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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

終戦直後の町政

2011年11月15日 | 歴史・文化

 松川町長が就任したのは、20年7月13日、まさに終戦1ヶ月前のことです。
しかも、請われて町長に就任したばかりの松川にとっては、呆然自失もむべなるかな、でした。
 事態は、急迫しており、町民生活の立て直しに着手しなければなりませんでした。

21年は天皇の人間宣言(元旦)で明けました。
いわく、『天皇ヲ以テ現御神トシテ且日本国民ヲ以テ他ノ民俗ニ優越セル民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ』(新日本建設に関する詔書)です。

 また、2月に入ると、29年8月に終わる天皇の延べ165日、3万3千キロに及ぶ地方巡幸が始まりました。
 一方、石炭もない正月を迎えることとなった町民は、1月14日食糧解決町民大会を開き、速やかな事態の打開を訴えざるをえなかったのです。

 さて、松川町長は、2月の第1回町会にて、21年度の町政執行方針を次のとおり述べました。
1)食糧の確保~最重要課題として供出の督励と配給の確保
2)保健衛生施策の拡充と無燈火の解消
3)学校の増改築、修繕と男子中学校の設置
4)役場内の刷新と士気の昂揚

 空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅、と言われたとおり、当面したのは、食糧と住宅の確保でした。なかでも、焦眉の急は食糧対策でした。
なぜなら、20年は全国的な凶作だったのです。
特に、冷害の影響をまともに受けた北海道の食糧事情は最悪となりました。
 米は、18、19年の3分の1しかとれず、しかも農家からの供出は滞り、目の前に飢餓が迫っていました。
 
 松川町長は、その町政執行方針の中で、『私ハ本町ニ於ケル本問題ノ打開ヲ企画スベク部下ヲ督励シ、或ハ町外ヨリノ獲得ニ努力セシメ或ハ町内農家ヨリノ供出ヲ督励スル等焦眉ノ対策ヲ講ジツツアル』が、しかし、一向に事態が好転しない苦衷を述べ、農民の同胞愛と祖国愛に頼るほかないと訴える。そして、生産者のみでなく、消費者に対しても充分な事態への自覚を促し、『飢餓線上ヲ彷徨スル町民ニ対スル配給ノ確保ニ最善ノ努力ヲ致シツツアリ』と、問題の深刻さをるる開陳したのです。

 当時、町役場の食糧課主任であった高間専一は、『道庁の食糧課に行くと割当量は発行しても現物は自分で見付けよとの話で泣き出し度くなる位である。(中略)やむなく道の割当量を確保して服のかくしに現金を夫々入れて北見の上湧別の山の中まで澱粉買いに行った。駅から二里、どちらを見ても灯とてなく、ごうごうと枯れ木をゆする凩の音のみ。足の運びもにぶる。こんな事でどうなる。二万町民は自分が食糧を確保して帰るのを待って居るのだ』(江別市職員機関誌「ほのほ」No.2)と、町長の督励に応えねばならぬと必死であった様を振り返っています。

 町では、既に20年11月に設置した町自体の自給体制を確立するため食糧対策委員会を中心に、民間組織の食糧危機突破期成連盟、江別町消費者共同組合などと一致協力、事態の解決に腐心しました。
 しかし、食糧問題はもとより、町政各般の好転の兆しさえ見えぬ21年11月、松川町長は公職追放令に問われ、辞職のやむなきに至りました。

 後年、松川は「11月7日に石狩支庁長から電話で貴君が追放になることになったので、直ぐ辞めるようになさいとの連絡が入りました。私は急なことなので驚きましたが、丁度当日町議会を開いておりましたので、直ちに辞職願いを提出』(市立江別総合病院二十年史)したと、その突然の辞職劇の内幕を語っています。

 その後は、町長代理の後藤邦義助役が、翌22年4月まで町政の舵取りに腐心することになりました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」148-150頁.
写真:2代目江別市長 松川清町長
 同上書149頁掲載写真を複写・当ブログ掲載いたしております。

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