第2回
政治と文学の相関関係
浅田氏は文学の素養がなければ中国の政治を語ることができないと指摘する。政治と文学にはどのような関係があるのだろうか。
中国文化は長い歴史のうえに成立していますが、そのうちの一三〇〇年間ほど、すなわち隋の時代から清の時代までは、科挙制度を通過した官僚によって政治が行われていました。
ご存知のとおり、科挙制度というのは、人類の歴史上最も過酷といわれる官吏登用のための試験制度です。この科挙の試験問題の配点ですこぶる重視されていたのは「詩作」です。受験科目の三分の一が詩作だから、小さい頃から詩を作ることばかり勉強してきた人たちが官僚になり大臣になり、政治の中枢を担っていったのです。
つまり、中国における大詩人はまず全員が政治家でした。あるいは、ほとんどの政治家は同時に詩人としての教養を持ちあわせていた。これは他国には類を見ない中国史の特殊性と言えます。
詩作に加えて儒教など古典の教養に重点を置いた試験制度によって、中国は世界でも非常に独特な文治国家になった。
中国の現在を知るには中国の過去を知らなければなりません。そして、中国の過去の政治を知るには、まず官僚にとっての基礎的な教養であった詩作、つまり文学を知らなければならないのです。
南宋の著名な詩人である陸游はロマンチックに夜空の銀河を詠いあげるような叙景詩を残しています。一方で、北方の異民族国家である金に追われた南宋の官僚として今の世を嘆いた社会的・政治的な詩もたくさん書いています。作風があまりにちがうので、私は高校時代には「陸游という人は二人いるのではないだろうか」と思っていたほどです。しかし、そのうち、文学と政治が無理のないかたちで両立していることにこそ、中国文化の特質があると考えるようになりました。
もうひとつ、中国の文治主義を象徴しているのは、町でよく見かける「口喧嘩」かもしれません。中国を旅行していると、中国人同士の口喧嘩をよく見かけます。読者のなかにも、そんな光景をご覧になった方も多いことでしょう。それを見て、どんな感想を持つか。中国人は怖いと思う人もいるかもしれません。あるいは、喧嘩好きな民族だと感じる人もいるかもしれません。私はついつい見物してしまって、中国人の口喧嘩は見応えがあるなと感じています。
街角で中国人二人が喧嘩をしているのを見ていると、もう両方ともにワァワァと好き放題に怒鳴りあっているものだから、そのうち周囲に人の輪ができる。しかも本人たちもまわりも、手は出さないまま、あくまでも「言論」でやりあっている。どこか大道芸のように「相手を罵倒する構文の豊饒さ」を披露しあい、本人たちも周囲もそうした口喧嘩を楽しんでいるフシがあるという。
この「人間を罵倒する表現」にかけては中国語の語彙の豊かさにいつも感心させられます。こうした状況は、ある意味では高等な文化の素地を背景にしていると言えるのではないでしょうか。つまり、中国における「もめごと」は口喧嘩で済んでいるわけです。
たとえばアメリカのラスベガスのカジノで遊んでいれば、一晩で一件や二件は殴りあいの喧嘩を見かけます。しかし、「相手を罵倒する単語」はたいてい一言や二言で、あとはすぐに暴力の応酬になってしまう。相手を罵倒する表現が少ないから、つい手が出るのかもしれません。そして、アメリカではそのもめごとを楽しむような雰囲気はありませんね。人々はできるだけ近寄らないようにして「あとはガードマンに任せましょう」となってしまう。このことには、アメリカとの対比においても、中国の特色が出ているのではないかと思っています。
何度も言いますが、中国の特色は、学問や文学、言葉によって世の中を治める文治政治にあるわけです。
中国の共産主義体制は、それまでの中国の歴史や文化をことごとく反転させるような方針を採用してきた。しかし、庶民のあいだでは旧来の文化が温存されてきたという。
たとえば中国共産党は人民の「占い」や「おまじない」を禁止しました。共産主義は非科学性を否定するので、「占い」や「おまじない」などは一切やってはならないはずでしょう?
