美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

充ち来るもの  Loving Vincent を見て

2018-09-26 09:05:59 | 
鳥のさえずりは
彼らを充たしているものが
何であるかを問わず語りに
物語っている。
それらは、暗闇に出会っては
沈黙をし続けるもの。
私のうちには
哀しみをもってしか
未だ存在しえぬものだが、
見えない風や光の兆しに
幽かに感じても
指の先からたちまち
零れ落ちてしまう。
あえかに思われて
幼子の眼差しと笑顔のうちに
ここに満ち充ちて
確かに存在していると
感じられるもの。
繰り返し押し寄せては
詩を孕ます追憶の波頭を越えて
決して歌ではない!
心の奥に秘せられたシンバルよ、
高らかに鳴り響け!
智恵においては知り得ぬ
満ち充ちて来るものを迎えるとき。


Loving Vincentは、世界中から100人以上の画家が集い、フィンセント・ファン・ゴッホのアルルでの最期の日々を、1コマ1コマ、ゴッホの油絵タッチで描いた長編アニメーション映画である。最新の研究からゴッホ自殺説に異議を唱えている。

野中光正&村山耕二展 生成と変容 9月21日〜26日 東北工業大学ロビー 企画/杜の未来舎ぎゃらりい

2018-09-02 21:49:25 | レビュー/感想
少しでも多くの方に見てもらいたい、との思いで、今回は皆さんにも立ち寄りやすい一番町の東北工業大学ギャラリーで以下展示を企画いたしました。野中さんについては人物と画家としての生き方も含めて惚れ込んで10年近く毎年のように展示会を開いています。少しでも流行や西洋の借り物ではない彼独自の抽象を理解し評価してくれる人が増えてほしいと願っています。村山さんとも付き合いが長いですが、そのオリジナルを作り出す勇気とユニークな才能にはいつも感服させられています。

1970年、20歳前後、野中は東京下町の風景を憑かれたように描いた時期があった。この今なお見る者に迫ってくるリアリティの質は、30歳前後から手がける版画の技法を駆使した「抽象」(ミクストメディア)においても変わらない。野中が自分にとって「具象」と「抽象」の区別はない、と言うこととも繋がるところだ。野中の「抽象」とは、絵画史の紋切型と化した1ジャンルではなく、心と魂の旋律を純粋状態で記述するための、彼なりのぎりぎりの本質還元への手法なのだ。顔料、ブラシ、馬連、定規、布、版木、そして門出和紙。最良の音楽家が楽器を綿密に吟味、調整するに似て、これら道具は身体に馴染むものとして、ときには自作される。何十年も日々淡々と制作を続けてきた。そのうちに、意識的営為を超え、手が滑らかに動き出し、作品が自ずから生まれていく「生成」の奇跡にも遭遇する。制作日だけを記す彼の作品は、作品がついには「名づけ得ぬもの」としてしか成立し難い、こういう事情を物語っている。

地球内部で起こっている生成と衰滅。その見えざるメタモルフォーゼを可視化する作業。砂に命を吹き込むガラス作家村山の営為は魅惑的な色とかたちの日用の器を生み出してきたが、一方で彼のうちには、太古に錬金術師が抱いた夢を思わせるより原理的な志向があった。それが炉から取り出したばかりの溶けたガラスに石を入れるという無謀な試みをも唐突に誘発させたのだろう。石は彼の手の内で爆発の危険を帯びながらも、水を注ぎ入れた瞬間、まるで生命ある物質であるかのように変容を開始したのである。それは彼にしか分からない驚きの瞬間であった。錬金術には2つの方向がある。1つは世界を追創造し、至高の価値「黄金」を作ろうとする道、自然科学の先行者となった道である。そしてもう1つは究極の奇跡「賢者の石」を極める道、人間自身の変身と変容の道である。この2つは芸術と言われる営為の本質を言い当ててはいないか。彼のうちにこの2つの芽がどのように内包され、花開いていくかこれからも注目して行きたい。