団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

記者を堕落させた 「機密費」

2010-05-30 19:12:18 | 日記

わたしはこれで記者を堕落させた 「機密費」で接待、「女」も用意 平野貞夫・元参院議員に聞く


5月30日10時12分配信 J-CASTニュース








わたしはこれで記者を堕落させた
辞める直前の細川護煕首相(当時)から「お世話になった人たちにお礼をしたいので、機密費の使い方を教えてくれ」と電話が入ったこともある、と話す平野貞夫さん。

 官房機密費を政治評論家に配った――野中広務・元官房長官のこんな発言が波紋を広げている。「政治と金」を厳しく追及してきたはずのマスコミの側に「マスコミと金」の問題が急浮上した形だ。政治部記者の「接待」を機密費で面倒みたと話す、かつて小沢一郎氏(現・民主党幹事長)の懐刀といわれた平野貞夫・元参院議員(74)に話を聞いた。

■接待うけた記者がその後出世していった

――官房機密費の対マスコミ使用について、直接経験したことを聞かせて下さい。

  平野 昭和40(1965)年の終わりから2年間ぐらいの話です。当時、衆院事務局に勤務しており、園田直・衆院副議長の秘書を務めました。園田さんに言われて竹下登・官房副長官のところに報償費(官房機密費)を月々300万円とりに行き、その大部分を私が管理していました。
   野党対策費として旅行の際の餞別に使ったり、副議長担当の記者対策にも使ったりしました。当時はまだ、テレビではNHKの記者だけで、あとは大手の新聞、通信社。20代の記者もいたけど、多くは30から35ぐらいで、40歳近い人もいました。


   担当記者を連れて、赤坂や銀座の料亭へ行ってクラブへ行って……ランクは中級でしたがね。それから記者たちはこちらが用意した「女」とホテルに泊まってました。私は途中で抜けるのですが、園田さんから「ちゃんと最後まで接待せんか」と怒られたこともあります。その費用をこちらが持ち、1度に20~30万円、月に1回程度といった感じでやっていました。

――記者に抵抗感はなかったのでしょうか。

  平野 それが当たり前の時代でしたから。でも、朝日新聞の記者だけは応じませんでした。「自分の信条だ」とか何とか言ってました。ほかの記者は、政治家や派閥と仲良くやって情報を取る、それが仕事だと思っていて、後ろめたさは持っていませんでした。また、そういう記者がその後出世して行きましたよ。

■封筒の厚さからすると、30万円程度かそこら

――今の話に出てきた記者の中で、今も政治評論家などで活躍している人はいますか。

  平野 活躍というほどではないですが、現役の評論家もいます。某紙では幹部になった人もいますが亡くなりました。

――そうした慣行は、ほかの政治家担当の記者たちの間でもあったのでしょうか。また、いつごろまで続いたのでしょうか。

  平野 私たちが特別な事をしている、という意識は当時全くなかったですね。野党対策もマスコミ対策も「世論対策」という意味では同じでしたから、広く行われていたと思います。以降は、私たちの10年下ぐらいまでは続いたでしょうか。感覚的に、ですが。

――ほかにも機密費のマスコミへの使用経験はありますか。

  平野 非自民・共産の連立政権である羽田孜内閣(1994年)のときにあります。当時私は参院議員で、自民を離党し小沢(一郎)さんたちと与党の新生党にいました。あるとき、熊谷弘・官房長官と私とある政治評論家の3人で食事をすることになったのですが、熊谷さんが急に行けなくなりました。その際、評論家の人に渡すように、と熊谷さんから封筒を預かりました。中は現金で、厚さからすると、30万円程度かそこら、50万はなかったですね。料理屋で渡すと彼は自然に受け取りました。あれは間違いなく機密費でしょう。そう説明を受けた訳ではないですが。彼は今でもテレビなどで時々見かける活躍中の人です。名前は言えません。

■20年、30年後に使途公開するルール必要

――平野さんは、過去にも機密費に関して大手マスコミの取材を受けられ、野党対策に使った話などをされています。当時の記事に機密費の対マスコミ使用の話が出て来ないのは、削られたからでしょうか。

  平野 いえ、そういう質問が出なかったので、私の方でも話さなかったということです。

――今春に入りテレビや講演などで「政治評論家へ機密費を渡した」と証言している野中さんが官房長官だったのは1998~99年です。野中証言の信憑性についてはどうお考えですか。

