美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ブラジルのサーファーがパリに住んだら  Kirsten Dirksenのユーチューブ映像から 

2020-02-24 16:58:43 | 日記

ブラジルのサーファーがパリに住んだら

幼い時からブラジルの海でサーフィンを楽しんできたElisio Tiúbaは、プロのサーファーになることを夢見ていて、競技会にも参加したが自分にはトッププレーヤになる力量がないことを知った。リオデジャネイロでは、前から好きで描いていた絵の感覚と技術を生かしてサーフボードに絵を描き、自分だけのサーフボードをつくることに情熱を燃やし、サーフボードアーティストとして暮らしていた。

人生の新たなページをめくるときが来る。パリに移り住んでからも彼のマインドセットは創造力を発揮する方に向けられた。移動する車に乗って、あるいは歩きながら紙からペンを離さずパリの街を描き続けるパフォーマンスをしたりしていたが、なんと小さな子供部屋をスケートボードなどエクササイズができる部屋に自分自身の手で改造を始めた。

パリの中心にあっても子供達に、自分が子供時代に経験したような体を動かし訓練するワイルドな体験を与えたいとの思いがあった。天井まで届く木製の樹木形態のストレージなどエクササイズと生活の必要をかね備えるよう、たくみに収納スペースが組み込まれている。他の部屋も全て、ユニークなアイデアを生かして自分の手でアイデア豊かな家具を作り、改造した。

アパートメントの地下は、こうした彼のワークショップ。子供の隠れ家のようなこの部屋で、自分の作りかけやこれまでの作品を見せる、彼の表情と子供のようにキラキラ輝く目が印象的。いつもこうしたエネルギッシュな外国人のDIYの映像を見ると、創造力の大切さを誰もが主張する割には、具体的な身の回りの生活といえばお仕着せの大量生産品ばかりの日本の暮らしが、どんなにおしゃれでもとても貧相で退屈に思えてくる。

社会の小さなどこかの枠内に行儀よく収まる知識ばかり教えられている、そしてとても教えられたがりの頭でっかちの我々は、自分の感覚を開かせて、自分で考え、自分でつくることを楽しむ文化をいつになったら持てるのだろうか?もともと全ての人に備わっているはずの、そこからしか、ほんとうの自由は生まれない。

 

ブログ主の運営するギャラリーshopはこちらです


松が呼んでいる

2015-06-05 13:07:05 | 日記
朝5時半に起きて、いつもの散歩をひさしぶりに再開した。空気が澄んでいるので写真を何枚か撮った。これも久しぶり。今日はなぜか風景より個別に樹木や石が呼んでいる気がする。感情も知性もどこかで罪とつながっている人間と違って樹木の語りは神の声に近い。とりわけ爽やかな朝の光を受けて「松」が大いに主張し、ときに見栄を切っている。昔の人がことさらに「松」を愛して植えた理由がよく分かる。日本人の独特の身体感覚、舞いや踊り、美術や工芸の形態感覚にも、この松の姿、勢いや着地感、そしてスピリットが自然と入っているように思う。

ブログ主の運営するギャラリーshopはこちらです


馬が頭をかんだ

2013-12-18 14:07:24 | 日記
犬を飼う人が増えている。近所には馬を飼っている人まで現れた。はじめはロバかと思って聞いたら「いや、いや、スモールホースです」という返事が返ってきた。そのせいか変な夢を見た。裏庭、といっても今の庭ではない。木戸があるから子供の頃の庭のようだ。なぜか木戸に面した離れの前で、動けないでいる。何かに体を挟まれたようだ。突然裏の小道から馬が木戸を押して入って来た。たてがみを左右に振って息があらい。目の前通り過ぎて小庭を一周すると、逃げられないでいる私の前に立ち止まり、唐突に大きな口を開けて頭をがぶりと噛んだ。何かしゃべっている。噛んでいるのだから、声帯をふるわす音が聞こえたのだろう。「顎の下が痒いんだよね」。確かに長い顔の馬には顎の下は掻けまい。へんに同情して頭をかまれたまま、顎の下を掻いてやった。馬もうれしそうだ……ここで夢が覚めた。

