団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

浅田次郎「中国論」(6)

2010-05-30 09:54:29 | 日記

第6回


漢字の不思議な力



浅田氏は、中学二年生のとき、国語の先生が漢詩を読み下し文で読んだ瞬間に「なんだ、この美しい言葉は!」と思ったという。外国語なのに、言語に返り点をつけて日本の構文に直して読み下したら、非常に美しい文章になり、そのうえ、言わんとしている内容まできちんと伝わってくる。そうした言葉の変換の不思議さにどんどん惹かれていったという。


そもそも、英語の詩を日本語に翻訳しても、こうは完全な対応関係にはならないわけです。ところが、漢詩と日本語の読み下し文のあいだにおいては、発音のちがいがあるだけで、内容の変化やましてや誤訳は発生しません。まぁ、稀に格好良く読み過ぎてしまう先生もいらっしゃいますが、その格好良く読み過ぎた文も味があってすばらしい。漢詩においては現代に沿った新訳のほうがいいのかといったら、そうとも限りません。むしろ、漢籍の教養がにじみ出ている昔の老大家の読み下しにこそ愛着を覚えてしまいます。


漢字という媒体を通せば、中国人と日本人というちがう言葉を話している国民同士が、まったく心を一にすることができて、美的情緒の面までも心を一にすることができる。その不思議さに、私は心を揺り動かされたのです。



中国文学を読みこんで中国を理解してきた浅田氏。その理解の過程には「漢詩を書き写す」こともあった。


中国の文学、ことに漢詩の場合は自分で書き写すと内容がよく伝わってきます。漢字には、一文字一文字書いてはじめてわかる不思議な力があるのです。ですから、いまでも漢詩の書き写しは趣味ですね。


私はかつては日本語の文章もよく書き写していました。それは別に勉強のためではありません。良い文章を深く味わうためには、自分で書き写してみることが一番だからです。


漢字に対する私の考え方は、白川静先生から大きな影響を受けました。漢字文化の研究において、あらゆる学派に属さずに「白川学」を作りあげた底力には感心させられます。たしかに白川先生の説には、解釈の域を超えて詭弁を感ずることもあります。しかし、それはそれとしても、私は漢字が持つ一字一字の重さを白川先生から教わりました。小説を書いているとき、文章の流れのなかで必ず使うべき漢字を見つけることがあります。たとえ読者が知らない難しい漢字でも、文章の流れのなかでピッタリはまる漢字がある。これは、漢字のルーツが象形文字であるということの証拠だろうと思っています。


「謙虚な国」中国を誤解しないために



中国人と日本人は今後どう付き合っていくべきだろうか。


非常に簡略に言うなら、「何だかんだ言いながら、日本人は中国人と仲がいいはずだろう」という視点を忘れてはいけません。中国人の態度は日本人にとっては「偉そうだ」と感じることも多いかもしれません。でも中国人は本来、謙虚な性格だと思う。姿勢や習慣によって「偉そう」に見えるだけなのです。中国人に頭を下げる習慣がないことも、誤解される原因のひとつでしょう。


日清戦争があって、日中戦争があって、戦後の二七年間国交もなかったのに、日本には、私が子どものころから中華料理屋が溢れかえっていました。なぜ、これだけ日本に中華料理店があるのか。


大きな理由のひとつは、日清戦争のあとに中国は三万人もの留学生を日本に、とりわけ東京の明治大学や日本大学や法政大学に多く送りこんだからです。それで、現在でも神田界隈にたくさんの中華料理店があるわけです。


日清戦争後、中国は「世界で生き残る道は日本に学ぶしかない」と日本に大量の留学生を送りこみました。そんな態度をとることができる中国は、謙虚な国でしょう。そうした角度から中国を眺めてみるなら、本当の付き合いかたが見えてくるはずです。


私が現在手がけている中国近代小説のシリーズは、フィクションではあるけれども中国の近代というものをできる限り正確に記述しているので、楽しみながら中国の本質を理解するにはいい読みものかもしれません。


私が現在執筆している続編のタイトルは「マンチュリアン・レポート」といいます。この作品のなかで張作霖は爆死しますが、これで中国近代史シリーズが完結するわけではありません。中国を理解するために、どうしても描かなければならない素材はまだ二つや三つは残っていますから。


どうぞ楽しみにしていてください。




 


浅田次郎浅田次郎
(Jiro Asada)
1951年、東京都生まれ。作家。吉川英治文学新人賞、直木賞など数々の受賞歴をもつ。中国を舞台とした『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』(いずれも講談社)は、累計280万部を売り上げるベストセラー


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