江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

東洋製線(株)江別工場

2020年01月29日 | 歴史・文化

 大正9年(1920年)、石狩川右岸、ちょうど富士製糸株式会社江別工場の対岸で東洋製線株式会社江別工場が操業を開始しました。
 
 亜麻は、第一次世界大戦後もしばらく好況が続き、この頃から反動期に入りました。
しかし、大戦後のヨーロッパ諸国からの需要は衰えませんでした。
ここから欧州製麻界の回復は相当遅れる、との観測が広がりました。
そのため、国内市況の鈍化にも関わらず、設備投資が続きました。
端的に言えば、全道の製線工場数は、大正元年の14から同10年には59に急増していました。
製線工場とは、亜麻から繊維部を取り出し、織物の原料として製麻工場に送り出すところです。
すなわち、近郷近在の農村から集めた亜麻茎を一定期間浸水池に浸します。7日から20日間ほど浸水させ、醗酵したものを乾燥(乾茎)します。これを粉茎器で破砕くし、木質部をのぞいて繊維とします。
 東洋製線株式会社江別工場も、そうした工場の一つでした。
場所は、石狩川大橋を渡って右手です。
地元篠津、美原をはじめ近くの村工場周辺に数十もできて、若い娘たちが甲斐甲斐しく働いていたものです。
当別、新篠津をはじめ、江別、野幌、対雁、幌向等からの亜麻運搬馬車が往還して居た」(『篠津屯田兵村史』)。
 何せ、当時は売り手市場です。会社から抜亜麻人夫が派遣され、馬車がやってきて亜麻山をかき集めていく、そうした例も少なくありません。
その後、「東洋製線工場に採取亜麻代金貰いに行く。いろいろ請求して割増し、馬衣1枚、ポスター貰ってすぐ戻ってきた」(大正14年8月25日『脇豊勝日記』)。
 
 なんと鼻息の荒いことでしょう。
売り手市場であることが、よくわかります。やはり、うまい話がいつまでも続くわけはありません。
やがて、亜麻景気の終焉を迎えます。
足早やにやってきた不況と企業整備の嵐の中、昭和2年(1927年)、東洋製線は北海道亜麻工業株式会社に吸収のやむなきに至りました。



註 :江別市総務部「新江別市史」330-331頁.
写真:杞柳生産と細工の対雁副業組合
 同上書235頁掲載写真4-19を複写し、江別創造舎ブログ及び江別創造舎facebookに掲載致しております。

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