美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

尾崎行彦・田村晴樹 木版画二人展 5月10日(火)~15日(日) 晩翠画廊 仙台市

2022-05-14 13:23:21 | レビュー/感想

晩翠画廊に次の展示の案内カードを置きに行ったら、たまたま旧知の二人の展示をやっていた。最初は田村氏の版画の方に目が行った。彼の版画とは前に萬鉄五郎記念美術館で見てファンになってから10年来の付き合いで、夢とも記憶とも言い難い茫洋とした中から滲むように生まれて来る色と形の造形に魅せられて来た。

しかし、今回の展示作品は、これまでの作品と比べて、色も形も明瞭でシャープになった印象を受けた。彼の頭の貯蔵庫にはこれまでの色と形の膨大な数のサンプルがもう出来上がってるのだろう。そこから必要なものを取り出しただけで、思うままに手は動き、作家の美のスタイルの中で破綻なく絵は成立する。それを熟練というのかもしれない。自在な組み合わせの中での面白みはあるが、その分、偶然のように浮き上がって来た形と色が作りだす不思議さが薄らいでしまうのはいたしかたないことなのだろう。そんな物足りなさも感じつつ、原点にあったような頭より心との連動がしっくり来る単純な色と形の世界を追い求めている自分がいた。

さて尾崎氏の作品である。氏は昨年まで仙台のギャリーJのオーナーだった。ときどき伺っておしゃべりしたり、地元新聞社が立てたギャラリー巡りの企画に際しては会合でご一緒したこともあった。一方で、彼は木版画の作家でもあり、定期的に自分のギャラリーで個展を開いていた。その時は、木口木版という技法にこだわって身の回りのものを主題としている点に好奇心と面白みを感じたのみで特別な感慨はなかった。ところが今回の展示はなぜか胸に素直にすっと入ってくるものがある。

聞けば(以下は後日私の娘が聞いたところによる)今回の作品には「記憶の共有」というスタンスがあると言う。なるほど絡みついてくる私=自己を脱色した目が感じられる。木版という和の技法にこだわることで、必然的に抱えてしまう私が持つ情緒的臭みがここにはない。彼はデューラーの名前を挙げていたが、確かにその雰囲気がある。聖書的主題とは別にデューラーが画面の端に稠密に描いた草木を思わせるものがある。

このデューラーへの思い入れがエッチングのようなタッチで版を刻ませた。一方で彼は「自分の木版の線は魅力がないんですよ」と言う。しかし、彼はそうした欠点が、エッチングのように彫ることで、かえって過剰な私的情操が削ぎ落とされ、誰もがどこかで見たような風景として「共有の記憶」を呼び覚ます要素になりうることを、彼はある段階で知ったのだろう。

尾崎氏は自分の絵を「トイレに飾って欲しい」と言う。その言葉に幼い頃、独りトイレにしゃがんだ時のことを思い出す。すぐ目の前の床板には節目があって、その節目が意図せずに形づくった造形は今でも鮮明に覚えている。作家が注視する目になりきったとき、風景は万人と無言の会話を交合わせつつ、深層に消え難い像を結ぶ。

今日尾崎氏の作品が届いた。包みを開けるのをワクワクしながら待った。近年見て求めて幸福感を感じる絵は珍しい。

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