団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

なぜホンダは「嵐の予兆」を感じることができたか

2010-02-23 21:15:16 | 日記

なぜホンダは「嵐の予兆」を感じることができたか


なぜ当たり前のことしか浮かばないか!【1.景気羅針盤】


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クルマの販売は好調でしたが、建機メーカーなどにOEM供給する汎用エンジンの売れ行きが鈍っていました。建築工事に異変が起きていたのです。




 


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売れているのにクルマをつくらなかった



<strong>本田技研工業前代表取締役 福井威夫</strong>●1944年、東京都生まれ。麻布高校卒業。69年、早稲田大学理工学部応用化学科卒業後、ホンダ入社。87年、ホンダ・レーシング社長。98年、本田技術研究所社長。2003~09年、本田技研工業株式会社社長。
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本田技研工業前代表取締役 福井威夫●1944年、東京都生まれ。麻布高校卒業。69年、早稲田大学理工学部応用化学科卒業後、ホンダ入社。87年、ホンダ・レーシング社長。98年、本田技術研究所社長。2003~09年、本田技研工業株式会社社長。

正直にいうと、2008年秋からの環境の激変は予想を超えていました。しかし前年に米国でサブプライム問題が持ち上がったころから、「何かありそうだ」という予兆は感じていました。


08年は自動車産業最悪の年だった。ホンダも無傷ではいられなかったが、迅速な経営判断によって国内大手3社では唯一、黒字確保に成功。背後には福井氏ならではの状況の“読み”があった。


当時、米国市場ではクルマの販売は好調でしたが、建機メーカーなどにOEM供給する汎用エンジンの売れ行きが鈍っていました。建築工事に異変が起きていたのです。夏になると、自動車販売も変調をきたすようになりました。


といっても、カリフォルニアがダメでも中西部や東部は好調、という具合に州ごとに状況が異なるため「確実に不況が来る」とは断言できませんでした。実は11月中旬になっても、米国の販売現場は「シビックが足りない」と本社をせっついていたくらいです。


しかし私は、以上さまざまなデータから変調の兆しを感じていたので、08年4月に新しい3カ年計画を立てる際は、行動要件として「柔軟に」「機敏に」という言葉を差し挟みました。今後、世界経済はどう動くかわからないが、何があっても柔軟かつ機敏に対応しようというシグナルです。そうした下地があったうえで、(リーマン・ショック直後の)9月下旬に緊急タスクフォースを立ち上げ、不況対策に当たらせたのです。


事態は深刻だった。赤字転落を避けるため、福井氏はF1からの撤退や設備投資の凍結をいち早く決断。その一方、ハイブリッド車の新型インサイトを09年2月に発売し攻勢に出た。そして6月末の社長交代を発表する。


09年3月期の業績が厳しいものになるのはわかっていたので、それに対する手立てを08年のうちに講じました。そのうえで新しい人(伊東孝紳次期社長)にバトンタッチすることを決めたのです。


「なぜ、この時期に社長を辞めるのですか」ときかれることがあります。会社を立て直すのがあなたの役目じゃないかというのです。しかし私の考えは違います。


経済危機といっても1~2年という短期の問題です。これを乗り越えてホンダはなんとしても成長を続けていきたい。伊東をトップとする新しい執行部は、この厳しい時期を乗り切ることでチームワークを固めるでしょう。堅固なチームワークは2~3年後に経済が上向いたときの爆発力につながります。


私が陣頭指揮をとり続けても危機突破はできるでしょうが、その後の成長を考えると若いメンバーに託したほうがいいのは明らかです。だから、あえてこの時期に社長交代に踏み切ったのです。


少し話を戻しましょう。不況突入が明らかになってから機敏な対処を行えたのは、湾岸戦争直後の不況を経験していたからです。クルマの販売額が落ちて工場の稼働率が下がると、自動車会社はどういう厳しい環境におかれるのか。このことを私は肌で感じています。だから、投資には慎重になっていたのです。


クルマがどんどん売れるのに生産が間に合わない。そんな場合でも、ホンダは思い切って設備投資することを控えてきました。むしろ少しずつ投資をします。そのために機会損失、いわゆる「儲けそこない」はあるかもしれませんが、反対に需要が急減して逆回転を始めたらこんなに怖いことはないのです。


