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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

食糧増産と農地開発営団

2011年10月17日 | 歴史・文化

 17年、主要食糧農産物増産のための食糧自給基地の建設を目的とした農地開発営団は、角山地区約1千町歩の基本工事を行いました。

 『皇国食糧ノ自給確立ノ使命ヲ負フ農地開発営団ハ本町ニ事業所ヲ設ケ未開原野ノ開発ニ着手シ、本年字角山ニ約一千町歩ニ対し開墾スルト共ニ一部直営作付ヲ行ヒタリ』

 この年、新規開発営団事業として篠津(647町)、野幌(551町)、江別太(527町)を指定しました。
 角山地区の開墾には、商報札幌支部女子青年隊などによるカボチャ、大豆などの種まきが行われました。
 7月には除草のため商報札幌支部のほか、百貨店、各商組などの女子青年隊約5千人余が投入されるなど、文字通りの人海戦術が展開されました。
 旧豊平川を挟み隣接する機能で、その様を眺めていた前田清蔵は、『もう、お祭り騒ぎでやったんです。札幌からトラックで女性20~30人積み、2台も3台も連れて来て、昼食炊き出して、また送るという。もう、軍歌を歌ったりね』と、食糧増産に坩堝と化した情景を記憶していました。

 18年には、春先から2ヶ月半にわたり、空知農業学校の学生が入り湿地を開くなど、学生たちも広範にわたり投入されました。
 こうして徐々に拓かれる営団の土地に対し、営団、道庁、市町村が一体となり、自作農創設の見地からも入植者の勧奨に積極的に乗り出すのでした。
 また、南豊幌地区においても、同営団により、16、17の両年、各号線の排水工事が行われました。
18年には、客土も開始されましたが、しかし、労力、経費などの払底により中断、以降、営団の主力は角山地区に集中することになりました。

 18年を経て角山地区は、『開発一千町歩ニ達シ白石野幌原野地区ハ既ニ野幌機能農学校関係移転農家十六戸ノ入地ヲ見、開発面積七十町歩余、道路、橋梁、工事等概ネ竣工ヲ遂ゲ開発ノ緒ニ就ケリ』(昭和18年江別町事務概況)と一定の進展をみることになりました。
 とはいえ、金肥の配給は先細りとなり、労力の不足はおおい難いところまできていました。
 『営団より水田、西角山の一町五反貸すとの推薦状あれど、そんなに拡げてもと思ふ』(昭和18.4.16脇豊勝日記」。

 この脇の懐疑の一節は、営農条件悪化の裏付けです。と、同時に、営団事業区への入植者の勧奨がはかばかしくないことをも物語っています。
 結局、この営団事業による角山地区の開墾は、掛け声の高さに比して稔り少なく、本格的開墾は戦後へと先送りせざるをえなかったのです。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」138-139頁.
写真:江別高女生の勤労奉仕(稲刈り)
 同上書138頁掲載写真を複写・当ブログ掲載いたしております。

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