日本に入ってきた海外の様々な文化の種子は、「みちのく」にたどりついてはじめて日本独自の根づき方、開き方をするようだ。古くは院政時代に華麗な仏教美術を花開かせた平泉文化、新しくは西洋モダニズムの影響もそのひとつ。萬鉄五郎、松本竣介などをはじめ日本の近現代の絵画の世界をリードした巨人たちに東北の出身者が多い理由でもあるだろう。今も、東北の地の力は、とぎれなく流入してくる外来文化を流行に終わらせず、日本の風土に根付かせる働きを続けている。まさしく日本の最深部にあって蒸留装置のような役割を担っているのが東北である。とりわけ岩手には低い山々に囲まれた小さな市や町に移りゆく都の流行とは無関係に地道な制作を続けている画家やアーティストが存在する。
一見するとコンクリートのような重厚感があるが、阿部さんの作品は建材用のスタイルフォーム、いわゆる発泡スチロールを基本素材に作られている。木のヤスリやサンドペーパーを使いかたちを彫り込み、アクリル絵具を塗り重ねて、さらにサンドペーパーで表面を整えるといった工程を、何度も繰り返して不思議な「立体画像」がリアリティーを持って立ち上がって来る。
この手法の成り立ちには偶然の出来事が作用した。イーゼル絵画の歴史の延長上に構想されたものではない。例えば、キャンバスに意図的に断線を入れたフォンタナ(Lucio Fontana, 1899ー1968)の「絵画」のように。あるいは歯型をテクスチャに刻みつけたフォートリエ(Jean Fautrier, 1898- 1964)の「非絵画」のように。阿部さんが単身赴任の狭いアパートで油絵を描いていた時、イーゼルが倒れてキャンバスに穴が空いた。色彩が自分の出したくない感情を出してしまうことに少なからず嫌悪感を持っていたので、このとき出来た穴ぼこの方が自分が努力して描いてきた絵より良いと思った。それが現在の作品をつくるようになったきっかけであるという。
最初はかたちを石膏で作るレリーフの手法を取り入れていたが、支持体が脆弱になるので、現在のやり方になった。確かにこれはレリーフではない。彫刻のレリーフなら盲目の人であっても手で触れて、それが何であるかを凹凸の感覚から確かめることができる。だが、これはまさしく「見ること」のみに依拠したイーゼル絵画なのだ。そのために透明アクリル版で覆うことで、表面に触れることすら禁じられている。見る者に近いところが深く彫り込まれ、遠いところが浅く掘られている。近づいてそうした掘りあとの形状を見ても、これが凹型のレリーフではなく、遠近法を立体的に置き換えた絵画的手法で作られていることが分かる。
この「絵画」を見ていると、存在と不在の思惟へと誘われる。われわれは写真を見るようにひたすら見ることだけを強いられることになるが、近づいて見るとそれは写真と違って、そこには何の像も存在しないことに気づかされる。果たしてゴーストを見ていたのだろうか。じっと見続けている時間は、夢と現実の間を漂っているかのような 不可思議な感覚と心地よさを与える時間でもある。一方、それは、ポンペイの遺跡跡から掘り出された人型のような存在の「欠如体」であり、「留まることは何もない」(作品のシリーズタイトル)、それこそゴーストさながらのすべての実存の姿も露わにしている。
この手法の成り立ちには偶然の出来事が作用した。イーゼル絵画の歴史の延長上に構想されたものではない。例えば、キャンバスに意図的に断線を入れたフォンタナ(Lucio Fontana, 1899ー1968)の「絵画」のように。あるいは歯型をテクスチャに刻みつけたフォートリエ(Jean Fautrier, 1898- 1964)の「非絵画」のように。阿部さんが単身赴任の狭いアパートで油絵を描いていた時、イーゼルが倒れてキャンバスに穴が空いた。色彩が自分の出したくない感情を出してしまうことに少なからず嫌悪感を持っていたので、このとき出来た穴ぼこの方が自分が努力して描いてきた絵より良いと思った。それが現在の作品をつくるようになったきっかけであるという。
最初はかたちを石膏で作るレリーフの手法を取り入れていたが、支持体が脆弱になるので、現在のやり方になった。確かにこれはレリーフではない。彫刻のレリーフなら盲目の人であっても手で触れて、それが何であるかを凹凸の感覚から確かめることができる。だが、これはまさしく「見ること」のみに依拠したイーゼル絵画なのだ。そのために透明アクリル版で覆うことで、表面に触れることすら禁じられている。見る者に近いところが深く彫り込まれ、遠いところが浅く掘られている。近づいてそうした掘りあとの形状を見ても、これが凹型のレリーフではなく、遠近法を立体的に置き換えた絵画的手法で作られていることが分かる。
この「絵画」を見ていると、存在と不在の思惟へと誘われる。われわれは写真を見るようにひたすら見ることだけを強いられることになるが、近づいて見るとそれは写真と違って、そこには何の像も存在しないことに気づかされる。果たしてゴーストを見ていたのだろうか。じっと見続けている時間は、夢と現実の間を漂っているかのような 不可思議な感覚と心地よさを与える時間でもある。一方、それは、ポンペイの遺跡跡から掘り出された人型のような存在の「欠如体」であり、「留まることは何もない」(作品のシリーズタイトル)、それこそゴーストさながらのすべての実存の姿も露わにしている。