  平野 野中さんの証言は「なるほど」と思う内容で、そういう現状はあったと思います。自民党政権下では、政党や派閥の勉強会にマスコミの人を呼んで講演料やお車代として機密費が最近まで使われていた可能性は大いにあります。

――制度やマスコミ人の意識の上で改革すべき点はあるでしょうか。

  平野 制度上では、例えばアメリカなどのように、20年、30年したら使途を公開する、といったルールを設けるべきです。後の世に明らかになる、というのは大きな歯止めになると思います。
   マスコミの人はもっと自戒すべきでしょう。機密費に限らず、政治家と大マスコミとのもたれ合いは、程度の差こそあれ昔から続いていました。民主党政権になって変化の兆しが出てきましたが、例えばテレビ局と電波政策の関係は、「既得権益」を巡りこれまで「あうんの呼吸」で進んできた側面があります。
   こうした冷戦体制時代の「文化」をひきずってはいけません。昔と違って「情報社会」と言われる現在です。派閥の幹部からの情報にしがみつかず、自分で本質を見極め、政権・政治家の側の情報に惑わされない報道をしていくことが求められる時代になっていると思います。

<メモ 野中広務・元官房長官の機密費発言>官房機密費の使い道のひとつとして、政治評論をしている人たちに対し「盆暮れ500万円ずつ届ける」などの行為があったと明かした。2010年4月下旬、TBS系番組や沖縄県での講演などで証言した。受け取りを拒否した評論家として、田原総一朗さんの名前だけを挙げている。


<平野貞夫さん プロフィール>ひらの さだお 1935年、高知県生まれ。法政大学大学院政治学修士課程終了。衆院事務局に勤務し、副議長・議長秘書などを経て委員部長を務める。92年の参院選(高知県)で、無所属(自民党など推薦)で初当選。2期務める間に小沢一郎・現民主党幹事長と行動を共にし、新生党や新進党の結成に携わる。「小沢氏の懐刀」と称された。2004年に参院議員を引退し、現在は言論・執筆活動に専念している。著書に「小沢一郎 完全無罪 『特高検察』が犯した7つの大罪」(講談社)、「平成政治20年史」(幻冬舎新書)など多数。

浅田次郎「中国論」(6)

2010-05-30 09:54:29 | 日記

第6回


漢字の不思議な力



浅田氏は、中学二年生のとき、国語の先生が漢詩を読み下し文で読んだ瞬間に「なんだ、この美しい言葉は!」と思ったという。外国語なのに、言語に返り点をつけて日本の構文に直して読み下したら、非常に美しい文章になり、そのうえ、言わんとしている内容まできちんと伝わってくる。そうした言葉の変換の不思議さにどんどん惹かれていったという。


そもそも、英語の詩を日本語に翻訳しても、こうは完全な対応関係にはならないわけです。ところが、漢詩と日本語の読み下し文のあいだにおいては、発音のちがいがあるだけで、内容の変化やましてや誤訳は発生しません。まぁ、稀に格好良く読み過ぎてしまう先生もいらっしゃいますが、その格好良く読み過ぎた文も味があってすばらしい。漢詩においては現代に沿った新訳のほうがいいのかといったら、そうとも限りません。むしろ、漢籍の教養がにじみ出ている昔の老大家の読み下しにこそ愛着を覚えてしまいます。


漢字という媒体を通せば、中国人と日本人というちがう言葉を話している国民同士が、まったく心を一にすることができて、美的情緒の面までも心を一にすることができる。その不思議さに、私は心を揺り動かされたのです。



中国文学を読みこんで中国を理解してきた浅田氏。その理解の過程には「漢詩を書き写す」こともあった。


中国の文学、ことに漢詩の場合は自分で書き写すと内容がよく伝わってきます。漢字には、一文字一文字書いてはじめてわかる不思議な力があるのです。ですから、いまでも漢詩の書き写しは趣味ですね。


