美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

「ゴーギャン展」 国立近代美術館 7/3~9/23

2009-09-21 17:58:02 | レビュー/感想
「ゴーギャン展」は、木曜日の平日の午前中にも関わらず、あふれんばかりの人で、絵の前に二重三重に張り付いた人波の後ろから一瞥してさっと通りすぎるしかなかった。これではとても絵を見たとは言えない。半分以上は、60過ぎと思しきシニアたちで高齢化社会を改めて実感させられた。

ゴーギャンについては正直なところをひとこと。ゴッホについては魂をわしづかみにされるような物質的強さ・外部からの光があるのだが、ゴーギャンについてはそういったものが全くない。タヒチの自然を描いても今ひとつフィルターがかかってる感じなのだ。今回の目玉、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」についても、ゴーギャンの思想を集大成した画面をパズルのように読み解くのみで、タブロー自体がリアリティーを持って迫ってこない。思い通りに近代文明から離れてタヒチに至っても、見出したのは彼の思想の延長から出てきたものであり、南国の噎せ返るような自然が発する何かではなかった。「我々はどこから来たのか?」と反問しながら永遠に「彼方」を希求しながら生きる、その自我をこそ懐疑すべきだとは思わなかったのだろうか?彼の絵はフランス絵画の伝統の中に結局収まってしまう。むしろ画家が全能にはなりえない、しかも未知のメディアであっただろう木版画の方に力強さや不思議な魅力を感じた。

所蔵作品展の方ははるかに空いていたので、じっくり見て歩くことができた。もっとも近代美術館は大学の時からおなじみで、ここに所蔵されている作品は一度ならず目に触れている。明治以降の絵には美術「学校」を通して近代文明の病に少なからず擬似感染し、窮屈になってしまった画家の姿がある。戦後、戦争協力を批判され、日本を離れる要因ともなった藤田の戦時中の代表作「血戦ガダルカナル」は、テーマが何であれ、江戸の職人絵師さながらに筆を躍らせてしまう画家の業のようなものが漂う作品であった。ルネサンス絵画を愛した藤田は、ティントレットの絵も見ていただろう。構図といい、筆致といい、ああ、あれかなという感じであった。戦時体制という絶対的なフレームの中で、藤田はむしろ、思う存分画力を尽くして描くことの快楽を感じていたかも知れない。晩年カトリックというフレームの中に入って宗教画を描いた理由も分かったような気がする。

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京都画壇の華 京都市美術館所蔵名作展 8/29~10/4

2009-09-01 09:44:31 | レビュー/感想
美術館を出ても須田国太郎の2枚の絵(「村」「隼」)が頭を離れない。こんなことはめったにない。ひょっとして1989年、銀座でモランディの絵に出会って以来のことかもしれない。須田の作品は、随分前画集で見た尻尾を振っている赤い目の犬の作品が記憶に残っていたが、本物を見たことはなかった。そしてその時はちょっと気になるポエジーの画家でしかなかったのだ。しかし、こうして実物をじっくり見ると、その作品は、明治以降に出来上がった日本画、西洋画といったジャンル分けを浅薄なものとし、絵画の王道(そうしたものがあるとするなら)に座する普遍的力を持っている。単に色彩や造形の妙だけでは再現できない、我々が視覚だけでなく身体的に受け止めている実在の感覚をキャンパスに定着しえた希有の作家だと思う。確かに背後にはセザンヌがあるが、日本的な感性を通過させオリジナルなものになっている。

他にも何点か心引かれた作品について述べよう。ポスターにもなっている竹内栖鳳の「絵になる最初」。下絵が並置されていることで、製作の過程が判明になっている。ある意味でその過程はグラフィックデザイン的、つまり意図的だ。例えば着色の段階で付け加えられた着物の裏地が覗くところ。見所となっているが職人芸を見せているとも言えなくもなく、それが分かると興がそがれてしまう。むしろ天才的な資質そのままに描いている「雨」の方に心引かれる。

小野竹きょうの「海」は、輪郭取りした波の形態と絶妙な色彩の組み合わせで、海がふくらんで迫ってくるようなリアル感覚を呼び起こす技量に感心した。浮世絵の伝統の中で培われてきた繊細な線と面の技術の、オリジナルな可能性を考えさせられた。

野長瀬晩花の「初夏の流」は、全体的にはゴーギャンを屏風絵に展開した感じ。背中を見せている男の子がそのヒントとなる。擬次西洋化した大正時代、「オリエンタリズム」の模倣も生まれた?赤い衣を着た女は萬鉄五郎を思わせる。もっともこっちは腹這いになっているが。草木はアンリルソーだろう。茶色い川の流れはバルールを引き立たせるために仕組んだ。要するに飛躍的に増えた西洋画の当時の最新情報を屏風絵の日本的趣向の中に巧みにパッチワークした絵と言えるだろう。その意味で極めて今日的(横尾忠則作といっても通じる)、目立つ絵だが、しかし、魂をゆさぶるヌミノーゼ的な深みはない。

霧鳥之彦の「黒い帽子の女」は、日本人の作とは思えない「本格的西洋画」だが、それが本格的であるためには生来の感性の抑圧が必要なのだろうか。模倣の悲しさ、女の顔は人形の顔に見える。

西洋画の模倣、そのまた模倣の洋画を見ていると、外来知識の刷込や、それゆえの自我の分裂がなく、江戸の南画の伝統の中で呼吸している明治初期の原在仙の「梅林図」や幸野楳嶺の「帝釈試三獣図」のような作品の方にかえって魅力を感じるのは、今の時代性なのかも知れない。

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