もちろんホンダは同じような危機を過去何度も経験しています。「小さく産んで大きく育てろ」という言葉が社内に残っているくらいですから、ホンダの人間はみんな持っている感覚だと思います。


工場設備や人件費といった固定費負担がたいへん大きいのは自動車会社の宿命です。稼働率が落ちれば利益率は極端に下がります。生産能力が大きいほどマイナスの影響も甚大です。


一時期「400万台クラブ」という言い方が自動車業界では流行りましたが、いま苦しんでいるのはまさに年間生産量400万台以上の会社であり、利益を出しているのは比較的小ぶりな会社です。とくに経済が厳しいときは、図体が大きくないほうがいいのです。


ただ、景気は必ず回復します。いまの見通しでは、09年半ばに底を打ち、後半からは少し上向きになると期待しています。しかし、それとは別に、自動車産業をめぐる環境ががらりと変わるという見通しを私は持っています。



赤字覚悟のプリウス利益確保のインサイト



ホンダは新型インサイトを09年2月に発売し、お陰さまで4月の車種別販売量ではハイブリッド車として初の首位となりました。世界的に環境意識が高まっているところへ経済危機が直撃し、低価格の低燃費車ということで支持を受けたのだと思います。


このクルマの開発は3年前にスタートしました。その時点で私が抱いていたのは次のような将来像です。


原油をはじめ鉄などの原材料価格は上昇基調にある。それはBRICs諸国のほか発展途上国が経済的に豊かになり、一般大衆が経済力をつけて先進国レベルに近い消費を始めるからだ。つまり地球規模で原材料の需給が逼迫するだろう。


すると、地球環境問題を重視するだけではなく、新しい時代においては「燃費」が決定的に重要な意味を持つ。だから専用車体を持ったハイブリッド車を開発すべきである――こう考えたのです。


純粋に燃費や環境性能という面で考えれば燃料電池車が理想でしょう。しかしわれわれは、実用に耐える燃料電池の開発がそう簡単にはいかないことを承知しています。バッテリー駆動の電気自動車も普及するまでには時間がかかります。


だから、ハイブリッド車のラインアップをある程度揃えなくてはならないだろうという認識を、私たちは3、4年前の段階で持っていたのです。


新型インサイトは、性能やデザインのほか200万円を切る低価格に人気が集まっています。なぜこの価格を実現できたのかを最後にお話ししましょう。


新型インサイトの開発で徹底したのは、実走燃費でライバル車にひけをとらないことと、ガソリン車との価格差を20万円までに抑えること。これが必須の条件でした。そのうえで、ホンダらしい走りを実現すること、スタイリングがいいことを求めたのです。


トヨタのプリウスが、赤字を覚悟で値下げで対抗しても、インサイトのほうがまだ十数万円安い。プリウスに十数万円分の付加価値があるのかどうかはお客様に判断してもらえばいい。インサイトは、あの価格で当然利益を出しています。


もちろん、それを形にしたのは開発チームによる懸命な努力です。しかし企画段階で明確な方針を示していなければ、どんなクルマができていたでしょうか。手前みそになるので、これ以上語るつもりはありませんけれども(笑)。


「神の声」を聞き分けた信越化学

2010-02-23 21:08:07 | 日記

他社に先んじる情報「神の声」を聞き分けた信越化学


なぜ当たり前のことしか浮かばないか!【4.絶対聴力】


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未曾有の不景気が続く中で状況を的確に把握し、判断するための第一の基本、それは“真に価値ある情報”と“雑音”を聞き分けることだ。




 




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キーパーソンに電話で毎日確認する



<strong>信越化学工業社長 金川千尋</strong>●1926年、東京都生まれ。50年東京大学法学部卒業。同年、極東物産(現・三井物産)入社。62年信越化学工業入社。78年塩ビ事業の海外拠点である米シンテック社長就任。90年シンテックと兼務で社長に就任。
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信越化学工業社長 金川千尋●1926年、東京都生まれ。50年東京大学法学部卒業。同年、極東物産(現・三井物産)入社。62年信越化学工業入社。78年塩ビ事業の海外拠点である米シンテック社長就任。90年シンテックと兼務で社長に就任。