私はかつては日本語の文章もよく書き写していました。それは別に勉強のためではありません。良い文章を深く味わうためには、自分で書き写してみることが一番だからです。


漢字に対する私の考え方は、白川静先生から大きな影響を受けました。漢字文化の研究において、あらゆる学派に属さずに「白川学」を作りあげた底力には感心させられます。たしかに白川先生の説には、解釈の域を超えて詭弁を感ずることもあります。しかし、それはそれとしても、私は漢字が持つ一字一字の重さを白川先生から教わりました。小説を書いているとき、文章の流れのなかで必ず使うべき漢字を見つけることがあります。たとえ読者が知らない難しい漢字でも、文章の流れのなかでピッタリはまる漢字がある。これは、漢字のルーツが象形文字であるということの証拠だろうと思っています。


「謙虚な国」中国を誤解しないために



中国人と日本人は今後どう付き合っていくべきだろうか。


非常に簡略に言うなら、「何だかんだ言いながら、日本人は中国人と仲がいいはずだろう」という視点を忘れてはいけません。中国人の態度は日本人にとっては「偉そうだ」と感じることも多いかもしれません。でも中国人は本来、謙虚な性格だと思う。姿勢や習慣によって「偉そう」に見えるだけなのです。中国人に頭を下げる習慣がないことも、誤解される原因のひとつでしょう。


日清戦争があって、日中戦争があって、戦後の二七年間国交もなかったのに、日本には、私が子どものころから中華料理屋が溢れかえっていました。なぜ、これだけ日本に中華料理店があるのか。


大きな理由のひとつは、日清戦争のあとに中国は三万人もの留学生を日本に、とりわけ東京の明治大学や日本大学や法政大学に多く送りこんだからです。それで、現在でも神田界隈にたくさんの中華料理店があるわけです。


日清戦争後、中国は「世界で生き残る道は日本に学ぶしかない」と日本に大量の留学生を送りこみました。そんな態度をとることができる中国は、謙虚な国でしょう。そうした角度から中国を眺めてみるなら、本当の付き合いかたが見えてくるはずです。


私が現在手がけている中国近代小説のシリーズは、フィクションではあるけれども中国の近代というものをできる限り正確に記述しているので、楽しみながら中国の本質を理解するにはいい読みものかもしれません。


私が現在執筆している続編のタイトルは「マンチュリアン・レポート」といいます。この作品のなかで張作霖は爆死しますが、これで中国近代史シリーズが完結するわけではありません。中国を理解するために、どうしても描かなければならない素材はまだ二つや三つは残っていますから。


どうぞ楽しみにしていてください。




 


浅田次郎浅田次郎
(Jiro Asada)
1951年、東京都生まれ。作家。吉川英治文学新人賞、直木賞など数々の受賞歴をもつ。中国を舞台とした『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』(いずれも講談社)は、累計280万部を売り上げるベストセラー


浅田次郎「中国論」(5)

2010-05-30 09:52:43 | 日記

第5回


宋教仁と国民選挙



『中原の虹』では、冒頭で触れた国民選挙を実現させようとした政治家、宋教仁の演説シーンをいかに描くか、苦労したという。宋教仁の演説はこう結ばれている。
〈そのほかの名誉は何もいらない。私が勲とするところは、ひとえに民の平安である。
敬愛する中華人民諸君!
どうかこの歓呼の声を、私に対してではなく、祖国の未来に向けてほしい。
この地球のまんなかに咲く、大きな華に。けっして枯れることもしおれることもない、中華という大輪の華に。〉


宋教仁は実務家だから勤勉に働いたけれど、書きものはあまり残していなかった。だから宋教仁の演説がどのようなものであったのか、実はわからないのです。上海の駅頭で演説をしたあとで殺されたのは確かなのですけど。どうすれば彼の演説のエッセンスを表現できるのか。最終的には、彼と同郷で彼と最も近い足跡を辿った人は誰かと考えました。すると、うってつけの人を発見しました。陳天華という宋教仁の同志です。この人は宋教仁と世代が同じで同じ時期に日本に留学していて、同じ会派に属していた。しかも同郷でもあるから、思想もかなり近いだろうと読みました。この陳天華は演説記録を残していたんです。彼の演説の草稿をベースにして、これに宋教仁らしい思想をミックスさせて彼の演説を書きました。



『中原の虹』は、親も家もない流民の子、張作霖があるとき老占い師に「汝、満洲の王者たれ」との予言を受けるところから物語がはじまる。天命を持つものだけが手にすることのできる龍玉を、清朝の太祖ヌルハチの墓で手に入れた張作霖は、予言通り馬賊の長としてめきめきと頭角をあらわしてゆく。一連の取材を通じて浅田氏が馬賊の子分のなかで印象に残っているのは、どちらも実在の人物である張景恵(好大人)と馬占山(秀芳)だった。


