美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

古代アンデス文明展 7/29~9/30 仙台市博物館

2018-08-02 14:32:43 | レビュー/感想
娘がいささか興奮気味に帰って来た。「おとうさん、すぐ見に行って。美術なんてものがぜ〜んぶぶっとんでしまうよ」。というわけで翌々日には世界中を覆う殺人的なヒートウェーブの最中、自転車をこいで3つ橋を渡り博物館に行ってきた。そこで展開されているのは、人類の夢の世界であった。しかし、それは女性が思い描くようなアワアワとしたメルヘンの世界ではない。動物と人間が接続し、生首が飛び、恐ろしい神が幼児の捧げ物を所望するような、想像を絶する悪夢の世界であった。先週見たばかりの「ディズニー展」とはえらい違いだ。しかし、この「蒼古的な」(この言葉久しぶりに使う。大学の学部時代ユング派の心理学者の講義で聞いて以来のこと。)夢は、人類に通底する原初にあった夢なのであり、怖い世界であるが、どこか脳神経系が発達しすぎて窒息しそうな頭を、曇天のあとの青空のように一時的にすっきりさせる働きもあるのである。

展示会評の主題を離れるが、これはかなり怖いことで、マスコミが「心の闇」という言葉で取り上げ、最終的にはいつも理由が分からないと言って終わる諸々の事件は、全部この世界とつながっているように思える。それをドスエフトスキーは「悪霊」の名で呼んだし、最も新しいところではデビット・リンチのような作家が映画の中で繰り返し描く世界でもある。近現代の作品をあげなくても、ギリシャ神話から古事記まで、神話の世界もこの世界と無関係ではない。そこには人類の進歩も文明の発展もない。ときにそれは夢をぶちぎって破壊の果てに無の青空に達しようとする。おそらくたびたび戦争が起こるのも言葉は悪いが、この「すっきり感」を求めてのことなのだろう。例えば、破滅的な結果をもたらした日米開戦さえ、当時の経験を持つ人の言葉によると、始まりは決して暗くはないのである。しかし、戦争はすべての人がつながりを持っている罪の姿をあからさまに開示する。そう考えると、今の鬱々とした気分が漂いそれを昇華するところをなくして、表層的な平和を享受し続ける今の時代は、どこか不気味でほんとうに怖い。

一方で、最近パラパラと読んで頭に残っていたキルケゴール(ゼーレン)の著作「不安の概念」の内容が呼び覚まされた。エデンの園にあってアダムとイブは無垢であった、だが、不安であったとキルケゴールは述べる。神のふところ(マトリックス)にあって本来安堵すべき無垢は、生き物で一番賢いものである蛇の誘いをたやすく受けて意識の世界に入る。無垢と同時にあった原初的な不安が、誘惑を呼び寄せるのである。赤ん坊が理由も分からずときどき火のついたように泣くのもこれに起因するのであろう。

この無垢と不安が同居する無意識の世界が、アンデスのもっとも古い宗教的文化であるチャビン文化や地方文化のひとつモチェ文化の中に現れる。そこには動物と人間の不分明を受け入れる無垢の姿がある。幻覚剤を用いてジャガーに変容しようとするテノンヘッド、壺や鉢など土器や土製品に付けられた様々な動物や人間の顔。ティワナク文化の象形土器のカリカチュア化された顔の表現は現代のコミックマンガ(例えば、その造形は我々世代には馴染みが深い「ガキデカ」ー山上たつひこーのこっけいさと類似する。そういえば作家は「光る風」のようなシリアスで怖い世界も描いている。)を見るようだ。これらはまさに、何にでも変身し合体をとげられる幼児の世界である。ぬいぐるみやキャラクターに夢中になる我々もこの原初的な幼児の世界を色濃く残しているに違いない。

しかし、意識の獲得とともに神との関係は断たれる。それを人間の側から回復したいというアプローチが宗教的祭儀とその精密化につながっていくのだろう。怖るべき神に無垢である動物や幼児をささげる儀礼は、オリエントの古代宗教でも普通に行われていたことである。その中で世界宗教となったヘブライの宗教(ユダヤ・キリスト教)は仕える神を持つところに特異性があった。宗教的指導者たる祭祀の自死行為を描いてた「自身の首を切る人物の象形鐙型土器」は、その究極の姿だ。我々にも近年まで馴染みが深い腹切、断首行為がある。(三島由紀夫や神戸須磨の事件なども思い浮かぶ)。その行為のおどろおどろしさと対照的に、この胴体から皮一枚を残して垂れ落ちた人物の顔は穏やかに見える。共同体のために自ら犠牲となり、役割(祭祀としての)を果たした者の安寧の姿なのかもしれない。(これは私の妄想のたぐいだが、例えばこの後降った恵みの雨は彼のお陰とされ、顕彰の意味でこの像が作られる。後世の人々は、この器になみなみと水を注ぎつつ、彼の事績を思った?)キリスト教は、神が人間となり十字架に掛かることにおいて、これとは正反対のベクトルにおいて仕える神の究極の姿を完成している。

古代アンデスの人々は文字を持たなかった。その代わり紐に結び目を作るキープと呼ばれる情報の記録伝達手段を持つ。会場に展示されていたインカ帝国のキープは、高度な知性を感じさせて現代のコンセプチュアルアートを凌駕する美しさを持っている。キープの目的は公的な要件に限られていたようだ。ゆえに共同体の集団感情は祭儀のうちに、個々の感情は、土器や土製品のうちに読み取らなければならない。宗教意識をあからさまに表していない土器や染物は、存在感にあふれ、まるで柳宗悦の収集した民芸品のようだ。

宗教儀礼の洗練化やシステマチックな確立は、王権を頂点とする階層化と結びつく。かつて生活と密接なつながりを持ち具象的な表現となっていた無垢の思い(感情移入的表現)を消し去って、エジプト文明と似通った記号や幾何学模様に象徴化される高度なイデオロギー化、抽象化の過程をたどる。しかし、共同幻想に基づく文明の完成は、打ち続く干ばつやスペインの侵略など、ブラックスワン(硬直化した組織制度に唐突に襲いかかる外部性)の出現の前にあっけないほどの脆弱さを露呈することなった。ナスカの地上絵は、彼らの結局は虚しく終わった天への切なる願い(雨は降らず帝国は滅びた)を、時を超えた壮大な遺跡の姿で示している。

東アジアからの大陸のコーストラインを経て南米までに至る壮大な民族拡散は、南米の人々と我々とのDNAの染色体配列によっても証明されつつある。とりわけ東北に住む我々は、安土桃山時代の宣教師(ジョアン・ロドリゲス)がバチカン宛の報告書(日本教会史)においてすでに分析しているように、当時彼らが言っていたタタールの種族の影響が色濃い。この時に世界史を撹乱する移動性の民族は奥深い心性においては同じ刻印を持つ。謎多き縄文文化はその証であろう。そのようなことまで感じさせる近年稀な興味深い展示であった。さて、ボリビアの約2500メートルの高地に広がる都市コチャバンバから仙台にやってきた女性研究者を知っているが、その出自がまだ分からなかったときにも同族のような親近感を覚えた彼女と話すよい話題ができた。