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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

一原部落と大川通り三角地の集落が消えた日

2009年11月17日 | 歴史・文化
 昭和43年秋、石狩川右岸の一原が築堤工事のため集団離農しました。

 一原は、もともと江別屯田兵村の追給地であり、開拓の端緒は明治23年まで遡ります。その後、続々と自由移民が入り、第二次大戦後は、海外引揚者の移住もありました。昭和28年には102戸、580人の生活と営農の場になりました。そして32年から造田事業も始まりました。
 しかし、度重なる石狩川の氾濫は、この地を直撃し、安住の地となることはありませんでした。

 昭和37年、石狩川築堤期成会が結成され、38年2月、松川市長は「一原地区の築堤および民地買収」のため上京陳情しました。昭和38年から測量が開始され、42年には用地買収も完了、地上物件の移転撤去と同時に集団離農となったのです。

 一方、大川通りは、千歳川が石狩川に流れ落ちる、いわゆる三角地から南の国鉄函館本線までの狭い地域でした。三角地には、かつて三井木工場、藤原木工場があり、その後大正9年には石狩川治水事務所江別機械工場が開設されました。昭和初期には、人家100戸、商店20余りも数えるに至りました.これは、ちょうど一原の対岸にあたり、同の発展に伴走し、重兵衛渡しによる一原・美原方面への交通の要衝ともなりました。

 その後、長い間、石狩川と千歳川に挟まれた特異な風情を讃える水郷の街として親しまれていました。
 昭和54年からの千歳川改修工事が命運を決しました。
 市街地と大川通りを結ぶ江別橋が解体撤去され、通りは袋小路に追い込まれることが明らかとなったのです。当時、大川通りには13戸が生活していました。同橋撤去により、寝耳に水と猛反発が起こりました。江別橋撤去反対同盟を結成し、市に計画の撤回を求めました。
 結局、昭和55年1月に至り、国が家屋移転費を補償することで同反対同盟と合意、その後全ての移転が完了したのは、昭和58年3月のことです。

 こうして、一原と大川通りという幾代にもわたって形成されたきた集落の姿が消えていったのです。それは、暴れ川石狩川を克服するために支払われずにはおれなかった代価であり、そこに人智、人力のひとつの限界をみたといっても過言ではないでしょう。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」433-434頁.
写真:石狩川
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