美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

第6回とうほく陶芸家展inせんだい開催にあたって 東北の地から、暮らしに美と潤いを与える器をこれからも。

2019-05-21 08:46:25 | レビュー/感想
東日本大震災の2年後、2013年、当展示会は、窯の倒壊など被災した陶芸家を支援する取り組み(東北炎の作家復興支援プロジェクト)の一つとして開催されました。展示機会を失った陶芸家たちに展示場を提供し、そこでの作品の展示販売が、作り続ける気持ちを応援し、復興に必要な経済的支援につながればとの思いがありました
当初は、伝統窯、個人窯の作品の展示販売だけでなく、ネットを通して取り組みを知った英国の陶芸家グループ(Kamataki-Aid)から寄せられた作品をオークション販売したり、江戸初期から続く相馬駒焼(東北最古の登窯は、整備され、相馬市によって現在一般公開中)の支援をアピールしたり、啓発的な企画を加えておりました。
現在はシンプルに作家との交流を図りながら、作品を選んでいただくことを中心に、東北にも土地土地に古くから伝統を受け継ぐ窯元や質の高い器づくりに励む作家たちが存在することを、少しでも多くの方に知っていただきたいと思っております。
2016年、集中豪雨による土砂崩れのため休止の止むなきに至ったこともありましたが、今年で第6回を迎えることになりました。一般に支援の思いが次第に冷えていく中で、2年度目から、震災以来「東北器の絆プロジェクト」を展開し、東北の窯元に支援の手を差し伸べてくださっているAGF様から、思いがけずご協賛をいただき、ここまで続けてまいりました。
今回は昨年より1窯少ない18窯の出展になります。参加者を見ると、かっては会場にも元気な姿を見せていた東北陶芸界の長老たち、堤焼の四代針生乾馬氏が2016年、続いて平清水焼の四代丹羽良知氏も今年2月になくなり、また、昨年まで参加していた青森の南部名久井窯は経済的な理由から今年3月で廃業(今回は展示品のみ参加予定)に追いやられるなど、陶芸という生業を取り巻く時代の厳しさと、伝統を残す難しさをひしひしと感じております。
東北の生活風土に芽生え育まれた手づくりの器が、新しい世代にも新たな魅力を持って受け入れられ、これからも暮らしに美と潤いを与え続いていくことを願っております。

あとがき
器は使い手の確かな目によって選ばれ、使われてこそ、成長する。だから魅力ある器は作家と使い手との交流から生まれると言っても良い。ところが作品を単なる商品と見るマーケティングの発想からは、結果的にはどこも同じトレンドものが氾濫する結果になってしまう。それなら工業製品で言い訳だ。お客様の思いに励まされ、世の流れへのささやかな抵抗のつもりで、これからもこの展示会を継続して行きたい。

横山崋山 4/20~6/23 宮城県美術館

2019-05-04 21:41:10 | レビュー/感想
入り口を入ったところに墨画の蝦蟇仙人図が2幅かかっていた。左が横山崋山、右が曽我蕭白である。曾我蕭白は横山家と交流があった画家で、父の横山喜兵衛宛の書簡も展示されていた。これが何とも不思議な魅力を持ったいい字なのである。さて、蝦蟇仙人図は一目瞭然、曽我蕭白の方がいい。迫力に歴然とした違いを感じる。崋山の蝦蟇仙人図は蕭白のこの絵の本歌どりのわけだが、雷神図において光琳が宗達に叶わない以上に見劣りがする。足や衣の位置を変えたりして崋山独自の蝦蟇仙人にしようと努力しているのだが、また技巧を凝らして丁寧に描いているのだが全体的にちんまりまとまっていて弱々しい。

それでもこれは若い時の作なのでだんだん面白くなって行くのかなと思い期待しつつ見ていったが、そして橋本雅邦風の濃淡画法にこの作家独自の魅力を次第に濃厚に開花させて行くのかなと思って見ていたが、やはり心に入ってこない。多くの流派の画法を身につけた技術力には舌を巻くものがあるのだろう。でも、心を引かれないというのは如何ともし難い。それともこの手の作品に私が鈍いのか?

やはり、最初に曾我蕭白の作品と並べて比較展示したのが良くなかったのかもしれない。この蕭白があまりに凄すぎた。蕭白は特別な技巧を凝らさなくても筆が生きていて、それだけで摩訶不思議な世界を出現させ、心を鷲掴みにし、何度でも見たい気持ちにさせる。岡本太郎ではないが「これはなんだ!」というわけだ。一方、崋山は唐子や動物や歴史上の人物、山水などどれも丁寧に破綻なく描いている。しかし、印象がフラットで薄いのである。人も動物も虚ろな感じで生動感に乏しいと思う。

