具を上手に使って生活に取り入れた人が美の発見者なんだと。水差しを水差しとしてだけ使うのではない、そこに文化があるんだと思います。

ー使う人もそこで加われるんですね。

若い作家さんもそういういい人にめぐりあってほしいですね。

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中島みゆき「命の別名」

2014-01-25 13:01:52 | 私が作家・芸術家・芸人
「あぶな坂」を高校3年のとき聞いて、同世代の中からすごい女の子が現れたものだと思った。今は大姉御になって押しも押されぬ日本のトップシンガーとなった中島みゆきである。しかし、一冊のランボー詩集しか持たない畏怖すべき友人が認めたその鋭いナイフも、「時代」を歌ったころから、一般的な感性と融和的になり、そうでない曲も自分を特権化して繰り言をつぶやくように聞こえて、だんだん聞く事から遠ざかっていった。ところが、正月に、とんでもない昔のことが幽霊船のように突如として表れるyutubeで、たまたま彼女の名前を見かけ、90年代終わりに書かれた曲「命の別名」をはじめて聞いた。「聖者の行進」 という知的障害者を主人公にした作品でテーマソングであった事も遅ればせながら知った。当時は話題になったのだろうか?ドラマの深刻なテーマがそうさせたのか、正直、これは今までの日本の歌にはなかなかないものだと思う。とりわけ以下のリフレイン。

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

石や樹や水に訴えても、もとより答えてはくれまい。しかし、ここには静める存在たちに、そう叫ばざる得ない者がいる。「時代」が行き過ぎ、巡り巡ることを見送るだけでやがて生まれ変わって再び巡りあい、笑って話せるわ、なんて都合のいい人間のお話を、もはや信じられない者がいる。すべての人が繰り返しあやまちを犯す者であることを認めつつ、今、そのあやまちを照らす灯を、誰も傷つけぬ者たちに求めている。しかし、3.11を経験した者に、誰も傷つけぬ者として自然は再び灯となれるだろうか。ここに自然をベースにして日本の歌がぎりぎりまで行ってつながらない彼方がある。

命の別名
http://www.youtube.com/watch?v=5Wlmc4xSQFU&list=PL2F0D8035AF2CDA37
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木版画家野中光正さんのこと

2012-04-06 15:30:21 | 私が作家・芸術家・芸人
浅草在住の版画家野中光正さんが電話で唐突に「モランディはやはりいいですね」という。確か2年前仙台に来られたとき、大分前東京銀座のでデパートで偶然モランディ(Giorgio Morandi, 1890年 - 1964年)の絵に出会って、しばらくその場を動けなかったという話をしたと思う。その時から大分時が過ぎていたから、彼からモランディの名前が出て来るとは全く思いもよらなかった。しばらくして4月末の展示会用に新作の版画が送られて来た。野中さん手づくりの木製の送り箱を開けると、モランディに近しい穏やかな色彩の作品が出て来た。彼の中ではモランディは長い間静かに発酵を続けていたのだろう。そのことがとてもうれしい。
野中さんは木版画という江戸以来のメディアで、モランディのように色彩と形の探求を40年近く続けて来た。毎日のように作られた版画のタイトルは製作年月の数字を羅列したものだ。この文学性を交えない素っ気なさは内なる魂と外なる自然の出会いの出来事を日々描き止めているアノニマスな記録者という感じがする。「絵をつくるとは人や人を含む自然を思うことであり、又思われることを期待する心の現れである」とは彼の言葉だが、自然を反映しながら移ろい行く命の流れの中にいる自己に何より正直で、鍛えられた手技はそれを紙面に定着するためにもっぱら用いられている。修練を重ねれば重ねるほど企みや嘘が磨かれるのか、一般には受けのよい饒舌な表現となって魂が減失していくのは凡庸な証拠だが、それがないのを天賦の才といわずして何と言おう。
20代に描き続けた東京下町の木炭デッサンにも、30になってから始めた版画に見られる純粋な一貫性が見て取れる。かって高度成長を支えた下町の風景がそこにはあって、光や空気、臭いまでがモノクロームの画面から立ち上って来るようだ。一見心を鷲掴みにするピカソのデッサンのように、描かれた線は風景のいのちをひと掴みし、画家の魂を滲ませている。何処に行くのか、すべての風景は命を持って悲しく美しくゆらいでいる。「日々を慰安が吹き荒れて 帰ってゆける場所がない」。(吉野弘)宿なしのように東京の雑踏をさまよっていた若い時を思い出す。
やがて風景デッサンは極度に省略され解体されて、キュービズムばりの試みへと移っていく。これを見ると彼は突然抽象を描き始めたのではないことが分かる。モンドリアンの百合の花の連作のように、必然の流れは写実を徐々に抽象へと導いてゆく。めざすのは自然と魂が分離しがたく結びついた世界。木版画は、ねちねちとこねまわすことが宿命的にある油絵と違って、彫る、摺るという製作過程で、物質との格闘を通して、粘着する本質的でない「私」が削ぎおとされる。5月20日からの杜の未来舎での展示用に送られて来た作品を見て「野中さんはついに自然をつくっちゃったね」と言った若い画家の言葉が、今、彼が行き着いた世界を端的に言い当てている。
展示会の終盤我が家に投宿する彼と近くに住むアルゼンチンの彫刻家ビクトル・ユーゴーさん(本名)を交え、初鰹の叩きを魚に日本酒を飲むのが楽しみだ。
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岡本太郎と生涯のパフォーマンス

2011-04-12 14:04:37 | 私が作家・芸術家・芸人

日本の抽象芸術運動の代表者、今年で生誕100年を迎える岡本太郎は、鋭い先見者としての目を持っていた。戦後帰国した彼が見たのは明治以降、西洋では写実主義への反省的な流れがあるにも関わらず、それを模範に魂なきアカデミズムを形成している極東日本のおかしな芸術界の姿であった。東北旅行で写した写真に如実に表れている批評家としての慧眼は、縄文土器という格好の道具を得てそこに切り込んでいく。しかし、彼が残した絵は強いメッセージ性、エネルギーを持っているものの、意図が勝ちすぎて、心を惹いてやまないような不可思議な魅力があるかというと、自分にはそうとは思えない。岡本一平を父に持ち、かの子を母に持った岡本太郎は、あらかじめキャラ立ちした存在だった。そのことの運命的な不幸が初めからあったかのように思える。「名前なんかどうでもいいのだ」といえるのは「岡本太郎」だから言える言葉だった。晩年の岡本太郎は、名プロデューサー岡本敏子の巧みな作・演出で、強烈な前衛芸術家岡本太郎を演じ続けた存在だったように思える。発見し評価する優れて批評的な視点は持っていたが、ピカソのような聖なる野蛮人にはなれなかった。彼が残した卓抜な語録は、そうした意味で一つひとつ反語のように聞こえる。


(タモリとの対談、youtubeでごらんください。リリパット国に来たガリバー、巨人と道化、最高のパフォーマンス!)



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