「100年に一度の経済危機」という言葉がマスメディアに登場するようになったとき、これほどセンセーショナルな言葉をいったい誰がいい始めたのか、私は部下に頼んで調べてもらった。


確かに2008年秋以降の景気の悪化は異常事態だった。当社も2008年3月期まで13期連続で最高益(連結)を更新し、昨期も9月の中間期までは増益を続けていた。それが11月以降、業績が急落。ついに減益に追い込まれた。2009年1月のアメリカの住宅着工件数は約49万件と3年前のピーク時の実に4分の1以下だ。


この異常事態を「100年に一度」と表現したのは誰か。調べると、グリーンスパン前米連邦準備制度理事会(FRB)議長、その人だった。19年間にわたってFRB議長を務め、「金融の神様」「マエストロ」と呼ばれ、何ごとにも慎重な言動をとる氏が、「われわれは100年に一度のクレジット津波のまっただ中にいる」と発言していた。それは事態の深刻さを示す何よりの証拠となった。


もし、ほかの人が「100年に一度」といっていたら意に介さなかっただろう。未曾有の不景気が続く中で状況を的確に把握し、判断するための第一の基本、それは“真に価値ある情報”と“雑音”を聞き分けることだ。


あふれる情報の中で私が最も重視するのは、営業マンが集めてくる需要家の生の声だ。毎日の仕事もそれを起点に始まる。朝、私は出勤途中の車中から、アメリカにある子会社で世界最大の塩化ビニル樹脂メーカー、シンテック社の現地駐在幹部へ電話をかける。アメリカにはこの人がこんなことをいうなら、市場のサインであると察知できるようなキーパーソンの需要家が何人かいて、その言葉はまさに“神の声”だ。それを毎日確認するのだ。


彼らから昨日までなかった動きが出たら、すぐに対応策をとる。市場の調査データに表れたときにはもう遅い。需要家のような変化を生み出すおおもとの当事者の声に耳を傾け、その判断を探れば、ほかの人たちよりいち早く動くことができる。


社内の会議でも、私は参加メンバーをポストやポジションに関係なく、「誰が顧客に直接接し、生の声を知り、必要で正確な情報を持っているか」を基準に選ぶ。情報は人を介せば介すほど、人の解釈や都合によりバイアスがかかりやすい。組織内ではよい情報ばかりが上がり、悪い情報は滞ることも多い。数字になって初めて事態の深刻さを知ったのでは対応が後手に回る。


雑音を排除し、真に価値ある情報をつかんだら、第二の基本として、その時点で「これが最善」と思われる判断を行うことだ。それが正しかったかどうかは結果にすぐ表れる。間違っていたら修正し、新たな判断を行えばいい。中長期的にはよい方向へ収斂していく。


例えば、前回行った判断が100点満点で60点だったら、問題点を検証し、次は120点の判断を目指す。これを繰り返し、ならして100点に近づけていくという判断の技術が必要なのだ。


安売り攻勢にはカウンターパンチを



一つ一つの決断に時間をかけてはならない。直面する課題の7~8割はその場で決める。これが第三の基本だ。2、3日検討するくらいなら、すぐ決断し、必要に応じて修正していくほうがはるかに好ましい結果が得られると考えるべきだ。


もちろん、投資計画などの複雑な課題は私でもすぐには決められない。時間をかけて考える。ただ、ややこしい課題はせいぜい2~3割程度だ。課題の7~8割は即決即断を基本原則にすれば、日々の問題のほとんどは速やかに決断できるだろう。


不況期の場合、決断の中には同業他社との徹底した戦いも含まれる。景気の悪化とともに商品の相場が下がるのは供給が需要を上回るからで、同業他社の中にはなりふりかまわず、安売りを仕かけてくるところがある。


例えば、相場が100円の商品を80円でわが社の顧客に売ろうとする。アタックを仕かけられた以上は受けて立ち、相手の顧客に対してより安い70円で売り、カウンターパンチを返す。体力勝負となり、経営力の弱い企業は市場から去ることになる。その後、市場は適正価格での取引に戻る。そこまで戦い抜かなければ不況期には生き残れない。