馬賊の格なら、実は張作霖より張景恵のほうが上だった。けれども張作霖は、総攬把の地位を張景恵から譲られる。そのとき張景恵は「器はこいつのほうが上だろう」と思ったのでしょう。部下は張景恵のほうがずっと多かったけれども、求心力があるのは張作霖だという判断です。張作霖の子分になった張景恵はのちに満洲国の国務総理になる。そして日本の敗戦後に捕まって獄死しました。撫順の収容所で彼が死んだ部屋を見ましたが、感慨あらたなるものがありましたね。実は、彼の息子がその牢獄の看守なんです。偶然、撫順の看守をやっていて、近くの奉天から連れてこられた父親を看取ることになるわけです。まさに事実は小説よりも奇なりですね。


馬占山は神出鬼没



馬占山は『中原の虹』のなかでは先駆けを務める華のある馬賊だ。『中原の虹』では貧しさから地主と関係を持った妻を許せず、妊娠を知りながら捨てたことを悔いている。あるとき討伐に向かった匪賊のなかにその妻を見つけたが、敵として自ら撃ち殺したという人物である。


馬占山は日本軍に最後まで徹底抗戦します。日本でも、「馬占山征伐」というニュースが何回も臨時で出されたほどですから。「馬占山死亡」という記事も何度も報じられています。ところが、そのたびに「やっぱり馬占山は生きていた」と訂正記事が出る。馬占山は神出鬼没、不死身の将軍だったのです。
実は日中戦争当時、日本では馬占山ごっこっていうのが流行ったらしい。その遊びの内容はわからないんです。少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おそらく、神出鬼没の鬼であるという要素がどこかに入った遊びなのでしょう。



『中原の虹』を発表する前、浅田氏は中国人小説家たちに「次は張作霖を書く」と伝えたことがあるという。


上海の作家協会で中国人小説家たちと話をしているときに『中原の虹』の構想を伝えたら、満場一致で「張作霖を小説のヒーローとして書けるはずがないじゃないか」という反応でした。なかには爆笑した人もいたほどです。こちらとしては、そうした反応を見て心のなかでガッツポーズをきめました。これほど過小評価されている人物なら、誰もが驚くような小説を書けるに違いないと思ったからです。


張作霖研究家との出会い



張作霖の長男・張学良については『中原の虹』執筆過程における秘話もある。


張学良は二〇〇一年まで生きていて、生前NHKの番組でインタビューも受けています。その張学良の番組を通じて不思議な縁がありました。以前、NHKの番組に出演したことがきっかけで、張学良のインタビュー番組を作ったディレクターとその奥様にお目にかかったのです。話をしてみたら、ディレクターの奥様は富山大学で張作霖を研究している澁谷由里先生だというではありませんか。これは天の助けと思って、当時執筆中の『中原の虹』の校閲を澁谷先生にお願いしました。
その助けがなければ小説のなかで実現できなかったことはたくさんありました。たとえば、満洲語の表現について、その富山大学の先生の恩師である京都大学の先生の助言をいただきました。その方はもう相当のご高齢なのだけれども満洲語を専門にされている方で、もしかしたら日本で最後の満洲語研究家かもしれません。その先生に満洲語の表現や発音を教えていただきました。そうした助けもあって『中原の虹』は完成したのです。



『中原の虹』を発表したあと、実際に昔の満洲を知っている人からの手紙がたくさん届いたという。たとえば、「私は現在九〇歳で、もとは満鉄の社員でした。張作霖の『打聴、満洲風』という言葉にしびれました」といった感想がとてもうれしかったという。


つまり、実際の満洲を知る人たちにとってもリアルな満洲の風や大地の一端を描けていたのだと思う。当時の満洲に渡った人たちは、何かしらの青雲の志を持っていた方が多い。そういう気持ちを持っていた人たちの心に「打聴、満洲風」という言葉が響いたのだとすれば、こんなにうれしいことはありません。

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浅田次郎「中国論」(4)

