[東京 6日 ロイター] 米アップルの新型端末「iPad」(アイパッド)の国内発売を5月末に控え、日本でも電子書籍市場が動き出すかどうかが注目されている。
米アマゾン・ドット・コムとソニーが日本語版の電子書籍端末の投入を検討している一方で、国内出版界の多くは依然として電子コンテンツの提供には消極的だ。世界市場でデジタルコンテンツの流通チャネルをめぐる覇権争いが激化しているが、日本のコンテンツ産業がビジネスチャンスを逃す恐れが指摘されている。
アイパッドは、携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」、高機能携帯電話「iPhone(アイフォーン)」で蓄積した音楽・映画・ゲームのコンテンツが利用できるのが特徴だが、注目されているのは電子書籍端末の機能だ。米国の大手出版社がコンテンツを提供するオンライン書店の「iブック・ストア」を開設し、電子書籍の配信を開始。縦189.7ミリ、横242.8ミリのタブレット型のサイズも読書に適しているとされ、アップルは3日、アイパッドの販売台数が4月3日の米国発売から28日で100万台に達し、電子書籍のダウンロードが150万冊になったと発表した。
<電子書籍端末、今年最大で2000万台に>
電子書籍端末は09年から米国でブームが起こり、アマゾンが「キンドル」、ソニーが「リーダー」を展開して急速に市場を形成した。両社とも販売台数を公表していないが、野村総研の推計では、09年末の累計販売台数はキンドルが160万台、リーダーが100万台の規模で、2機種を含む電子書籍端末の全世界の市場規模は300万台程度という。今年は500―1000万台に達するとされるアイパッドの投入でさらに広がりが見込まれ、10年末の世界販売の累計は1500―2000万台になるとみられている。
米国でキンドルとリーダーがヒットした要因について多くの専門家は、1)液晶よりも目が疲れにくい電子ペーパーを画面に採用、2)60秒以内で書籍がダウンロードできる通信機能、3)バッテリーが長持ち――などのほか、ベストセラーの新刊本がすぐに読めるコンテンツの充実度をあげている。当初9万冊から始まったキンドルの品揃えは49万冊に拡大。リーダーは15万冊に加えて無料で読める100万冊以上の著作権切れの作品が揃う。
野口不二夫・米国ソニーエレクトロニクス上級副社長は、電子出版について議論する3月17日の政府の懇談会で「なぜ(米国で)端末が何百万と年間で売れているかはシンプル。一番喜んでいるのはお年寄りの方で、紙の本では目が疲れるが簡単に文字が大きくなるから買っている」との見方を披露した。
<次こそ日本に根付くか>
米国の活況を受けて「日本でもいよいよ電子書籍元年」(日本電子出版協会の下川和男副会長)と市場拡大を期待する声が増えてきた。アマゾンとソニーは日本語版の電子書籍端末の展開を検討していることを認めているが、電子書籍ビジネスの関係者にとって日本市場には苦い経験がある。
ソニーは04年に電子書籍端末「リブリエ」を投入し、ソニーほか出版・新聞社15社が出資して電子書籍の配信会社を立ち上げたが、広がりを見せず07年に撤退。松下電器産業もほぼ同時期に端末「シグマブック」を投入したが08年に事業を終了した。当時のソニーの配信会社の社長を務めた、出版編集者の松田哲夫氏(筑摩書房顧問)は「出版社など多くの会社が出資したがコンテンツがうまく集まらなかった」と当時の「失敗」を振り返っている。
次こそ日本市場が「元年」を迎えられるかが焦点だが、ソニーは「いつ発売するかは言えないが真剣に考えている」(平井一夫執行役)と述べるにとどまっている。日本市場での再参入で最も重視しているのが「人気あるコンテンツをいかに豊富にタイムリーに出せる仕組みが作れるか」(広報)としているためで、国内出版界の協力が不可欠と考えているためだ。米国と同様に品揃えがカギになるとみており、出版社との会合を重ねている段階にとどまっているという。
<一部出版社で電子化に積極姿勢も>
実際、コンテンツを握る日本の出版界は「紙の本の市場が崩される」ことを理由に電子書籍には消極的とされてきた。こうした中で、米国でのキンドルのブームやアイパッドの日本上陸で出版界も重い腰を上げ、講談社や小学館、新潮社など国内主要出版社31社が「日本電子書籍出版社協会(電書協)」を2月に設立したことは「元年」への期待の追い風になっている。協会の野間省伸・代表理事(講談社副社長)は「電子書籍市場に積極的な取り組みをしたい」と強調。細島三喜・事務局長も「出版社の意識も以前とは変わった。守りの姿勢ではなく何とかビジネスにならないかと考えている」と述べる。