東北炎の作家復興支援プロジェクト

2011-05-06 11:21:41 | 日記
以下のプロジェクトを立ち上げました。当プロジェクトにご賛同いただき、東北の作家の作品を展示販売させていただける会場を探しております。


東北炎の作家復興支援プロジェクト

●プロジェクト設立趣旨
このたび東日本を襲った大震災・大地震は火を扱う陶やガラス、鉄など、組織的な力を持たない個々の炎の作家達にとりわけ深刻な打撃を与えました。物理的には制作の要である窯が全壊あるいは半壊したり、窯が無事であってもその後も打ち続く地震で窯に火を入れられないなどの被害が出ています。しかし、それ以上の問題は、作家の生計を支えていた地元の経済的背景も震災とともに大きなダメージを受けてしまったということです。この震災後、作品を作っても販売先を失ったままでは、創作意欲も持てず、生活の見通しが立たないのが現状です。何十年と辛抱強く作品を作り続けて来たベテラン作家の中からも、長い不況に追い打ちをかけるような被災にあって、職業替えを口にする作家も出てきており、個々の取り組みを超えて、5年、10年の長期にわたって組織的かつ持続的なサポートが必要な状況です。
このままでは、日本の世界発信できる数少ない文化の1つである陶芸をはじめ貴重な文化は、東北から消え去ってしまうでしょう。東北から生みだされる作品は、東北の豊かな自然の恵みをベースにすることで、古えからの日本人の感性の土壌とつながっています。そこに東北の作家達の作品の生命力にあふれたユニークな魅力もあり、それを失うことは日本にとっても大きな損失ではないでしょうか。
私たちはこのプロジェクトに、こうした炎の作家達に受け継がれて来たいのちの伝統を、継続的に守り、支え、発展させていきたいとの思いを込めました。新たな販路開拓など販売促進活動に組織的に取り組むことで、作家の創作意欲も再び高まり、東北の地からいのちの息吹に満ちた力強い作品が生み出され続けることを願っています。

●プロジェクトメンバー
有限会社杜の未来舎(東北炎の作家復興支援プロジェクト事務局 情報収集・営業企画・販売促進活動・イベント運営)
ギャラリーくろすろーど(情報収集・営業企画・販売促進活動・イベント運営)
NPO法人 みちのくグリーンサムクラブ(基金会計)
有限会社ターム(インターネット関連広報企画)

●プロジエクト内容
・東北の作家達の被害状況及び復興状況の情報収集
東北において価値高い作品を作っている作家から将来性豊かな若い作家までリストアップし、被害状況の聞き取り及び現地調査をはじめその後も創作・運営状況の把握につとめます。
・プロジェクトの広報
プロジェクトや東北の優れた作家についてより多くの人に知ってもらい、支援の輪を広げていくためにインターネットなど各種広報活動を行います。
・ブランディングの方向性の確立
個々の作家について、個々の持ち味を捉えたブランドの確立・維持をめざし、広告広報の方向づけや販促物のデザイン・編集をサポートします。
・新たな販路開拓への取り組み
関東・東京あるいは関西・九州方面、さらに海外での展示・販売会などのイベント実施、常設展示など販路開拓、新たな販売ネットワークの確立を図ります。一過性のものではなく、長期的な視野を持って、他地域での継続的なイベントを提案します。
・他エリア作家及びギャラリーとの交流促進
上記地域の作家やギャラリーとの人的物的な交流や情報交換を図るための企画の立案と実施により、互いの創作モチベーションを高め、地域個性に基づいた作品創造を促すための手助けをします。

●復興援助基金の設立
「東北炎の作家復興支援基金」(NPO法人 みちのくグリーンサムクラブに設置)
基金の目的
義援金は、一時見舞金的なものではなくて、5年~10年とかかる継続的な作家支援に役立てることを目的とし、情報収集活動、遠隔地での販促活動、イベント企画立案・実施運営・広告広報媒体の制作、展示作品の遠隔地への運送などの諸費用として用います。