2010-05-30 09:50:55 | 日記

第4回


植民地政策と西洋の良心


浅田氏は『蒼穹の昴』のなかでカスチリョーネ(郎世寧)というナポリ出身の実在の人物を登場させている。清王朝の康熙・雍正・乾隆の三代にわたって仕えた技術者で、もともとは画家だが、音楽も建築も専門家で、都市のインフラ整備、とりわけ当時の北京の下水道整備などで活躍した人物である。また、円明園という西洋式の庭園の設計も残している。


私が小説にカスチリョーネを登場させたのは、中国に対して悪いことばかりをしていた西洋社会の良心の所在を考えるためです。カスチリョーネというのはこの作中で真正面からテーマを語っている唯一の人物です。彼の絵はずいぶん残されているのだけれど、見るたびに心を打たれます。彼の絵は西洋画の画法としての陰影や遠近のつけかたをきちんとしている。それと同時にルネサンスの西洋においてはありえなかった細密画法、つまり精密なほど美しいとされる中国画の画法も取り入れている。非常に面白い折衷の仕方をしています。
私はカスチリョーネの絵から彼の人格を想像してみました。


カスチリョーネの人柄を考察するための史料としては、ほとんど芸術作品そのものしか残されていない。それでも浅田氏は作品を通して語りかけてくるその人格に打たれ、そこにヨーロッパ覇権主義の良心を感じたという。


そもそも、西洋の植民地政策はすでに乾隆帝の時代には盛んでした。当時のイエズス会はヨーロッパの王権と結びついて、世界各地を植民地にするための方策を練っていましたから。当時のイエズス会士と法王庁の間での書簡、あるいはイエズス会士とフランス・イエズス会の間に交わされた書簡を読んでみると、面白おかしく中国における見聞が書いてあります。そればかりでなく、政争の状態、政治の形態、軍事の状況までこと細かく書かれていました。おそらく宣教師たちはスパイとしての役割も担っていたのでしょう。
しかし、なかにはカスチリョーネのように、スパイとして中国に送りこまれながらも中国の美しさに触れて「中国人になろう」と三代の皇帝に忠義をつくして、中国で生きて中国で死んだ人物もいたわけです。これこそ、西洋の良心ではないでしょうか。しかも、カスチリョーネは乾隆帝の教育係にあたっていたわけです。おそらく、カスチリョーネは清王朝の支配階級における思想の中心部分をつくった人物の一人ではないかと思うのです。


芸術とは誰のものか


浅田氏はカスチリョーネの生きかたを通して、小説のなかに自分自身の芸術論を投影させた。浅田氏は、芸術は常に大衆と共にあるべきもので、閉じられたサロンのものであるべきではないと確信している。


芸術をあまりにアカデミックなものにしたのは近代の犯した過ちでしょう。歴史を遡れば、純粋な芸術作品は庶民の手の届く場所にあって、人間が病気や飢餓に苦しんでいたときの「なぐさめ」になっていたのではないでしょうか。私はそんな想像をしているのです。古今東西、権力者のほうを向いている芸術家というのはロクなものではありませんから。
西洋の芸術家としての教養と技術を持ちあわせながら中国に生き、作品のみを残して死んだカスチリョーネの魂は、私の理想の芸術家像に近い。はじめは命じられて中国に赴任したのでしょう。しかし、中国で生きるうちに少しでも自分の手で、美しいものをこの中国に生きる人たちに見せてやりたいと思ったのではないでしょうか。彼こそ、真の芸術家です。私も、そういう気持ちで小説を書いていきたいと思っています。


『蒼穹の昴』の続編である『珍妃の井戸』の舞台は、列強諸国に蹂躙され荒廃した清朝最末期の北京だ。その混乱のさなか、紫禁城の奥深くで一人の妃が無残に命を奪われた。皇帝の寵愛を一身に受けた美しい妃は、なぜ、そして誰に殺されたのか。犯人探しに乗り出した日英独露の高官が知った真相は―。芥川龍之介の『藪の中』のようなスタイルで幾つもの角度から語られる珍妃殺害の事実は、列強諸国自身が中国に対しておこなった現実をあらためて知らしめることになった……。