その間、こちらも傷を負う。持ちこたえる体力を一番に支えるのは、需要家との強い関係だ。これは一朝一夕にはつくれない。例えば、この不況下でもシンテック社は同業他社が軒並み赤字や大幅減益に陥った中で増収増益を達成した。それが可能だったのは、操業開始以来35年間、需要家との強い関係を全世界規模で積み重ねてきたからだ。


好況のときに需給が逼迫しても、顧客に商品が提供できずに迷惑をかけるようなことが絶対ないよう努める。その結果、ロイヤルティ(継続して取引しようとする度合い)の高い需要家を多く確保することができた。好況期に積み上げた努力が不況期に生きるのだ。


そのため、不況のまっただ中にある今も景気回復後を想定した努力を怠ってはならない。シンテック社は2008年秋、米ルイジアナ州に新工場を稼働させると同時に第二期工事にも着手した。タイミング的には決してよくはなかったが、体力の弱い企業が市場から去ったあと、需要家に商品を安定的に供給し、勝ち続けるための投資として決断した。むろん、今は残業をしてまでも建設工事を急ぐ状況ではないので、最低のコストで完成させるつもりだ。


日々の課題については真の情報をもとにその都度、最善の判断を一つ一つ積み上げていく。同時に中長期的課題については、不況を突き抜けたときの出口に向けて準備を整える。それが100年に一度の不況を克服し、最後まで勝ち抜くための私流の戦い方だ。


その一方で、わが社は今期の業績予想をあえて見送った。市場環境は急激な変化が続き、見通しが立たない。できない予想はすべきではないと考えた。もちろん、多くの企業は景気の先行きをある程度予測して業績予想を行っている。そのすべてがそうだとはいわないが、なかには景気の回復を当てにしているかのように見える企業もある。それは裏返せば、「業績が悪いのは不景気のせいである」と言い訳にするのと同じ発想だ。


わが社の場合、業績が落ちた理由を不景気と結びつけて会議で長々と説明し始めようものなら、その場で私にきつく叱責される。今求められているのは、言い訳探しではない。不景気は1~2年は続くと覚悟したうえで、それをいかに克服し、いかに結果を出していくかだ。そのためには、日々変わる市場環境の中で真の情報をつかみ、その都度、最も現実的な最善の判断を積み上げていかなければならない。


大使館には日本株式会社の海外ブランチという意識がない

2010-02-18 13:59:02 | 日記
 

私も言いたい!「日本の成長戦略」塾


2010年2月18日(木)


ゲスト講師】大塚耕平・内閣府副大臣(2)大上 二三雄、瀬川 明秀(日経ビジネスオンライン副編集長) 


国際外交と経 済問題が分断されている日本


大上 あと大塚さんには外交問題についてもお伺いしたいんです。経済・金融と外交は切り離せない問題ですし、やっぱり、これも両義的なテーマです。


大塚 ええ。日本の成長戦略を考える上で、外交の位置付けも重要。私は外交とか国際政治の背景には「経済的利害関係がないものはない」と思っています。


 外交的主張とか国際政治における交渉は、すべて自国や自分たちの陣営にとって繁栄あるいは安定につなげることを考えている。最終的には経済的利害に到達するわけです。逆説的に言うと、国際政治や外交は経済政策とも言える。


 ところが、日本の成長戦略を考える上で、経済界も外務省も外交と経済が連動してないんですよね。これは政権を担当してよく分かりましたけれどもね、外務省というのは外交イコール安全保障だと思っているわけですよ。


大上 なるほど。


大塚 でも、その安全保障ですら経済的繁栄を追求するための手段です。


大上 あるいは経済が安全保障の重要な要素になり得る。


大塚 そう。


大上 アメリカとか中東が日本にたくさん投資をすれば、それ自身が安全保障になるわけですから。


大塚 この数カ月、副大臣として実務をしていて驚いたのが、例えば、オバマや習近平などの外国の要人が訪日する時に、外務省にとって経済問題のアジェンダの優先順位がとても低いことでした。経済問題を話題にしないことも少なくない。