しかし、庶民の住居を覗いてみれば、家の壁にはかならず何やら「おまじない」の効果のありそうなものがたくさん貼ってあって、キラキラと輝いている。この文化はなくなるはずがないと思いました。街なかでは占い師も商売を続けています。「占い」という看板は出していなくて、「命名」、つまり「生まれた子どもの名前をつけましょう」という看板だけを出しているわけです。しかし、入ってみたら旧態然たる占いがおこなわれている。これも「赤ん坊の名前については、教養のある人がいい名前をつけてあげたほうがいいのだから」と言えば誰も否定できないようになっているのです。
乾隆帝という怪物
現代の中国を理解するためには、「清朝の文化に触れることがいちばんの近道なのかもしれません」と浅田氏は言う。清代においては隋の時代から一三〇〇年間も続いた科挙制度が続いていた。宦官という宮仕えも健在であった。そして清朝末期にかけては欧米列強による理不尽な侵略にさらされる。清朝末期は浅田氏にとって「作家である以前に歴史マニアである私が、最も興味を持つ時代」だという。
清朝は北方の異民族である満洲族による征服王朝です。これが何といっても私には興味深かった。満洲族は漢民族とまるで違う言葉を喋っていて、農耕民族の漢民族とは決定的に違う狩猟民族としての文化を持っている。人数は少ないのに、たちまち中国全土を支配したわけです。そうしたパワーを面白いと思っていました。前々から、自分が中国を書くのであれば、清朝末期の状況を、できれば清朝中期の乾隆帝の時代にまで遡った大長編として書きたいと考えていたのです。
三年間かけて書かれた一八〇〇枚の大長編小説『蒼穹の昴』は、清朝末期の中国、西太后の時代に物語の幕を開ける。河北の曠野に生きる貧しい糞拾いの少年が、ある日、韃靼の老占星術師の口から、思いもかけぬ未来を予言される。
〈汝は遠からず都に上り、紫禁城の奥深くおわします帝のお側近くに仕えることとなろう。
やがて(中略)中華の財物のことごとくをその手中にからめ取るであろう。
そう、その皹〈あかぎれ〉た、凍瘡〈しもやけ〉に崩れ爛〈ただ〉れた、汝の掌のうちに〉
こうして長い物語ははじまる。浅田氏が前の発言で触れた清朝第六代の皇帝である乾隆帝(在位は一七三五年から一七九五年)は、モンゴル、東トルキスタン(新疆)、チベット、ネパールなどを征服、さらにビルマ(現ミャンマー)やベトナムにまで手を伸ばして領土を拡げた。『蒼穹の昴』の物語中において、西太后は夫(第九代皇帝である咸豊帝、在位は一八五〇年から一八六一年)の曾祖父である「乾隆帝の亡霊」に対して、幾度も国政の舵取りを相談することになる。
乾隆帝に興味を持った理由は、彼には「怪物性」を感じるからです。この「怪物性」こそ、中華皇帝の本質ではないでしょうか。そもそも、乾隆帝の時代には気候が安定していたこともあり、前後の数十年間に「世界の王者」のような人物があちこちに生まれています。日本においても八代将軍である徳川吉宗の時代で、幕府の統治は安定していました。
清朝末期においては「乾隆帝が生前にこうおっしゃっていたから……」と言えば、無理難題でも押し通されてしまったこともあったようだ。今の中華人民共和国の領土よりさらに二割も広大な国土を確定し、巨大な帝国を築きあげた乾隆帝とはどんな人物だったのか。
乾隆帝は、清朝末期には、ほとんど神様のように捉えられていたようです。また、乾隆帝の書いた筆跡を見てわかるのは、西太后の筆跡は完全に乾隆帝のコピーであるということ。『蒼穹の昴』における「西太后は乾隆帝を自分のロールモデルにしていた」という私の解釈は、そうした実物の筆跡がヒントになっています。つまり、西太后は何事においても乾隆帝の真似をしていたわけです。