本来は『蒼穹の昴』の大団円に義和団事件を書こうと思っていました。しかし、書き進むうちに義和団事件そのものは別のテーマで書いたほうがいいと思うようになったのです。つまり、義和団事件はひとつの物語の最後につけ加えてそれで済むほど、簡単な話ではなかったのです。だから『珍妃の井戸』というもうひとつの作品にして書いてみました。この小説では、義和団事件と、そのあとの軍閥の台頭に焦点を当てました。
少し気になるのは、『蒼穹の昴』や『中原の虹』の販売部数に比べて『珍妃の井戸』の読者が少ないことです。これは怖い。つまり、『蒼穹の昴』を読んでそのまま『珍妃の井戸』の存在に気づかずに『中原の虹』を読んでいる人がたくさんいるのではないか。ところが『珍妃の井戸』を読んでいないとその後の展開がわからない部分が相当ある。たとえば『中原の虹』で袁世凱殺害にかかわる重要な人物も『珍妃の井戸』に出てくるから、是非読んでおいていただきたいのですけど。


「未知の大地」の風を感じて


『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』を書きあげた浅田氏は、続編である『中原の虹』を中国東北部での綿密な取材を重ねて執筆していった。『蒼穹の昴』執筆当時、まだ一度も中国に行ったことがなかった浅田氏にとって、かつて満洲と呼ばれた中国東北部への旅は積年の夢だった。


『蒼穹の昴』は文学書や歴史書や史料を中心に想像して描いた世界でした。はじめて中国に行ったのは一九九七年で、『蒼穹の昴』刊行の翌年。当時から『中原の虹』の構想はあったので、その取材のため万里の長城に出かけたわけです。万里の長城に立って「ここから向こうが満洲なのか」と思ったときの感動は、よく覚えています。『中原の虹』の主人公である張作霖が馬賊たちと共に万里の長城を越えてきた、その大地のイメージがまざまざと頭のなかに浮かびました。理屈抜きで、これが満洲なんだと体験できたのです。


現在の瀋陽(旧奉天)は大都会だが、一九九七年に訪れた頃はまだ「田舎の風情」が感じられたという。浅田氏の中国東北部に対する第一印象は「気候のいいところだなぁ」ということ。夏に出かけたので、空気がサラッとしていて非常に過ごしやすく、夏の北海道のようだったという。


中国東北部がどんなに寒くても、氷に閉ざされているのはせいぜい数ヵ月です。夏の気候は本当に素晴らしい。だから、直感で悪い土地ではないなと思いました。そして土の色を見てみたら、北京周辺の河北省に比べてずっと土地が肥えているとわかったのです。


満洲の森林と草原を前にして、「豊かな土地だ」と感じた浅田氏は、かつて日本がこの土地に固執した理由もわかるような気がしたそうだ。もっと冷たく荒れ果てたところかと想像していたが、とても魅力的な土地だったのだ。


『中原の虹』の取材では何度も北京や瀋陽に行ったので、とてもリアリズムのある小説になったと思います。満洲のさまざまな季節をこの目で見たからこそ、『中原の虹』で張作霖が「東三省をわがものとするつもりか」と問われたときに「打聴、満洲風(満洲の風に聴け)」と言うシーンを書けた。あれは満洲の風を知っていなければ書けない言葉ですから。


張作霖は満洲の風を愛しており、自分が生まれ育った土地を愛している。だから「自分の行く末のことなんて満洲の風に聴けばよかろう」と言うのだ。


中国の共産主義というのは、ソ連からの影響だけではなくて、中国内部のいろいろな個人の思想の影響を受けたものではないでしょうか。中国の共産主義には、たとえば清代末期に康有為が唱えた平等主義・大同思想の影響を明らかに受けているところがあります。同時に張作霖のものの考えかたも、中国共産主義に何かしら影響をおよぼしているのではないでしょうか。馬賊出身で、あれだけの貧乏人でありながら国土の四分の一を支配したというのは、中国の歴史のなかでは異例です。張作霖の貧乏人根性は、中国共産主義にどこかで影響を与えたのではないかと想像しています。
張作霖は五三歳で死ぬまで、けっして貧乏人根性を忘れませんでした。
満洲では張作霖にまつわる具体的なエピソードを耳にしました。たとえば、こんな話です。ふつう、リアカーというのは自転車の後ろにつけるものでしょう。ところが、瀋陽の街では、人々がリアカーを自転車の前につけて押している。不思議に思って私が地元の人に「なんでリアカーを押しているの?」と質問したら、「実はこれは張作霖が『こうしたほうがいい』と発案したんだ」と言う。「押していたら、自分の目で荷物が見えているから事故が少なくて、泥棒に盗られにくいぞ」と。そんな形で張作霖の政治は現在も生きている。そういう発想って貧乏人でなければ思いつかないでしょう? だから、張作霖の思想は、のちの体制にも影響を与えたのではないかと思っているのです。


近代的な軍事教育を受けていない張作霖が戦争を指揮することは、近代の軍事理論の常識を超えている。『中原の虹』のなかでは、日露戦争以降、つまり日本の軍事教育が完成されたあとの日本軍人は張作霖を見て「無教養な人物に一個師団を率いることは不可能」と侮る。しかし、張作霖は簡単に統率してしまった。なぜ張作霖はそんなことができたのか。


馬賊の場合、指揮する馬の数は数十頭までが普通でしょう。あとは子分がいても見えないのだから「戦争」の範疇に入らない。つまり「喧嘩」の範囲に留まっていた連中を率いて「戦争」を指揮してしまったのが張作霖なのです。なぜそんなことができたのだろうと不思議に思います。そもそも知識がないのだから、軍事的な才能があったとは思えません。やはり求心力や神がかり的なところがあったから実現できたのでしょう。

張作霖は、空に投げたコインを撃ちおとすほどの神業的なピストルの達人でした。若い時分から馬賊の頭目として数えきれないぐらいの人を殺してきた逸話も残されています。いくら人間の命の価値が安かったとはいえ、ここまで人殺しに精を出し続けてきた男が、なぜ国民に人気があったのか。その魅力を想像で探っていくプロセスは興味深かったです。小説のなかでは、私は張作霖にこんなセリフを語らせています。「百万も千万も殺してやるさ。百年ののちに十億の民が腹いっぱいに食って、天寿を全うできればそれでよかろう」。これは想像の言葉ですが、張作霖の思想ではないかと思っています。


浅田次郎「中国論」(3)

2010-05-30 09:49:05 | 日記

第3回


日本人の没個性、中国人の自己主張



清朝を代表するような傑物を皮膚感覚で理解した浅田氏が気付いたのは、「中国の歴代の政治家は日本の歴代の政治家に比べて極めて個性的」ということだった。


日本と中国の差は、国民性の違いでしょう。日本人は狭い土地のなかに人口過密状態で暮らしているから、「突出してはならない」という道徳が身についている。みんなで同じように暮らしていかなければならないという道徳があるために、没個性にも?がるわけです。日本で派手な格好をしていたら「目立ちたがり」と戒められます。地味であるということが、過密社会のマナーだったのですね。
しかし、中国人はアメリカ人と同様に「自己表現」の世界で生きている。いかに自分をアピールするか、そればかり考えているから声も大きくなる。日本では政治家の弟子は師匠の劣化コピーみたいになりがちです。しかし、中国人政治家にはそういう「縮小再生産」は感じられません。清朝末期の軍人政治家の系譜は、曾国藩、李鴻章、袁世凱と受け継がれますが、それぞれに独特のキャラクターがあります。
そういう中国人特有の個性は、いま、中国旅行に出かけて街中で人物を観察していても伝わってきます。日本の街中で人間をしばらく見ていても、みんな似ているものだからあんまり面白味はない。でも、中国の街中で見かける人たちは、表情といい身ぶり手ぶりといい、もう誰も彼も他人のマネをするのはイヤだと言わんばかりの個性的な人たちが多い。だから、見ていて飽きないのです。日本社会は「没個性」で集団をまとめてきたから、それはそれで幸福なことだったのかもしれませんけれども。


西太后の再評価



浅田氏は『蒼穹の昴』で、それまで悪女とされてきた西太后の再評価を試みている。つまり、西太后はこれまでの一般的な評価「亡国の鬼女」ではない。本当の姿は「亡国の鬼女に見える言動をしてでも中国を救済しようとした人物である」と。『蒼穹の昴』日中合作ドラマ化にあたり、西太后再評価は中国側のスタッフにどのように受けとめられたのだろうか。


