団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

三嶋楽寿の森音楽祭

2010-05-21 23:05:30 | 日記

http://rakujyumusic.i-ra.jp/


三嶋楽寿の森音楽祭 


三島、沼津、伊豆地域活性化を目指して


NPO法人が動き出した。


中心人物の一人は


60の手習いで


アルトサックスを


始めて3年目。


民間の地域活性化運動に


役所は規則ばかりを主張して


前向きな協力が無かった。


何もしないでいいから、


せめて、黙って見ていて欲しいと


要望して、


ようやく、ここまできた。


ブラックボトムブラスバンドの出演も決定した。


 



楽寿の森音楽祭 開催概要


●趣 旨 三島市の中心にある楽寿園を会場に、音楽を愛し、地域を愛す人々が集い、音楽を通じて人と人とが交流する場づくりと、
地域の活性につながる音楽祭を開催致します。

●と き 平成22年5月30日(日)午前10時~午後3時30分

●ところ 三島市楽寿園内 特設ステージ(園内の数箇所での演奏を予定しております。)

●参加資格 この音楽祭の趣旨に賛同して頂ける方なら、市内外問わずどなたでも参加できます。

●種 目 特にジャンルは問いません。
原則として、屋外での演奏となります。電源等の準備は最低限のご用意しかございません。
詳細は申込締め切り後、追ってご連絡致します。

●演 奏 演奏に必要な楽器類は各自でご用意ください。
演奏時間は20分以内を原則といたします。10分をセッティング・片付けの時間とし計30分の持ち時間と致します。
参加応募の状況により変更になる場合もありますので、予めご承知おきください。

●参加料 無料(楽寿園入園料(300円)他、参加に掛かる費用はすべて参加者の負担となります。)

●申し込み方法 応募用紙に必要事項をご記入の上、事務局までFAXでお申し込みください。

●申込締め切り 4月30日(金)午後5時

●出演者、出演場所及び演奏時間の決定
参加申し込みを締め切った後、事務局で決定し通知いたします。
(出演等の決定内容についてのお問い合わせにはお答えできませんのでのでご了解ください。
また、出演場所・出演時間等につきましても事務局で決定させて頂きます。)

●搬出、搬入方法等その他詳細 事務局より申込締め切り後、追ってご連絡致します。

●連絡先 地域活性スクランブルフォーラム事務局
担当 八木(TEL 090-3157-2061) FAX:055-973-3171(亥角会計事務所 内)  


 

「日活」の創設者・梅屋庄吉

2010-05-21 07:55:57 | 日記





http://liffey2.ld.infoseek.co.jp/rekishi/umeya/より転載


 東条英機に抹殺された梅屋庄吉



    「日活」の創設者・梅屋庄吉


    長崎出身の貿易商であった梅屋庄吉(1868~1934年)は、中国革命をなし遂げた孫文の支援を行い、日中友好に生涯をささげた。


    梅屋庄吉の考えは、「日本と中国は、お互いに言いたいことを自由に話し合えば分かり合える」というものであった。しかし、アジアの孤児を目指す当時の陸軍と意見が合わず、陸軍の東条英機により、歴史上から抹殺された。


    「からゆきさん」に習った写真技術で財をなす


    長崎でコメ投機に失敗した梅屋庄吉は1893年(明治26年)、コロンブス島に来た。日本人は「からゆきさん」のほかは、船乗りなどわずかな人々しかおらず、絶好の逃避行先だった。


    南国情緒あふれる島で、のんびりと過ごしただろう。次第に元気を取り戻し、中国や東南アジアの各地を転々とする。


    その途中で、庄吉は「中村トメ子」にめぐり会い、シンガポールに住んだ。「中村トメ子」は、「からゆきさん」の一人であったようだ。「中村トメ子」は、上海に渡り英国人と暮らしている間に写真技術を習った。それを庄吉に教えたと思われる。


    庄吉は後に日本映画界の風雲児と呼ばれる。トメ子との出会いが、写真を手がけるきっかけとなり、それが映画への出発点となった。


    「君は兵を 我は財を」


    孫文と梅屋庄吉が出会ったのは1895年。孫文の恩師、カントリー宣教師の引き合わせだった。庄吉27歳。孫文29歳の時だったという。相照館2階の1室で語り合った。


    梅屋庄吉は、その後、写真から映画に転身、帰国して「日活」の前身となる日本活動写真株式会社を創立する。事業で得た巨額の利益は革命のために投じた。その総額は、現在の貨幣価値に直して「2兆円」ともいわれる。


孫文と梅屋庄吉



    孫文(1866-1925)


    国の革命家、政治家、中国国民党の創設者、指導者、中華民国の創始者として国父と称された。


    広東の農村の貧しい農家に生まれ、12歳の時にハワイの長兄のもとへ行き、教会学校で西欧の近代教育を受けた。その後洗礼を受け医学を学ぶ。この期間、後の革命運動につながる様々な人物と出会い、影響を受ける。


    1892年、広州で医者として開業するが、社会変動の波の中、救国の思いにかられ、ついに革命を決意する。秘密結社を組織し、投獄、亡命をたびたび経験しながらも活動を続け、総理にまで登りつめた。その後も数度の革命を起こし、波瀾万丈の人生を送りながら近代中国の基礎を築き上げていった。


    孫文(孫逸仙)と宋慶齢


    中国近代革命の父孫文と宋家三姉妹の次女・宋慶齢は、日活の創始者・梅田庄吉の支援を受け、この地で結婚した。


    ちなみに宋嘉樹の三女は蒋介石夫人の宋美齢であり、挙式の場所は孫文が寄寓していた梅屋庄吉邸(新宿区百人町2-23)であった。その時期は 1914年11月25日もしくは1915年10月とされて判然としない。


    孫文はその当時、頭山満や犬養毅などに多くの政治的支援を受けていた。現在この跡地は現在、スポーツ会館や学生の家及びJR大久保寮となっている。


    *車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」六興出版に拠る



日比谷公園内「松本楼」


明治36年6月日比谷公園開設と同時にオープン。当時の最ファッションの場でもあり高村光太郎の”千恵子抄”にも1シーンとして登場しています。
また、大正デモクラシー以降は創始者梅屋庄吉が中国革命の父孫文を援助したなど歴史があり、ロビーには梅屋邸で宋慶齢が
弾いていた国産第1号ピアノがあります