江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

団地党の立ち上げ

2012年07月26日 | 歴史・文化

 昭和45年道営大麻(おおあさ)団地は、新住宅市街地開発法に基づき、知事の工事完了公告をもって江別市に移管されました。

 人口は、17,000人、世帯数も5,000を超えました。
小さな町がひとつ、すっぽり大麻(おおあさ)団地の中に生まれ、やがて徐々にそこに住む人々の共通の悩みや課題が明らかになってきました。
 もはや、団地特有の隣近所に対する我関せずのままでは、生活環境の改善など、何ひとつ解決しません。
 また、それ以前に砂を噛むような隣人関係のままでは、この先の生活が思いやられます。

 おはよう運動が提唱されました。
花いっぱい運動も起こりました。
やがて全道でも例のない札幌通勤者の条件を改善しようという大麻(おおあさ)通勤者ユニオンも結成されることになりました。
 当面の問題は、団地の江別市移管により、今までのように現住所・江別、本籍・札幌の二重の生活意識ではおられないことでした。
 つまり、団地住民の意見、要望などを江別市の行政に反映しなければ、生活環境の改善は、なにひとつ解決しない、そうした局面に移ったのでした。

 昭和45年3月、第2住区で市政懇談会が結成されました。
同10月、懇談会を母体に、誰もが住みたくなる江別市を建設する会が生まれました。
同会のスルーガンは、
(1)生活、文教都市をめざす高度な基盤整備をする。
(2)市民の健康と安全、福祉を守る市政を確立する。
(3)市民の立場に立つ民主的な市政を実現させる。
など、でした。
 無論、狙いは46年春の市議会議員選挙に団地代表を送り出そうというものでした。いわゆる、団地党の旗揚げでした。

 この時、団地党の一人として立起した大麻(おおあさ)沢町の元道職員の大場孝は、『45年の暮から各住区から立候補する人が現れて、それを各住区ごとに人口比で候補者数を決めました。人口の多い第1と第2住区は2人ずつ、第3住区は一人に絞りました。私は、第3住区ですが、まだ道庁の現職でしたが、道での経験を生かして、この町の未完成な部分を充足してほしいと説得されて、それで市議をやろうと決心』したといいます。
 それぞれが、それぞれの住区の興望と人生の節目を背負って、団地党の旗の下に馳せ参じたのでした。

 46年4月、大麻(おおあさ)団地党は6人の候補者を擁して選挙戦にのぞみました。既に団地人口は2万人にせまていました。人口だけからみると、全員当選に充分な票はありましたが、市議選は主義主張もさることながら、それらを越えた血縁などがその他の要素が大きく作用しました。
 そして、関係者がそれ以上の不安要素としていたのが、隣に空き巣が入ろうがどうしようが我関せずで、警察を泣かせた閉鎖性でした。
 加えて、まだまだ札幌市大麻(おおあさ)区民の意識の濃厚なサラリーマンが圧倒的な地区柄だったのです。

 果たして、江別市議会議員選挙に関心をもってくれるかどう、それが一番心も都内状況下にありました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」282頁.
写真昭和41年12月、国鉄大麻(おおあさ)駅開業テープカットの模様
 同上書272頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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