私の西太后解釈に対して、頷いてくださるスタッフが多かったですよ。私は西太后の再評価については、自分の考えに確信を持っています。なぜなら、これまで伝えられてきたような悪女であるなら、あれほどの長期政権を維持できたはずがないですから。それに西太后は老境にさしかかった頃の写真がたくさん残されています。それらの写真の数々は北京の市内で販売されていたそうです。つまり人気のあるブロマイドとして流通していたのです。これは西太后が民衆に慕われていたという証拠です。
西太后が歴史的に「悪女」になったもとを作った「戦犯」は、エドマンド・バックハウスとジョン・ブランドの共著による『西太后治下の中国』という本です。西太后は彼らの著作によって悪女というレッテルを貼られてしまったのです。


李鴻章、亡国の買弁と呼ばれて



もう一人、『蒼穹の昴』でかなり大胆に再評価をされている人物が、李鴻章だ。李鴻章の中国国内での評価は極めて低いという。


私自身は、李鴻章に関しては『蒼穹の昴』の中で高く評価をしているように、すばらしい人物だと思っています。しかし、西太后とは比較にならないくらい、まだまだ評価をされていません。『蒼穹の昴』を日中合作でドラマにするにあたって、西太后をポジティブに描くことについては中国当局の反応は「ここまではいいだろう」という雰囲気でした。しかし、李鴻章については頑なな反応でした。
李鴻章は香港を九九年も英国に貸与する条約にハンコを押した人物です。それから日清戦争の結果、台湾を割譲するハンコを押した人物でもあります。諸外国に対して「国土を貸します、あげます」という条約を結んでしまった人物です。もちろん、それが現在まで影響して中国は領土問題をひきずっているから、「李鴻章は亡国の買弁である」と批判されるのは無理もないことかもしれません。
しかし阿片戦争以降の清朝の状況を冷静に鑑みれば、李鴻章は不平等条約を結び続けながらも、中国を維持させようとした偉人なのです。李鴻章の外交があったからこそ、中国は結果的には植民地にならないで済みました。李鴻章があれほどの妥協をしていなければ、中国は諸外国に一気に攻め滅ぼされて植民地として分割されていた可能性が高い。そのような意味で、私は「強い意志を持った西太后」と「その意志を政策として実行に移した李鴻章」は黄金のタッグであったと捉えています。なにもしなければとっくに滅亡していた清王朝を五〇年間も存続させて、何とか民国政府にバトンタッチした二人の手腕は尊敬に値すると思っています。
西太后や李鴻章のなかには「植民地化を防止しよう」なんて方針はなかったかもしれません。しかし、この二人が諸外国としぶとい折衝を続けたことで、中国人が国土を支配し続けたことは紛れもない事実です。その事実は正当に評価されるべきではないでしょうか。



今回のドラマに対する中国側の反応を見ていて、浅田氏は中国の歴史観はだんだん柔軟になってきていると感じている。以前であれば、西太后さえも認められなかったであろうから、と。『蒼穹の昴』のテレビドラマにおける主役は原作と同じくのちに宦官の長官になる李春雲(春児)であるが、これは中国が製作に関わったドラマでは画期的なことだった。


中国国内でこれまで悪人としてしか描かれてこなかった宦官がテレビドラマの主人公になることは、中国の歴史解釈が柔軟になってきていることの証拠ではないでしょうか。
ところで、中国の近代史に謎が多いひとつの原因は、清朝の正史が書かれていないことです。中国には歴代王朝が交代した後、新しい王朝が前の王朝の正史を書くという伝統がありました。しかし、清朝が滅びた後は王朝がないので、清朝には国が認める「正史」がないのです。正史の代わりに『清史稿』というものが残されています。これは、元の東三省総督という、いわば一介の地方行政官であった趙爾巽という人物が中心になって書かれたものでした。「稿」という字には、「まだ認められていない草稿である」という意味があります。つまり、『清史稿』はあくまで下書きですが、私は非常に偉大な功績だと思っています。

清朝の末期というものは、明治維新のように書きやすいものではありません。日本の幕末はせいぜい一〇年や一五年というスパンにおいて語られます。しかし、清朝末期というのは、阿片戦争以降、七〇年も国が苦しみ続けるプロセスです。苦しんで苦しんで、それでもうまく歴史を転換できずにいたという、その複雑な経緯を文章にまとめることは非常に困難です。しかし、困難であるからこそ、歴史を記録に残しておく意味もあるわけで、私はそうした意味で『清史稿』をまとめた趙爾巽は尊敬するべき人物と考えているのです。