江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

最初の労働組合江別友愛会結成

2009年01月09日 | 歴史・文化
 大正6(1917)年5月20日、江別神社境内において江別で最初の労働組合、江別友愛会が結成されました。

 「札幌郡江別町友愛会発会式は、20日午前7時煙火を合図に、会員三百餘名打揃ひて江別神社に参拝し、12時より発会式を挙行し、神塚氏の発会の辞あり 余興の浪花節ありて午後1時盛会裡に散会せり」(大正6年5月21日付北海タイムス)。

 友愛会は、大正元(1912)年8月、鈴木文治を中心に東京で結成されたわが国最初の労働組合です。
 道内では3年6月に室蘭日鋼に支部が結成されたのを皮切りに、その後、5年4月、鈴木の道内遊説を契機に支部結成が続きました。

 大正5年 5月 札幌支部(札幌苗穂工場)
   5年 8月 輪西支部
   5年 9月 苫小牧支部(王子製紙)
   5年10月 渡島分会 熊泊分会

 しかし、こうした勢いもほんの束の間のことでした。大正6(1917)年、日鋼室蘭の労働争議の挫折と、その後の弾圧により解体を余儀なくされると同時に他の支部も同年中に雪崩をうって消滅しました。

 江別友愛会の発足は、札幌支部発足の1年後でした。
大戦後の好況は、工業生産を刺激し、職工、職人などの労働者層を増大させました。これら労働者層が明治以降の過酷ともいえる資本蓄積期における収奪体制に異議申し立てをするのは自然であり、この時期、江別でも組合結成の動きがあったとしても、決して不思議ではありませんでした。
 しかし、江別友愛会については、現状上記に取り上げた新聞記事以外の資料は残っていません。しかも、各支部が雪崩をうって消滅した時期のことです。誤報ではないとすれば、発足はしたものの、自然消滅の道を辿った可能性は高いと思われます。

 なお、大正8(1919)年の江別労働保護組合の長は、藤原由蔵(藤原汽船などを経営)でした。その他、副が中谷勇吉、評議員に稲葉庄作、角谷直次郎など、当時の江別で多くの作業員等を雇用した土木、運輸関係者でした。この頃の社会情勢や大企業の労務者対策と軌を一にした企業防衛的な組織と推量されますが、断定はできません。
 大戦景気は、大正9(1920)年3月15日の東京株式市場の株価暴落で幕を閉じました。この戦後の恐慌は、東京から大阪、横浜など全国の主要都市に波及し、下半期にいたり北海道も随所にその影響を被り始めました。重要産業の石炭が下落し、不況の波が鉄鋼業界を直撃しました。
同年6月、室蘭の日鋼は、1,250人の職工を馘首(かくしゅ)しました。ひたひた押し寄せる恐慌に、樺太へ新天地を求める移民も増えました。
 
 同年5月2日、東京、上野公園で最初のメーデーが行われ、参加の友愛会、信友会、啓明会などにより労働組合同盟会が結成されました。

「一般経済界益々緊縮ヲ加ヘ 失業者続出シ 下級労働者生活ニ窮スルノ状態ニシテ 遂ニ予期ノ成績ヲ得ル能ハス 前年度同期ニ比シタルハ 実ニ止ムヲ得サル現象ナリトス」(江別町事務概況)大正10年)。

(参考)当ブログ2009年1月7日(水)「野幌煉瓦工場」
    当ブログ2009年1月6日(火)「北海道製麻会社創立」

註:江別市総務部「新江別市史」236-237頁.
写真:王子製紙と石狩川を撮影
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする