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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

明治末期悪路 2

2019年08月27日 | 歴史・文化

 明治35年(1902年)5月に定められた「道路掃除及修繕規程」は、明治42年(1909年)に「道路掃除規程」に改められました。

 修繕の部分は、土木費支弁土木工事規則を制定、村直営と補助事業の2本に分け、維持修繕の充実を図ろうというものです。
(中略)

 当該規則に基づき、42年度において中央線のほか、里道の江別町道路、対雁街道、江別兵村道路、野幌兵村道路など計8線の修繕工事が行われました。
総経費は、2,885円16厘で、支出内訳は村税より2,719円596厘、寄付(現品換算)165円520厘となっています(江別村通常土木費決算費)(明治42年度)。

 明治期において隣接村に通ずる主要な広域幹線道路の取り付けは終わりました。
 また、部落総出の修繕も継続的に実施されましたが、問題はとりあえず道は通じたという程度で、「本村(註:当別)江別間は融雪道路汚濘のため目下交通杜絶のありさまとなり」(大正3年4月3日付北海タイムス)は、決して特異な例ではありませんでした。

 大正2年(1913年)度から2ケ年にわたり、こうした村内の枢要道路改良事業が行われました。
そのうち、2年度には、①中央県道大曲道(500間)・②里道・野幌2号線広島道(400道)・③里道・篠津村石狩川沿岸道路(400間)、④里道・江別太幌向街道(227.7間)の改良工事が実施されました。

 石狩川沿岸道路は、当別方面の農産物搬出の必要からです。
通常は、人馬共篠津ー対雁間の渡船を利用していますが、該渡船は季節や天候の影響で安定的進行が難しい。この渡船が欠航の場合は、どうしても重兵衛渡しまでの道路は開かレテおらず、農民は汚泥のぬかるみを、あえぎあえぎ通うしかありませんでした。
そのための、待った無しの改良工事でした。

 なお、大正4年には各部(註:村内を13の部に分け、それぞれ部長その他をおき、村政庶務の便宜を図りました。
 昭和2年10月より部制を区制に変えました。
道路橋梁保護組合が組織され、道路改修、橋の修繕や保全など、住民総出役の体制が整いました。
「大正になってからも道路の管理は地域の住民の手による他ありませんでした。
(中略)
組合長が中心になり、道路の補修の計画を立て、各に出役を要請しました」(『美原70年史』)。

 各戸は出役し、富士製紙の工場から排出の炭殼を馬橇で運びました。
そして、幾日もかけ道路に厚さ30cmに敷き詰める作業に精を出しました。
あるいは、いずれもその出役の対価は、道路保護組合長名による1枚の精勤証程度でした。



註 :江別市総務部「新江別市史」242-243頁.
写真:モショッケ公園
   *江別市緑町東三丁目114-1


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