江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

アイヌ人別帳

2010年04月08日 | 歴史・文化
 安政4年、松浦武四郎は石狩川上流の探検に向かう途中の5月19日、ツイシカリに立ち寄っています。
 『丁巳日誌』によると、この年の3月に番屋が焼失したため、一行はユウフツの出稼小屋に止宿しています。
 同書には、ツイシカリ川筋の様子についても詳しく記しています。

 川を上ると左の方に数条の小川があって、下の方か6番目の小川がノホロ(野津幌川)です。さらに、少し上って左の方にアシュシヘツ(厚別川)があり、そのフト(川口)より少し上がって右の方にトウハロという口があります。この口の上に一つの沼(モエレ沼)があり、そこから下サッホロ・ナイホの川(伏古川)とツイシカリ川の両方へ落ちていきます。そのフトの傍らに、昔、下ツイシカリ(上ツイシカリの誤りと思われる)の小屋があったと聞きましたが今はその形跡もありません。
 さらに、その上、右手にはナエホという昔の村跡があり、そこより落ちる水はかつてはサツホロの方へ落ちていきました。

 この年の調査行の力点は、新聞開削を行ううえで必要な、蝦夷地一円の地理・地形の事前調査でした。幕府は、内陸への移住を促すと共に、交通の整備に取り組み、石狩においても石狩ーアツタ間、石狩ーツイシカリ間、銭箱ーユウフツ間の新道が開削されました。
 これらの調査をもとに作成されたのが、『東西蝦夷山川地理取調図』です。

(参考)
当ブログ2010年 4月 5日(月)「石狩改革」
当ブログ2010年 4月 4日(日)「在住制と御手作場」
当ブログ2010年 4月 2日(金)「箱館奉行設置」
当ブログ2010年 4月 1日(木)「箱館開港」
当ブログ2010年 3月30日(火)「初航蝦夷日誌」
当ブログ2010年 3月27日(土)「遠山・村垣西蝦夷地日記」
当ブログ2010年 3月25日(木)「イザリ・ムイザリ紛争」
当ブログ2010年 3月24日(水)「東蝦夷地の改革」
当ブログ2010年 3月23日(火)「御救交易」
当ブログ2010年 3月17日(水)「クナシリ・メナシの戦い」
当ブログ2010年 3月15日(月)「コサックの探検隊」
当ブログ2010年 3月13日(土)「サンタン交易」
当ブログ2010年 3月 9日(火)「清朝の辺民制度と樺太」
当ブログ2010年 3月 8日(月)「場所請負制と金肥」
当ブログ2010年 3月 7日(日)「ツイシカリ場所」
当ブログ2010年 3月 6日(土)「知行制の転換」
当ブログ2010年 3月 2日(火)「石狩川中心的交易地ちよまかうた」
当ブログ2010年 2月28日(日)「アイヌのチャシ跡」
当ブログ2010年 2月27日(土)「ハウカセと石狩アイヌ」
当ブログ2010年 2月25日(木)「シャクシャインの戦い」
当ブログ2010年 2月24日(水)「商場知行制の成立」
当ブログ2010年 2月21日(日)「徳川家康黒印状」
当ブログ2010年 2月20日(土)「和人地の成立」
当ブログ2010年 2月16日(火)「アイヌ文化の成立」
当ブログ2008年10月 1日(水)「北海道三権分立制廃止」
当ブログ2008年 8月12日(火)「北海道の成り立ち」
当ブログ2008年 7月15日(火)「北海道三県一局の成立」
当ブログ2008年 6月30日(月)「江別最初の学校ー対雁学校」
当ブログ2008年 6月28日(土)「対雁学校の教育」
当ブログ2008年 6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」
当ブログ2008年 6月19日(木)「蝦夷地改称2」
当ブログ2008年 6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
当ブログ2008年 6月10日(火)「地名解」
当ブログ2008年 6月 9日(土)「元禄御国絵図」
当ブログ2008年 6月 6日(金)「アイヌの遺構江別チャシ」
当ブログ2008年 6月 5日(木)「アイヌ文化期のツイシカリ」

註:江別市総務部「新江別市史」104-105頁.
写真:安政年間の石狩地方
 同上書図2-13を複写、掲載いたしております。
 明治29年の5万分の1図に、『丁巳日誌』や『取調図』にあらわれた江別周辺の主な地名を落としたものである。
コメント
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