乾隆帝については面白いエピソードがあります。中国においては紫禁城でいろいろな名宝が継承されてきたわけですが、乾隆帝には「これは私の持ちものである」と、自分のハンコを押してしまうクセがありました。たとえば、乾隆帝よりも一四〇〇年も前に書かれた、王羲之の「蘭亭序」という書は、世界的な宝の中の宝と言えるものです。それに、誰はばかることもなく自分のハンコを押してしまう。「これを、私は読みました」というような書きこみまでしてしまう。乾隆帝は、そういうマーキングをあらゆる宝物に対してやってしまう人物なのです。これは乾隆帝の「怪物性」を象徴するエピソードだと思います。私は「この乾隆帝という人物の自負心の大きさは何だろう?」と、ますます興味を持つようになりました。
宮崎市定教授と科挙制度
浅田氏が中国に興味を抱きはじめたのは、『蒼穹の昴』を書くより三〇年も前の中学生時代だったそうだ。
そもそも、中国に興味を持つようになった端緒は、中学で教えられた漢詩にありました。それで次第に漢文に親しむようになって、当時、京都大学で現役の教授だった宮崎市定先生の著作に巡りあいました。宮崎先生の著作は本当にすばらしかった。昔の学者は文章がうまいものだから、もう小説を読むよりも面白くなってしまいました。いちばんはじめに自分で買った全集も、鴎外でも漱石でも谷崎でもなく『宮崎市定全集』でした。今に至るまで、私が文章的に最も影響を受けているのは宮崎市定先生かもしれません。読みやすく、ユーモアがあり、洒落ていて、虜になりましたから。
宮崎先生の専門分野は近世、つまり明代と清代における科挙制度と官僚制度です。そのため、自然に中国の官僚制度に興味が生まれてきました。中国の官僚制度は屋根の上に屋根を架けることを無限に繰り返すうちにできあがった怪物のような組織です。その面白さに私はすっかりはまってしまいました。宮崎先生の著作を読みながら、呉敬梓の『儒林外史』という小説も読みました。これは、科挙についてのエピソード集として有名な作品です。そこで私はいかに科挙という試験が過酷なものだったのか知ったのです。その科挙の制度がつい最近まで続いていたところも面白かった。そのようにして、私は中国のなかでもとりわけ清朝に対して魅力を感じるようになっていったのです。
浅田氏によれば、歴史小説を書くときに史料ばかり集めて史料に埋もれてしまうのは最悪のことだという。史料の面白味だけに惹かれているのならば、フィクションを書かないで歴史研究をすればいいからだ。浅田氏は『蒼穹の昴』で、まるで実際に体験したかのように、科挙の試験の様子を活写した。科挙の試験問題や答案に書かれる漢詩まですべて浅田氏のオリジナルであるという。
科挙の試験や答案まで自分で書いてしまうのは面白かったですね。あれは「楽しみ」でやっているんです。自分にとっては、あくまで競馬や麻雀と同じレベルの娯楽。小説家である私が、中国を書くときに心がけているのは「好きでやっているのだから」と目一杯楽しんで中国の文化に没入してしまうことなのです。
科挙をリアルに書けたのは、私が歴史家ではなく趣味が高じた中国オタクだからです。科挙の答案も作成するし、状元(科挙に首席で合格した人物のこと)の答案も、自分でオリジナルの漢詩を作りました。これも、それほど上等な知識があるわけではありません。むしろオタク的に面白がって書いているだけです。
科挙を専門に研究なさっている学者さんならたくさんいるだろうけど、まさか、自分で答案を作ろうなんて人はいないでしょう。しかし、中国オタクとしては、やはり自分で科挙の問題に挑戦してみたくなるものなのです。