美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ポーラ美術館コレクション モネからピカソ、シャガールへ 9月17日(土)~11月13日(日)宮城県美術館

2016-10-12 11:34:28 | レビュー/感想
見ることを再開する、そのとっかかりがモネの絵であったのは幸せだった。はじめはあまり期待していなかった。あの睡蓮の絵か、それならオランジェリーの楕円形の展示室で見たはずだ、という風に、しきりに小賢しく頭が働く。しかし、今回モネの数点の小品を見て、いかに自分が先入観だけでモネをまともに見ていなかったがよく分かった。数少ない作品展示ではあったがいずれも味わい深い名品で、光の効果という単一のフェーズだけに着目した、印象派の代表という、頭の中でステレオタイプ化していたイメージを払拭する出会いとなった。「積みわら」のサクサクとした草の感触や「睡蓮」のぬめりとした池の水の質感など、まるで実在の自然に五感で接触しながら歩き回っているような体験は他の絵では得難いものであった。ここではこの実在感のエッセンスを積み上げたような自然の風景が主役であり、モネという存在はそこで用いられた天才的な技量とともにこの風景の中に消滅しているかのようだ。

セザンヌの「プロバンスの風景」もモネの作品とまさるとも劣らない名品であったが、ここで描かれた自然はモネとは違って、「感じる」だけでなく「考える」人によって描かれたもので、その自然の実在感は頭の中で再構築される過程を加える中からでてきたもののように思える。むしろ、この展示会のイントロに展示されていたカミーユコローの「森の中の少女」の方に、時代の様式的な括りを取り払ってみれば、モネと同様のナイーブな野生の目を感じた。「モネは目だ」といったセザンヌは、モネのこの自然を見る目を充分知っていてもそこに止まりきれない近代人で、そこに構築的な論理を持ち込まざる得ない。このかってはひとつの身体性として一体だった感性と知性のわずかな亀裂が、やがてピカソの大胆な破壊を呼び、現代美術に至るまで、感性を知性に従属させ新しいコンセプト、マーケティング顔負けのカテゴリーづくりに明け暮れる歴史の端緒ともなる。

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