出版界の対応に変化が出始めた背景にあるのが「出版不況」だ。出版科学研究所の推定によると、09年の書籍・雑誌の販売額は前年比4.1%減の1兆9356億円で21年ぶりに2兆円を割り込んだ。一方で、インプレスR&Dによると08年の電子書籍市場は464億円となり4年で10倍に拡大。電子書籍端末がまだ始まっていないにも関わらず、携帯電話を通じたコミックを中心に日本では静かに電子化の波が広がっていたことが分かっており、ビジネスへの期待が少しずつ広がっている。
角川書店の新名新(にいな・しん)常務は「電気自動車で自動車業界が変わるように出版界も変わっていく」と述べる。もしもアマゾンやソニーが日本語版の電子書籍端末を展開することを決めたなら「真っ先に並べたい。新刊本を出すことも考えているし、場合によっては紙の本より先に出すこともある」と積極的な姿勢を見せる。間もなく上陸するアイパッドについても「漫画のレイアウトを再現するには最適。コミックの提供を考えている」と語っている。
<一致団結の出版界、アップルに警戒>
一方で、電書協が設立されたことについては「防衛に過ぎない」(松田氏)と冷めた見方も多い。「黒船来航」とも表現されるアップルやアマゾンの攻勢に主要出版社が団結した側面もありそうで、細島事務局長も「紙との共存ができるなら協力するが、紙の出版を維持できないなら協力はできない。こちらがコンテンツを出さなければ向こうも(電子書籍端末を)出すことはできない」と複雑な心境を明かしている。
特に出版界が警戒しているのはアップルの配信ビジネスだ。アイポッドの登場と音楽配信の「iチューンズ・ストア」の組み合わせで、レコード店を通すことなくダウンロードで音楽販売する形態が定着したように、アイパッドと「iブック・ストア」の展開は出版界のビジネスモデルを破壊する可能性がある。松田氏は「音楽配信では配信業者(アップル)が価格を安く設定した結果、クリエイティブな現場にお金が返ってこないシステムになってしまった」と指摘する。さらに「紙の本より安くなるはずの電子書籍は紙の本の何倍も売れないと割に合わない」と出版界の懸念を代弁している。
角川書店も電書協に加盟しているが、新名常務は、現在の出版界の状況について「慎重派もたくさんいるし、われわれみたいにいろいろやってみたい社もある。そこには当然、温度差がある」と指摘する。ただ「電子書籍にしないことが本を守ることになるのかどうか。角川はすでにデジタルコミックを手掛けているが紙のコミックの売り上げが落ちている感覚はない」と強調していた。
<世界で流通覇権の争い激化、日本市場は後回しも>
「日本最大の書店」(出版関係者)の顔を併せ持つアマゾン・ジャパンは、日本の出版社との交流は日常的にある。アマゾンが1月に都内で開いた会合では、キンドル日本語版の開始時期について出版社側から質問が相次いだという。ただ、日本の出版界では電子化の権利関係が出版社にあるのか著作者にあるのかが曖昧なケースが多く、キンドルへの提供に関心を持つ日本の出版社には、まずはデジタル化の権利を確保するよう勧めている段階という。アマゾン・ジャパン広報部の小西みさを部長は「キンドルの開始時期は未定としか言えないが、出版社側で電子書籍を提供する環境が整ってくれば、スタートのめどは立ってくるのではないか」と語る。
裏を返せば電子化への環境整備が追いついてない日本の出版界の現状が明らかになってくる。この中で、アップルは「iブック・ストア」の日本展開の方針を示していない。音楽配信の「iチューンズ・ミュージック・ストア」は米国で03年4月に開始してから、日本で始まったのは05年8月。アップルのビジネスに詳しい関係者は「この時も日本の音楽業界からの反発は凄まじかった」と語っている。
インターネットメディア総合研究所の高木利弘客員研究員は「日本での戦いはこれからだ」との見方を示した上で「アマゾンもアップルも、日本ではいろいろ面倒なのでとりあえず後回し、という状況もあるのではないか」とも指摘する。ただ、この間にも世界市場は大きく変化しそうで、高木研究員は「米国市場では紙の書籍と電子書籍が逆転していくだろう」とみる。さらに「音楽配信で秩序を作ったアップルは電子書籍でもデジタルコンテンツ流通の秩序を作っていく可能性が高い。そうなれば、マイクロソフトもノキアもRIMもサムスンも参入してきて、デジタルコンテンツ流通の覇権争いが激化してくる」と予測している。
流通チャネルの拡大は、漫画やアニメなどコンテンツを保有している業者にはビジネスチャンスになるはずだ。ただ、高木研究員は「デジタルの流通チャネルを日本でどう立て直すかを考えなければ、アップルやアマゾンにコントロールされるだけになる」とコンテンツ産業の戦略不在に警鐘を鳴らしている。その上で「日本は漫画やアニメが強いなどと言われているが、いつの間にかもぬけの殻、気が付いたら外国の企業が保有している可能性もある」とも指摘している。
(ロイター日本語ニュース 村井 令二 久保 信博 編集:石田仁志)