美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ジョルジョ・モランディ続き  2/20~4/10  東京ステーションギャラリー

2016-04-30 12:37:53 | レビュー/感想
展示会のカタログの中で、ジュージ・ベッキ(学芸員)は、晩年の暗黒色の色彩とシンプルなストロークで描かれたモランディの水彩を、禅画(具体的には狩野仙厓のような作品を指すと思われる)との類似性によって語っている。さらには、モランディを「表現しがたいものを表現し、伝達できないものを伝達することを可能にする’思索にふける’性質において、禅の師と類似している」とまで述べる。
確かに表面的には類似点がある。俗世間や流行から隔離された、ボローニャの小さなアトリエと禅僧の杣屋。しかし、思索にふけるところからは、仙のような禅画は生まれない。それは、思索も含む現象世界へのこだわりから脱却し、いわゆる「無」と呼ばれる悟達の境地にあり、融通無碍となったキャラクターが、表現に直裁に結びついたときに生まれたものだろう。だから、禅画においては、白紙に世界を出現させる墨の「勢い」が鑑賞の要となったりする。

一方、モランディの水彩画は、抽象になる一歩手前まで行きながらも、対象と切れることはない。禅画と同様、瞬間のうちに描かれたかたちであっても、画家が長い間見続けてきた末に浮かび上がって来た永遠の影が宿っている。「わたしたちが人間として対象世界についてみることのできるあらゆるものは、わたしたちが見て理解するようには実際には存在していないということをわたしたちは知っています」。このモランディの言葉は、実在する具体的なモノの世界を見つめつつも、形而上的な世界の反映としてそれらを見、思惟を続けていたことを示している。それは仮説立証という目標なきまま、科学者の反復的な営為へと誘う。この展示会のキャッチフレーズともなっている「終わりなき変奏」とならざるえない。

その表現の有り様は「たゆたい」とでも表したらよいだろうか。ブラウン運動を続ける分子のように、人間の視覚認識という不確かな観測手段によりそれはたえず揺らいでいるかのように見える。しかし、それは幻影ではなく、画家のうちにある美の基軸によって、確かな実在を確証させる。これは言葉では言い表しがたい不思議な有り様だ。

この展示会で、最も心惹かれ新鮮な思いで見た一点は風景作品の中にあった。その1921年の作品は、凡庸な目には奇跡的に成立したもののように見えるかもしれない。だが、さらっと描いたようで軽い「オシャレ」なものには絶対ならないのは、モノの世界を見続けた目が、風景画にあっても存在の本質を確実に射抜いているからだ。モランディが生涯に亘って興味を持ち続けた初期ルネサンスの画家、ピエロ・デッラ・フランチェスカのまさに「魂の写し」のようなこの作品を見れただけでも、大変幸せな思いであった。(4/16~6/5は岩手県立美術館で開催中)中世の画家のように彼は「心の目」で描く方法を、近代という名の不信仰の時代に、ただひとり体現した画家であった。
「神秘的なのは、世界が「いかに」あるかではなく、世界がある「ということ」である。」 ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

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2 コメント

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大変興味深く拝見しました (Fs)
2016-05-12 01:57:31
「画家が長い間見続けてきた末に浮かび上がって来た永遠の影が宿っている。」
あるいは、禅画との違いへの言及
ともに興味深く拝見しました。
ありがとうございます。
わたしは東京ステーションギャラリーでの展覧会を見損なったのですが、せめてカタログは手に入れたいと思っています。
ご意見を参考に鑑賞したいと思います。
またピエロ・デッラ・フランチェスカに興味を惹かれていたとのこと、有元利夫のことを連想してしまいました。そこまで言及するのは私の力量は及びませんが、興味深いです。
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Unknown (斎藤)
2016-05-13 09:44:20
感想ありがとうございます。
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