 アメリカというのは、政府幹部が外国を訪問する時は、ほとんど「株式会社アメリカの執行役員」みたいな立場で臨む。営業マンとして明確にビジネスアジェンダを持っていると言えます。そういう意味で、やっぱり日本の成長戦略を考える際、外交も含めて国家戦略全体の問題だという認識を・・・。


大上 まだない。


大塚 共有されてないですね。


大上 外務省って大使館は外務省のものだと思っていますよね。あれはそもそもおかしい。


大塚 勘違いですよね。


大使館には日本株式会社の海外ブランチという意識がない。その意識があったら、職業外交官の多くはあんなに牧歌的な生活はしていられないはずです(笑)。


大上 そうですよね。


大塚 しかも、先ほど申し上げたように、世界は動態的にどんどん動いているわけですから。現地の動きは、いくら吸収して本国に伝えても、伝えきれないぐらいの情報があるはずなのに、ローテーションで任地を転々とする職業外交官は現地の情報を意外に知らない。現地のことをよく知っているのは、2年間の任期採用の調査員とか派遣員の人たちです。皆さん、ものすごくよく知っている。


 現地の庶民の生活から、ステークホルダー同士の人間関係までよく知っている。でもこの人たちはだいたい2年、3年で外務省を辞めざるをえないから・・・。


大上 職業外交官の人たちって、自分が分からないことは扱わないという傾向がある。経済問題に疎いというのが一般的で、国交省の成長戦略会議でもこの問題はさんざん議論されています。


 でも面白いのは、例えば、某国大使は、現状でいけば出世に取り残されそうだという危機意識があったので、新幹線の売り込みを非常に頑張って大活躍したらしいんですね。そういう危機感があり、何か目的があると意外と頑張る人たちであるという。


 あと、ブラジルでの日本の地デジシステム導入でも、総務省の人が1年ぐらいほとんどブラジルに入り浸ってやったらしいんですね。1人の人間の力で、あそこまでできるわけですよ。


大塚 「外交も経済と密接にリンクしていること」「外交や国際政治は、日本の経済成長や経済発展と表裏一体」という意識を持っていたら、当然動きが変わってくるんですよ。


 日本が繁栄すれば世界の安定につながるというコンテクスト(文脈)が明確になれば、「最前線のビジネスマン」である外交官は、当然そのためにどういう行動を成し得るかを考え、実際に行動しなければならない。そういう観点から言えば、今の彼らの多くの立ち居振る舞いはほとんど職務放棄状態。


NBO 戦後直後は違ったと聞きます。日本のものをどうやって伝えていくのかと、企業もちろんそうですけど、“ブランチ”の方々も必死に考えていたと。



BIS規制強化の舞台裏



大塚 そう。日本の官僚は外交官も含めて本来は優秀な集団です。したがって、やればできる。政府に入って、そうした点を実感したこともあります。例えば銀行のBIS規制。


NBO はい。夏頃まではBIS規制強化の話題が盛んに出てました。


大塚 ええ。2009年9月に金融庁に着任した時、「12月には日本にとって驚天動地のような規制強化案がまとまる」という話でした。実際に交渉に行っている人たちは大変優秀な人たちです。そこで「あなた方は前の政権でどういう政治的ミッションを負って交渉に行っていましたか」と質問したところ、驚いたことに明確な答えがないんです。つまり、「政治的ミッションがなかった」ということです。


NBO え?


大塚 何もミッションがない。だから、優秀な官僚であっても、、交渉現場で相手から厳しい要求を突き付けられれば、「そんなことを日本に導入したら大変なことになるけれども・・・」とは言うものの、それ以上には自己主張ができない。「国際的にはこうだ」と言われる一方だったのではないかと思います。抗弁しようにも、ミッションがない。


 実際は、国際的な基準があるわけではないんです。相手も自らの経済的権益を「国際的な要求」という大義名分の名を借りて自己主張するわけです。交渉手段として表向き「国際的な時流はこうだ」と言っているだけのような気がします。