この展覧会の目玉は、祇園の山車の行列と人々を長尺2巻本の紙本に描き切った、「祇園祭礼図巻」である。この展示会のキャッチフレーズ、「見れば分かる」はこの作品を指して言っているのであろう。確かに誰にもなし得なかったような凄まじいボリュームの作品である。おそらく綿密な観察と取材スケッチを重ねたのであろう。その上で少しの筆の乱れもなく描き切ったその「イラストレーター」としての力量は、確かに「見れば分かる」。千年の都に受け継がれてきた祇園祭の知識を得るための、これに勝るビジュアル歴史資料はあるまいという貴重な作品だろう。しかし、美術品としての価値は一枚の蕭白の墨画に及ばないのである。まさに「見れば分かる」。

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いつだって猫展 4/19~6/9 仙台市博物館

2019-05-01 17:49:22 | レビュー/感想
帰ってきていつになく疲れを感じた。一緒に行った私の娘も同じことを言っていたから、必ずしも年のせいだけではあるまい。ゴールデンウィークが始まったばかりで、天気が良くて、思いのほか博物館が混んでいたせい?しかも、左右に振り分けられた狭い展示場にこれでもかと詰め込まれた作品を、うねうねとした列に連なりながら見たせいか?それもあるかもしれないが、主たる原因はそうではないと思う。絵自体に疲れたのだ。何しろこれでもかこれでもかと猫の図像を見せられた。それもパターン化された大量の猫キャラの図像である。連続で猫のアニメーションを見せられたようなものだ。または猫をアイキャチにした広告チラシを次々と見せられたようだ、と言うのは言い過ぎだろうか。

しかし、まあ、猫だけに限ってもこれだけの量の図像を生産し続けた江戸時代とは何だったのだろう。大衆の欲望を満たす安価な装置としての版画が隆盛を誇った、そのバックグラウンドにある心性は、今アニメ大国と言われる現代日本の実情と変わらないのではないか。そして、それを追いかける人々も、車に乗って、スマホをかざして、欧米と同じ服に身を包んでいても、それは表面上の差異に過ぎなくて、その心底は江戸時代の民衆とあまり変わらないのではないか。そんな江戸と現代をつなぐ大衆文化の帰趨を考えさせる展示とはなっていた。

江戸時代とは謳っているがここで出てくる猫は、図録の年代を見ると江戸中期以降の版画に載ったものがほとんどだ。この猫絵の歴史をざっと辿って見よう。最初はおそらく暮らしの点景として描かれていたのだろう。一緒に暮らすうちに何か変だな、不思議だなと言うことになって、猫自体に焦点があたり、猫又のような妖怪、さらには歌舞伎との結びつきで化け猫まで妄想的イメージ進化を遂げることになる。一方でネズミをとる益獣としての側面が、ネズミよけ商品の格好の広告キャラとして使われていく。そして図録の解説に曰く、「天保末期、最大の猫ブームは猫の擬人化によって訪れる」。

擬人化された猫(ほとんどが歌川国芳作)は、この展示会の展示作品の圧倒的な多数を占める。しかし、それはいかに巧みな技法を駆使してケレン味たっぷりに描かれていても、なぜか猫好きの心は踊らない。役者や庶民の姿が猫として描かれているのだが、体はすっかり人間の姿であり動きになっている。顔だけが猫にすげ変わっているが、人間と違って猫は目と口の表情にあまり変化がないから、百面相を描いても案外つまらない。人文字にして見たり趣向を凝らせば凝らすほど、「なぜ可愛い猫ちゃんをこんな風にしちゃうの」と猫好きの反発を招くだけかもしれない。

もっとも擬人化された猫自体に目が行きすぎては困るとの計算が働いているのかもしれない。なぜなら猫はネズミよけ商品や歌舞伎興行の趣向の変わった「引き立て役」に過ぎないからであり、これは浮世絵美女が皆判で押したように同じ顔をしているのも、本筋の呉服商品へと誘導する「出し」にされているからだと言うのと同じだろう。
かくてプロの手練手管を持って巧みに作り上げられた大量の広告図像パターンを見、頭はその意味するものを読み取ることにもっぱら使役させられて、展示場を出るときには疲労困憊の体となったというわけだ。猫の絵画的な魅力は、本当はその猫らしい姿態の微妙な変化と切り離せない。顔だけでは単なる猫キャラになってしまうのがオチだ、と改めて確認させられた。

その点、猫の生態を描いた歌川広重のスケッチは、対象に寄り添うような穏やかな筆致で、パターン化されていないから、見るものにも「そうそうこんなポーズするなあ」と言うあたたかい共感の思いを生じさせる。そこには江戸時代の浮世絵師が描いたものとは到底思えない、近代画家と同質のヒューマンな精神さえ感じられ、いっそう興味を引かれた。伝達意図に縛られているイラストではなく、画面の端から端、手前から奥へと、目と心をたゆたわせる時間がゆったり流れ、まさしく味読を誘う「絵」がそこにはあった。(上掲:名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣 歌川広重)

意外と面白かったのが各地から集められた招き猫の土人形や焼き物、張り子人形だ。もうこうなると「これが猫なの」と言う出来損ないのようなものも含めて、どれもこれも絵付け職人の意図せざる個性が満開状態なのが好ましく、愛着がわく代物となっている。

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