美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

コートールド美術館展 魅惑の印象派 9/10~12/12 東京都美術館

2019-12-21 11:09:39 | レビュー/感想

東京の友人から突然の電話があった。上野の都美術館で開催中の「コートルード美術館展」がとても素晴らしかったので絶対見に来るべきだという、強いお薦めだった。すぐに行きたかったところだが、他の東京での仕事の予定とも兼ね合わせて、当の展覧会に赴いたのは終幕の2日前となってしまった。11時過ぎ、上野駅を出て都美術館に向かう。久しぶりに上京した田舎者には、日曜祭日でもないのに異様に思えるこの人の多さ。それも自分も含めてほとんど老人たち。朝早くの列車にすべきだったと一瞬悔やんだ。案の定、切符売り場には列が出来ていて、荷物を入れるロッカーには空きがない。それでも、旅行鞄を手に持たざる得ないとしても、15分ほどで入れたからましな方なのだろう。

見学者はみなかぶりつき席が好みのようだ。絵にギリギリまで近づいてカニの横歩きさながらにジリジリと進んでいる。並ぶのが嫌いな自分は、いつものやり方で、その列とは離れた位置から頭越しにざっと見て、向こうから強い磁力を発している絵があれば近づいて列の間からじっくり覗き見る。そうして見ても、第一印象はよくぞこれだけの粒ぞろいの作品が揃ったものだという驚きだった。彼の言う通り、確かに美術の教科書や美術全集で必ず目にする印象派および後期印象派の巨匠たちのウルトラメジャーな作品が揃っていた。こんな展示会が開催できるのは、現在下降の一途をたどる日本の経済力のゆえではない。それに反比例して、人口の一極集中が強まる一方の東京での開催あれば、人が集まり確実にペイできるという提供者のしたたかな読みがあるからであろう。だから混雑も我慢せねばならないと納得する。

これだけの作品を集めたコートールドという人物にまず興味を持った。家に帰って展示会のカタログを見て知ったのは、彼の家系がフランスのプロテスタント、ユグノーの流れをくむユーテリアンであったこと。その教理・教義を優先しない信仰が、知識ではなく、まず自分の感覚を信じて判断する態度と繋がっているように思う。セザンヌの「プロヴァンスの風景」を見たときの驚きを、コートルードは回想する。「この絵は画中のあちらこちらを歩き回らせて、それからすっかり夢中にさせてしまうんだ」。

このセザンヌ絵画への格別の愛に基づき、コートルードは、先取り的にセザンヌの絵を評価収集し、展覧会を催し、カタログを頒布し、ついに彼を近代絵画の歴史を塗り替えた最重要人物に位置付けさせる。美術の教科書や画集などに必ず彼の作品(とりわけコートルードのコレクション)が取り上げられるようになったのは彼の功績、確信的なマーケテイング戦略によるところが大きい。今までは十分に見えてなかったことだが、作家や作品が世に知られ、有名になっていく過程には、このようなセンスと財力を兼ね備えた人物の援助がある。俗世間に押し上げていく力という観点から見れば、画家とヒフティー、ヒフティーなのかもしれない、とさえ思わされた。

ここで見るセザンヌは文句がつけようなく素晴らしかった。どの絵にもセザンヌが生きて感じた永遠の今が定着されている。エミール・ベルナールに宛てたセザンヌの手紙を読むと、彼が自然から遠ざかった実体のない思弁をいかに嫌ったかがよくわかる。ダビンチがそうであったように彼の絵画は、徹底した自然研究から生まれたものであった。後年「自然を円筒、球、円錐によって扱う」との言葉が公式として一人歩きし、キュビズムの先駆者のように見なされてしまったのは、全く彼の本意ではなかったに違いない。「学校とか年金とか勲章とかは、白痴やおどけ者やならず者のためにのみ作られているのです」という辛辣な言葉を残したセザンヌ。これら、人間の営為を形式化して、ビジネスに結びつけ、永続化しようとする詐欺的知恵の働きを、彼はとことん嫌ったのだ。

自然はセザンヌにとって疑いもなく神の被造物であった。彼が「サント=ヴィクトワール山」や「大水浴」を繰り返し描いたのは、自然を通して永遠のアルカディア=エデンを、どうにかして見たいと思ったからである。それは観念が作り出すしてしまう理想や物語ではない。目が捉えた現実と心が描き出す現実が重なり合って焦点を結ぶところに成立している不可視の領域。しかし神が見せてくれる「本当の現実」。それを見えるキャンバスの上にしっかり構築すること。それが彼にとってのエデンだった。

しかし、セザンヌとて近代人の一人である。中世の画工のように、やすやすとはそこに近づけなかった。感覚で捉えたものを、小癪に働きすぎる知性を制御しつつ、具体的にキャンバスの上にどうあらしめるか。そこに彼の孤独な戦いがあり、単純な古典絵画の崇拝者で、理屈の人、エミール・ベルナールには、到底理解できない問題があった。まさしく「ベルナールの演繹的プラトン主義とセザンヌの機能的経験主義の対立は、やがて、立体主義やピューリズムによるセザンヌに関する想像的誤解として反復されていく」(永井隆則「ベルナール宛セザンヌ書簡」)のである。モダニズム絵画という紋切り型の中には入らないセザンヌを見た、それだけでもこの展覧会に行ってよかったと思う。

 

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