大上 うーん、やり方がヨーロッパ流だ。


大塚 政治的ミッションがないことから、「あなた方の主張も分かるが、日本はなかなか大変だ」と言っているうちにどんどん押し込まれ、最終的に「年末には言われるままに決まるかもしれない」という状況だったわけです。


 この状況を変えるために、明示的にいくつかの指示をしました。例えば「新規制の導入条件にこういう文言を入れるように」とか、「どうしても自己資本の控除項目について合意ができなかったら、席を立って帰ってきていい」とか。明確にリミットを示しました。そうしたら、交渉担当者のビヘイビアはだいぶ変わったように思います。その後のネゴシエーションはなかなか見事でした。


NBO なるほど。


大塚 「最終責任を政治家が取る」と言ったので、官僚もそのことを心の支え、交渉のセーフティネットとして動く。欧米各国のカウンターパートにもしっかりと働き掛けたようです。特にヨーロッパの大銀行にも規制見直しの共闘を訴えた。するとだんだん雰囲気が変わり、事態の深刻さを分かってきてくれた。


 12月のバーゼルでの最後の会議の時には、後で他国の参加者から伝え聞いた話だと、委員会の議長を務めるオランダ銀行総裁が「あなたはこの問題の重大性を理解してないんじゃないか」と参加者から指摘される展開になったそうです。3カ月前の雰囲気がガラっと変わっちゃったわけですよ。


 交渉担当者の意識で世界は変わるという実例です。あらゆる外交交渉は経済的な問題と密接にリンクしています。日本の経済的繁栄、発展、安定というのは、実はものすごく重要な政治イシューなんです。それが分かってきたら、交渉担当者のパフォーマンスも変わる。


 ところが、例えば環境問題について他国と交渉しなければならない担当者が、成長戦略のペーパーだけを読んでも成果は期待できない。そういう意識のない交渉担当者が、「動態的な成長戦略」「予定調和の結論が用意されてない戦略」を成功させるための国際交渉をまとめ上げられるかといったら、それは無理です。


 繰り返しになりますが、結局、「成長戦略」を成功させる鍵は、企業、官僚などのプレーヤーが意識をどう高めていくかという点です。それから、成長戦略そのものは動態的なものであること、成長戦略は中身の問題じゃなくて定義の問題だということ、そして、成長戦略は国際政治や外交における日本の立ち居振る舞いとも密接にリンクしていること。そんなことを鑑みると、成長戦略の議論はまだまだ本質的な議論になっていません。



本当は、「総員各人の持ち場で全力を尽くせ」が成長戦略



大上 いま大塚さんが言われていることは、今の段階で納得しちゃいけないんだけど(笑)、極めて正論ですね。たぶん、組織を動かすとか、国を動かす時にはまず共通のビジョンがあって、それからロジックに基づき戦略が立案される。それから、組織や人を動かして行くために統制的なもの、具体的には人事が行われと法律をはじめとする規則が定められ、報償や罰などのルールも必要になる。世の中の仕組みから言えば、そういう統制的なものばかりがあがってきます


でも、本当は他にも大切なものがあるんですよ。それが、パーティシペート&トラスト(参加と信頼)。実際にみんなで参加して一緒にやっていくんだと。そういうものをつくっていく意思であり思いが組織の様々な場所で生まれ全体に共有されて行く、そういった動きが生まれてくるようにならなくてはなりません。


大塚 そうですよね。


大上 これからの「成長戦略の読み方」としては、それが大事になってくる。


NBO 今回の成長戦略は今まで大塚さんのおしゃっている課題を踏まえて出てきたものでは・・・今回は違いますよね。


大塚 政府の一員としてはコミットメントはしていますが、僕自身の問題意識がパーフェクトに反映されたものかといえば、もちろんそうではないし、僕がつくったものではないということですよね。それはともかく、結果的にこういうペーパーになるのは、先ほど来、申し上げているように、経済界もマスコミも、それから政治や行政も、「成長戦略」に関するイメージがこういう「紙」をベースにした成果物がないと不安だというコンセンサスがあるからこそ、こういうものにならざるを得ないんです。でも、これだけで成長できるわけではない。多くの国民が共有するビジョン、国全体から内発的に起こってくるダイナミズムがなければならない。


