江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

農話会と農談会

2008年09月02日 | 歴史・文化
 札幌県は明治15(1882)年と17(1884)年、勧農協会に委託してそれぞれお農業仮博覧会・北海道物産共進会出席の農業篤志者(35人、30人)を集めて、「農話会」を開催しました。

 これは、農業技術・農家生活・副業・移住などに関し、具体的な課題を出して報告、討論を行わせ、当時の先進農村もしくは農業先達者の経験を農業の指導奨励策の中に生かそうという試みでした。
この試みは他の類似の会合を生み、明治20年開催の「農業集談会」に引き継がれていきました。

 農話会の出席者は、各地の指導的農民であり、もしくは学識経験者でした。指導的農民は、あるいは移住団体の統率者の場合もありました。しかし、彼らは府県在来の農法を発展、普及させた「老農」とはやや性格を異にしており、水稲の品種、栽培法の改良に努めた札幌郡月寒村の中山久蔵など一部を除けば、多くの場合開拓使の農業指導の基調であった欧米農法の先駆的実践者であり、独自の慣行農法を継承、普及したとはいえませんでした。

 この他、明治15(1882)年3月有珠郡では独自に有志が集まり有珠農談会を組織し、毎月1回の集会をもち同郡農業の改良進歩を図ることになりました。会員は、60人でした。明治16(1883)年7月札幌県勧業課は、品川農商務大輔の巡視に随行して来県した明治の代表的老農船津伝次平(濃務局御用係)を招き、札幌で農談会を開きました。来会者は、県令、書記官および庁下近村の篤農家等150余人でした。

 船津はまず新墾の方法について、飛騨国および群馬県で行われていた一種の焼畑方式などを紹介し、ついで来会者の質疑に応えて、養蚕、水田、肥料、選種法および山林一般等について、各地の在来農法の経験をふまえて詳細に述べました(札幌県勧業課第二回年報)。ただ、ここでは西洋農具や外国産種苗については論ぜられず、北海どうにおける従来の農業奨励のあり方との違いがはっきりしていました。
 さらに、郡区長諮問会等において農事に関しても種々の問題が議せられ、例えば明治17(1884)年2月札幌県の諮問会で農事通信規則の改正案を作成し、農商務省の全国の農事通信手続きの改正に対し、北海道の実状に応じた対案を立てました(札幌県農業)。
(参考)当ブログ8月22日(金)「開拓使廃止に伴う勧農政策の変化ー博覧会・共進会開催」
    当ブログ8月19日(火)「北海道をめぐる商品の流通」
    当ブログ8月 6日(水)「耕馬の活躍」
    当ブログ6月19日(金)「飛騨屋と石狩山伐木」

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」814-815頁参照
コメント
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