(振込先)
七十七銀行 南八木山支店
普通預金 5277205
東北炎の作家復興支援基金 理事 大泉紀男




春告げ花芽

2011-04-20 13:33:46 | 日記
広瀬川の土手の胡桃の花芽は今しも綻びそう。大震災の後、春は何もなかったかのように巡ってきた。空に向かってたおやかに伸びた胡桃の花芽と枝の組み合わせはモンドリアンのデッサンのように美しい。しかし、どうして、こんなカタチになるのだろうか。DNAに形態の情報が刻まれているから、と言えばそれまでだが、このような美しく調和した形態へと自らを形成していく力は謎と言うしかない。

人間も自然と同じく本来同じ形成力を内に秘めた存在だったが、ルネサンス以来、自ら神となり、自然の主人公となることでそれを失ってきた、そのことを改めて思わせられる。だから画家が自然に向かい、それを描こうとするのも、その奥底にはこの本能的な力を取り戻そうという無意識的な欲求が働いているからかもしれない。近代以降、写実主義から印象派へ発展を続ける中で、突然手袋を裏返すかのように表現主義の運動が起こるが、それはこの本能回復のうねりの必然的な表れに他ならない。しかし、すでに楽園の知恵の木の実を食べた我々は無垢ではありえない。(剣を持した天使が守っていたため、命の実は食べれなかったこと、知ってますか?)失われた楽園にやすやすと帰れる子どもの様な天才は別として、ほとんどの者は批評家となるか、ときどきの流行文化の類型として生きるしかない。

自然とのコレスポンダンスが、実は心の中の形態を呼び起こしたのだと気づく中で、抽象芸術が登場する。しかし、自然という外部性と交感する力を失ったとき、それは病み衰えた退廃の姿も見せることになる。芸術はマルセルデュシャンがいみじくも名付けたように「独身者」の芸術となることで、健康な力と輝きをついには失ってしまう。(写真:バックの建物は老舗割烹「東洋館」。真下の思い出多き鹿落温泉の建物は、地震で倒壊真ん中に大蜘蛛が鎮座した蜘蛛の巣状の天井がある部屋もろとも失われてしまった。花芽は変化した姿を見るとコブシではなく胡桃だと分かった。6/11訂正。御詫びします。)



電気がついた!

2011-03-13 07:02:58 | 日記
3月13日朝、地震発生2日目、電気がついた!ばんざい!これで庭での煮炊き生活ともお別れだ。しかし、災害発生の夜、街のあかりがすべて消えた中で見た星空は、どんな芸術作品より美しかった。破滅的な自然災害は、人間の営為を一瞬のうちに無にするとともに原初的なピュアな魂を呼び起こす。自然が奥底の神秘を開いてみせてくれた、そのときわれわれは荒野をゆくノマドの一人として人間を超えた存在からのメッセージに耳を傾ける。

「アマデウス」

2011-01-30 08:55:49 | 日記
サリエリ(Antonio Salieri)という凡庸な作曲家の目を通して晩年のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の姿を描いた映画「アマデウス」は、映画としてはいかにも派手派手しいハリウッド映画で、スペクタクルなオペラのシーンなど楽しめるところはあるものの、人物造形は(とりわけモーツァルトのキャスティングにおいて)騒々しく薄っぺらな仕上がりとも言えなくなかったが、映画の下敷きとなっているテーマは興味深いものだった。

端的に言えば最高の藝術は努力だけでは生まれないということである。そこには天与のセンスが関わっているということだ。これは「信仰によって義とされる」というルターの命題とも響き合う。基本的に藝術も信仰も選びと選ばれた者にだけ与えられる啓示の問題(芸術ではインスピレーション)となる。しかし、選ばれなかったと知った者には残酷だ。サリエリの狂気はここから生じる。なぜ神はあの下品な小男ではなく、身を慎み真摯に藝術に身を捧げている私を選ばなかったのか、という強烈なルサンチマンがついには神に愛された芸術家モーツァルトを死へ追いやり、同時にサリエリは自らにも狂気という名の破滅を呼び寄せてしまう。

しかし、現実にはこんなドラマチックな結果とはならなかった。現実のサリエリは、技巧だけで魂のない作品を量産しながらも、宮廷のアカデミックな仕組みに守られて、当時の世の名声も勝ち得、外見には行き倒れとともに葬られたモーツァルトと違い幸せな一生を終えたようだ。

真の藝術は天与のセンスからのみ生まれる、という立場からすれば芸術には教育という制度は無意味ということになるが、鈍感か、したたかなのかどちらなのか分からないが、今の時代には、星の数ほどのサリエリがいて、教育家であり芸術家であるという職業ジャンル、あるいは芸術界(?)を支えている。芸術を支える「宗教」的なしくみ(イエスが否定した)にたくさんの先生&芸術家が、サリエリほど真っ正面から自分の凡庸さを思い詰めることもなく、それぞれに確立したスタイルをくりかえし消費しながら一家を構えているのが現代の有り様だ。

ところで実際のサリエリは、困窮する音楽家やその遺族への支援を惜しまない人でもあったようである。こうした見る目を持った慈善家サリエリが少しでも増えたなら、本当のところ現代の埋もれたモーツァルトもどんなにか幸せだろう。

謹賀新年

2011-01-03 17:38:33 | 日記
あけましておめでとうございます。

今年の年賀状は昨年展示会をさせていただいた染付の陶芸家、岩田ゆりさんに、干支にちなんで兎の絵を描いてもらいデザインした。上の雲の図柄は、狩野派の屏風絵の図柄から取った。この不思議なかたちの雲をイラストレーターで心地よくなぞりつつ、今年も本能の赴くままに作品を作っている作家さんに出会いたい、と思った。







浅草が面白い

2010-05-25 11:09:34 | 日記
セミナーでの講義修了の後、版画家の野中光正さんのアトリエを尋ねて浅草を訪れた。昨年の11月から半年ぶりだ。今回は野中さんの案内で浅草の町をうろうろした。といっても銭湯に入り、定食屋で東京湾の魚の刺身をつまみにビールと酒をいただいただけだが。何度来ても浅草はいい。40年程前学生時代の浅草は、高齢者が訪れる郷愁の街、定番の観光地である浅草の仲店周辺だけで成り立っている裏錆びたまちという印象だった。ところが一昨年からたびたび訪れている浅草は、活気に溢れ東京で今いちばん面白い町と言える気がする。久しぶりに訪れて以来、浅草はかって訪れたパリのバスチーユと空気感がいっしょだな、と思っている。両方とも職人町の趣を残す庶民の町である一方、バスチーユでは新オペラ座、浅草ではアサヒビール本社ビルや東京スカイツリー(半分まで出来た)といったポストモダンなランドマークが辺りを睥睨している。このアンバランスな訳のわからなさがグーだ。

日本海体験

2010-03-12 16:25:01 | 日記
展示会の陶器を乗せて仙台から京都まで車で走った。これまで東京までは行ったことがあるが、京都までとなると2倍の距離なので心配したが、それほどきつくはなかった。郡山まで行って、磐越線で新潟に抜けるコース。行く前に寄った床屋さんの店主の話では、弓なりになった日本列島の姿からすると、これが最短距離。太平洋側を行くのとは50キロ近く短縮されるという。結果的に午前3時に出て、休み休み走ったから午後2時に京都に着いた。11時間掛かったことになる。関西方面には飛行機で行くことが多いのだが、車で走ると、土地の起伏が体で感じられるのはもちろん、五感で風土の違いが感ぜられ、飛行機や電車では得られない経験が得られた。とりわけ日本海側と太平洋側の風土の違いがよく解った。新潟や富山など日本海側ののびやかな空気感は大陸に近かった。日本海という大きな湖を隔てて、同じ風土の中にあるのではないか、とも感じたぐらいだ。「日本海波高し」のときは大陸ははるか僻遠の地であろう。しかし、凪いでいる時は、日本海は海流の影響はあるにしろ鏡面のようで、船は滑るように大陸と行き来できるのではないかと思うぐらいだ。そのときは太平洋側へと抜けるよりやすやすと大陸に渡れる感覚があるに違いない。