昭和3年(1928年)2月6日、東京・愛宕山の開局まもない日本放送協会の電波に乗って、今井篁山の追分が全国津々浦々に流れました。
昭和2年3月現在の道内聴取契約数は1,140です。ラジオは、資産家しか持てぬ贅沢品でした。
当時の江別には2〜3台しかなく、常八夫婦は地区の江別病院(長佐古院長)に駆けつけ聞き入っていたといいます。
この年、篁山は生涯に約80枚吹き込むことになるレコードの、その第1号を世に出します。
すなわち、得意の追分をヒコーキ印レコードに吹き込んだのです。
以降、テイチク、キング、日本ポリドール、日本コロンビアなどに追分をはじめ各種民謡を吹き込むことになりますが、端折って言えば、篁山が飛ぶ鳥落とす勢いを得るのは、14年の北海タント節(ポリドール)の大ヒットでした。
タント タント 合子の上作(あいこのじょうさく) 其の訳 ダンヨ
真に陽気、真に調子の良い歌です。
この頃、14歳で篁山に弟子入りし、武蔵楼の茶の間で稽古をつけられた、現在の今井篁山流北州社家元加藤貴美篁によレア、『当時、民謡に縁遠い人でも、今井篁山の名を知らない人はないほどの大スター』で、かの「おんな船頭歌」で鮮烈なデビューをした頃の三橋美智也に似ていました。
声の質、声の張り、全く痺れちゃう抗し難い魅力に溢れていたのでしょう。
(参考)
当ブログ2009年 3月10日(火)「昭和初期の文芸」
当ブログ2008年 9月26日(金)「四つの映画館」
当ブログ2008年 9月25日(木)「富士見座」
当ブログ2008年 9月24日(水)「千歳座」
当ブログ2008年 9月16日(火)「江別兵村の風土と文化」
註 :江別市総務部「えべつ昭和史」834頁.
写真:タント節レコード<江別カルタ「た」の句の詠み札と取り札>