 やっぱり定義の話に関係してくるんですね。今までのやり方が限界に直面しているからこそ「成長戦略」が必要だと感じている。そうであれば、今までと同じことをやっていたら、あるいは同じ発想でプランを立てたら、トレンドは変わらないんですよ。


 でも、この事実、つまり「変わりたければ、自分たち自身が変わらなくてはならない」ということさえみんなで共有できれば、あとは内発的に変わっていきます。それぞれの分野でダイナミズムが起きる。英国海軍のネルソン提督じゃないけれども、「総員各人の持ち場で全力を尽くせ」と言うことです。これこそが「成長戦略」の真髄です。


 NHKで「坂の上の雲」が始まりましたね。あれは面白いですね。この間、今回のシリーズの最後の時に、司馬遼太郎さんの本の中の文章を読み上げていたと思うんですけれども、「あの時代日本の近代化に向けて貢献した人の人数を数えてみたら、数十万人だったかもしれないし、ひょっとしたら数万人だったかもしれない。しかし、そのぐらいの人たちが、つまりそれぞれの分野で、『自分はこの分野の近代化をなさなくてはいけない』と思って取り組んだ結果として、近代日本があった」とナレーションが入っていました。まさしく、そういうことです。


 あの小説、そしてドラマは、たまたま秋山兄弟にスポットを当てていますが、司馬さんは、全体像を明確に認識して書いておられるなというのがよく分かる。


 僕は今も一緒だと思うんですよ。例えば、菅さんが凄い「成長戦略」を書けて「この内容に従ったら、日本は10年後にはまた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』になる」と言う。それだけで、実際に成長が実現できるなら、菅さんをエンペラーにしなければいけないでしょうね(笑)。


NBO エンペラー(笑)


大塚 でも、そんな人はいないわけです。各自が今までとは違う努力をしないとダメなんです。


掃除衛星

2010-02-17 17:33:02 | 日記

JAXA、“掃除衛星”の研究開発に着手-10年後小型機実用化




 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は廃棄した人工衛星やロケットの残骸(ざんがい)、破片などの宇宙ゴミ(用語参照)を取り除く“掃除衛星”の研究開発に本格的に取り組む。

本体に搭載したロボットアームを伸ばして宇宙ゴミをつかみ、大気圏に引きずり下ろして一緒に燃やすという衛星だ。世界中で衛星の打ち上げが増えるなか、宇宙ゴミが軌道上で運用する衛星に衝突する危険性が高まっている。JAXAは掃除衛星として2020年度をめどに小型機を、次いで大型機の実用化を目指す。

 JAXAの掃除衛星は高度1000キロメートル前後に打ち上げ、画像解析などで宇宙ゴミの動きをとらえ、そのゴミが激しい運動をしている場合でも運動を弱めて捕獲する。本体のロボットアームを伸ばして宇宙ゴミをつかみ、5キロメートル程度まで伸びる強度の高い網目状の導電性のひも(テザー)を取り付ける。ひもでゴミを引っ張りながら地球の磁気圏を周回。

『創価学会を斬る』「言論出版妨害事件」

2010-02-17 11:16:34 | 日記

手記「池田大作・創価学会名誉会長と私」(第5回・上)=矢野絢也
G22月15日(月) 17時12分配信 / 国内 - 社会








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document.getElementById('small').style.display = 'none';
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}else{
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手記「池田大作・創価学会名誉会長と私」(第5回・上)=矢野絢也 <NOSCRIPT>
手記「池田大作・創価学会名誉会長と私」(第5回・上)=矢野絢也
</NOSCRIPT>
G2 Vol.1誌面より

矢野絢也(元公明党委員長)

■「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」

池田氏の性格を特徴づけるのが、学会内部での雄弁ぶりと好対照な「内弁慶」ぶりだ。それが如実に表れたのが、「言論出版妨害事件」と「月刊ペン事件」だった。



「言論出版妨害事件」の発端は一九六九年の八月。政治評論家の藤原弘達氏が、『創価学会を斬る』という本を上梓しようとしていると判明したのがキッカケだった。竹入氏と私は、田中角栄氏(当時、自民党幹事長)を介して、
「初版だけは出していいがすべて学会が買い取る。その後いい仕事を回すから、増刷はするな」
と藤原氏に交渉を仕掛けた。

