美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

日本美術とヌミノーゼ

2010-07-18 18:16:49 | レビュー/感想
横尾忠則が北斎をテーマにした対談集の中で俵屋宗達へのオマージュを捧げている。宗達は琳派の先駆けとして知られるが、尾形光琳とは隔絶した個性だというのが横尾の意見。光琳はヨーロッパの印象派、アールヌーボー、そして現代のデザインにも大きな影響を与えている。ロジカルに組み立てられた装飾性やデザイン性はユニバーサルなものへとつながる契機を持っている。しかし、究極はコルビジェのユニバーサル様式から派生した世界中どこでも見られる真四角のビル街にも似て、退屈至極の環境をつくってしまう。岡本太郎流に言えば「これは何だ!」というものを駆逐してできあがった魂のない抜け殻の世界である。それに対してアモルフな宗達絵から系譜するのは、デザインや美術教育では絶対共有できない暗黙知の世界。室町の幻妖な屏風絵から遡って、岡本太郎が日本の「模倣西洋画」の歴史やそれを支えている制度的なものに投げつけた縄文土器という爆弾までつながる代物ではないか。

京都に行った折には必ず国立博物館に立ち寄るのが習いだが、平安や鎌倉の古い仏像が集められた部屋は入るたびに戦慄を感じる。神学者オットーに言うヌミノーゼの感情がわき起こる。天に向かって屹立した巨大な石の聖書のようなシャルトルの大聖堂に対面したときも同じ畏れの感情に襲われたことを思い出す。

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屏風の世界  6月12日(土)~7月25日(日) 出光美術館 

2010-07-16 20:45:30 | レビュー/感想
美術館の絵は全体のコンポジションを把握できる位置、つまり真っ正面から見るのがベストポジションであるとの近代的鑑賞法から抜けられない。この展覧会でも、はじめはそうであったが、しばらく眺めていてからどこか違うと気付いて、右から左へと歩みつつ、ときどき立ち止まり、目線を前や後ろに移動させながら見た。すると驚くべき変容。絵はストーリー性を持ち始め、いきいきと動きをともなったものとして生起し再構成されていく。最初に現れる登場人物の視線の先にあるものは、例えば富士であったり、押し寄せる波だったりして、はじめは片鱗しか見えていなかったものが、歩みとともに、巨大なもの、恐るべきもの、妖異なものへと変化する。

この感じはどこかで、と思えばそう漫画の世界。漫画のコマの展開に与えた映画の影響はよく言われるが、日本では屏風絵のDNAがもともとベースにあるのではなかろうか。狩野元信の西湖図屏風は、以後の画家にとって教科書的な作品で、右隻、左隻に囲まれるような一所に座って全体を見渡せばまさしく3Dの世界にすっぽりつつまれるしくみになっている。

しかし、元来、日本人はこうした総合的な世界像を描きだすのは得意ではない。それよりは人物にズームしてキャラクター化したり、切り取られたシーンを連続させてストーリーをつくる方が得手のようだ。大画面のまとまり中で様々な場面を見せるために役立っていた金雲は、漫画という個人の娯楽ツールが生まれる中で「枠」や「柱」へと変わっていったのだろう。

帰宅してから展覧会のカタログを見たが、この展示会を企画した学芸員の意図も屏風「絵」ではなく「屏風」の世界、つまり屏風というジグザグに折れたデバイスがいかに絵のつくりに影響を与えていったかという点を見せるところにあったようである。

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