このときは本当に苦労した。藤原氏は頑として譲らず、交渉は決裂。逆に角栄氏から懐柔されたことを暴露され、一気に政治問題化した。本来は創価学会の問題にもかかわらず、私たち党の人間まで動いていたことから、国会で取り上げられる騒ぎになったのである。



ちなみに同書は発行されるや話題となり、最終的には一〇〇万部以上売れたという。学会では同書を買い占めて焼却しようという計画もあっただけに、かなり売上に貢献したはずだ。
国会ではこれまで創価学会が行ったとされる言論妨害の様々な“前歴”について、具体的な質問が次々に飛ぶ。私ですら初耳のこともあったほどで、追及する側からすれば質問の攻撃材料には事欠かない様子だった。
「そもそも創価学会のために、公明党が動くとはどういうことか」
と政教一致問題にまで議論は発展してしまう。



こうなると最後は証人喚問である。「池田を国会に呼べ」の声が囂然と沸き上がった。
こちらとしては何より痛い攻撃である。弟子として、師を国会の場に引きずり出させるわけにはいかない。証人喚問絶対阻止のため、公明党は連日の右往左往を強いられた。

だが、私は本音としては、池田氏に国会に出てもらいたかった。
騒いでいるのはしょせん、各選挙区選出の国会議員なのだ。こちらは数百万世帯を抱える団体のトップ。器が違うという思いもあった。だから国会の場であろうと、幹部会の時のように颯爽と登場して、
「一部行き過ぎた行為があったようだ。言論妨害をしようという意図などなかったが、誤解を与えたとすれば私の指導不足である。申し訳ない。ただ、信教の自由は大切である。この件については、私は譲るつもりは一切ない」
というように堂々と語ってくれればいい。
そうなれば、議員のほうが圧倒され、
「池田氏まで出てくれたのだ。この件はもう、結構です」
となって問題はあっという間に、終止符が打たれてしまうはずなのだ。いつも我々を魅了するような、あの堂々たる名演説をやってくれさえすれば。当時の私は本気でそう信じていた。

ところが池田氏、内に向かっては類い稀なる演説の天才であっても、外に対しては一転、尻ごみしてしまうのだった。このころは学会本部にも姿を見せず、たまに顔を合わせても、池田氏からは、
「どうなんだ、(喚問は)大丈夫か」
ばかり。
「まったく、俺だけが辛い目に遭うんだよ」
「お前たちはしょせん、他人事だ」
とトゲのある言葉を浴びせられたこともあった。外の世界に怯える内弁慶、臆病者以外の何ものでもない。これでは金輪際、証人に出ることはあり得ないな、と諦めるしかなかった。

当時、誰かを国会に証人喚問するには、各委員会の委員全員による全会一致が暗黙のルールだった。多数の横暴を許さない、少数政党を保護するという意味の不文律である。だから、少数政党であれ一党でも反対したら、喚問はできない了解事項になっていた。
ただこれは、あくまで「暗黙のルール」である。国会は明確な規定がない限り、前例に基づいて動くが、このままでは弱い。そこで私は工作に動き回り、これを「慣例」に昇格させた。かくして公明党が反対する限り、池田証人喚問はあり得ないこととなった。この事件で唯一、我々の挙げた成果である。
とりあえず証人喚問は阻止することができたが、池田氏が何も発言しないまま幕引きというわけにはいかない。結局、一九七〇年五月三日に行われた創価学会第三三回本部幹部会で池田氏が声明を出すことになった。この幹部会は池田会長就任一〇周年記念式典の意義があっただけに忸怩たる思いだっただろう。


「言論問題はその意図はなかったが、結果としてそれが言論妨害と受け取られ、世間に迷惑をかけたことはまことに申し訳ない」
また政教一致問題についても言及せざるを得ず、以降学会と公明党は表向きには、政教分離の建て前を装うことを余儀なくされた。