拝啓 岡崎トミ子国家公安委員長殿 日本の過去よりまず自分の過去と向き合うべきではないですか?
産経新聞10月31日(日)13時24分
岡崎トミコ氏
【安藤慶太が斬る】
謝罪というのは難しい。何をどう謝ったかが大事だし、過ちに見合った謝罪でなければならない。政治や組織の論理が加わるとなおさら謝罪が難しくなる。
平成12年の雪印集団食中毒事件を機に企業広報における謝罪会見は変わったように思う。起こしたことよりも重要なのは起こしたことに対する企業としての対応である。対応を誤れば、企業生命すら脅かされる。この事件がその典型例だ。当時の社長がエレベーター付近で寝ずに待っていた記者団にもみくちゃになりながら会見の延長を記者から求められた。
「ではあと10分」と社長側。
「何で時間を限るのですか。時間の問題じゃありませんよ」
社長も記者も疲労はピークに達していた。記者の口調も詰問調だった。社長は「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ!」。こう声を荒らげ、いらだちを口にしてしまったのだった。これに一部記者も「こっちだって寝てないんですよ。そんなこと言ったら食中毒で苦しんでる人たちはどうなるんだ!」。記者が猛反発し、社長はすぐに謝ったが後の祭りだった。この会話はマスメディアなどで繰り返し流れ、結果的に雪印グループへの不信をもたらす結果となってしまった。不祥事を隠し、なりふり構わず逃げ回る光景に映ったからだった。
■誠なき記者会見が増えた
企業には説明責任が課せられ、コンプライアンス(法令遵守)の徹底が叫ばれるようになった。そして、不祥事が起こると、役所も企業も幹部が並び、立ち上がって一斉に頭を下げる。そんな光景が一般的になった。
企業防衛のコンサルタント業が活況を呈し、謝罪で頭を下げる角度まで指導の対象になってしまっている。
企業が不祥事に真摯(しんし)に向き合い、社会的責任を果たすための説明の場ならそれはいいことだ。ただ、いろいろな会見を眺めていると、やりとり自体が洗練された一方で、記者会見が企業生命を守るための心ない通過儀礼のような場と化していると感じる会見も少なくない。
うまくこなす。乗り切る場。ひどい場合には記者をいかに当たり障りなくあしらうか。これが主眼となっているように思えてならない会見がしばしばである。
こうした、こなれた記者会見に報道陣からは糾弾や挑発的な質問が延々と続いたり、声を荒げる場面にしばしば出くわすようにもなった。メディアの横暴が社会の指弾を浴びる対象となることも最近ではしばしばで、同業者として他の記者の質問をハラハラする思いで見守る機会も増えた。
準備万端のうえ何を聞いても立て板に水、饒舌(じょうぜつ)に出てくる企業側の説明を耳にしていると、逆に“心なさ”や飽き足りない思いがこみ上げてくる心理は私にも理解できる。会見者がキレたり怒りを爆発させたり、感情をあらわにする場面にこそ、本音や人間性、性根がかいま見えることが多いのも確かだ。
だが、自分の不勉強を棚に上げて挑発的な質問を繰り返したり、会見自体をかき回すのは愚かしい。ひどい場合にはスリリングな映像ほしさからか、記者会見をショーのようにはき違えて臨んだり、質問なのだか、自分の意見表明なのだか分からない質疑も増えたように思う。
いずれにしても会見の意味が、謝罪の持つ本来の意味から懸け離れていくように変わっているのは否めない。
ひょっとして舞台裏では「社長、うまく会見を乗り切りました。さすがですね」と持ち上げられ、社長は悦にいっているかもしれない。そんな光景が思い浮かぶのである。こうなると、何でも謝ればいいとなってしまうし、外形的に確かに謝罪はしているのだが、良心の所在すら疑わしい。実態は、世の中を欺いているとしかいえない。
■通用しないとりあえずの謝罪
わが国では謝罪はしても、非は認めていないことがままある、非は認めないがとりあえず謝ってその場を収めることを好む雰囲気が確かにある。
例えば「世間をお騒がせして申し訳ない」という謝罪の常套(じょうとう)句がある。これだって、頭は下げているのだが文脈によっては暗に「騒ぐ世間が間違っている」と言っているに等しい場合がある。
そこをあえてほじくり返したり、詮索(せんさく)したりせずに丸く収める。それが私たちの知恵であり実際、そうして済ませる場面は身の回りに確かにある。
だが、こうしたやり方が国際的に通用しないことは理解しなければならない。
慰安婦をめぐる河野談話然り、村山談話然り、菅談話然りである。
とりあえず謝ってしまうと、どういう波及があるか。これはよく考えておかねばなるまい。とりあえずの謝罪は非を認めることを意味し、信じがたいほどの巨額訴訟を吹きかけられたりする。日本人自身がいつまでもおとしめられ続け、耐え難い屈辱の日々を余儀なくされるのである。
■反日デモ参加への釈明
前回のこの欄で仙谷官房長官の謝罪が全く謝罪に値しないことを指摘したが今週、考えさせられたのは岡崎トミ子国家公安委員長である。
岡崎氏は平成15年2月、ソウルの駐韓日本大使館前で、韓国の慰安婦支援団体主催の反日デモに参加。民主党が野党時代には、元慰安婦に日本が国家として謝罪と金銭支給を行うための「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を繰り返し国会に提出していた政治家である。
その岡崎氏が国の治安を預かる国家公安委員長に就任するという事態になっている。
就任のさい、菅首相は反日デモ参加について「本人も過去の言動に配慮に欠けた面があり、誤解を招いたことについて深く反省をし、以後、注意をしており、内閣の方針に従って職務に邁進(まいしん)していくという旨を表明されております」と岡崎氏を弁護していた。
一体、岡崎氏は何に反省しているのだろうか。
少し長くなるが岡崎氏の国会答弁をまとめる。
《2003年、私が韓国に参りましたのは、慰安婦とされた過去の戦争の問題に関して、人の心がたいへん踏みにじられていた。私どもは日本の中で戦後の問題、過去の問題について取り組むことが大切だというところで、私たちの活動を説明に参りました。その場所では、韓国全土から慰安婦とされたおばあさんたち、被害者の皆さんたちがそこに集まって来られるということで、私はその報告の場に参加をしました。
私は一応自分の旅費で参りましたけれど、参加したときには空港の送り迎えについてはもちろん、公用車を使用させていただきました。これは国会の活動について報告に行くということで、あくまでも活動の報告だと思っております》。
もう少し岡崎氏の釈明を聞いてみる。反日デモへの参加について岡崎氏は国会議員としての活動だと認めている。しかし、それは「戦争の被害にあった皆さんからしますと、自分たちの要求について、ぜひ自分たちの願いを聞いて欲しいという気持ちの場」に参加したのであって、デモの場で「日本反対」、国旗にバッテンの付いたポスターが掲げられていたことを自分は知らなかった−と述べたのだった。
それが新聞に取り上げられ、私の後ろにそのモノがあったと新聞の報道を見て初めて知った。新聞には「日本政府を糾弾する岡崎トミ子議員」というキャプションが付いていて、「そうなんだな」と思った−というのだが、「私自身はまったく日の丸にバッテンは無関係」だとして抗議はしていない−というのだ。
日本国の国旗国歌を皆が尊重することについて私は大事だと考えている。その上で一連の出来事について「誤解を与えたということについて、反省をしている」と述べたのだった。
■何を反省しているのか
これでは何に反省しているのか、よく分からない。日本の過去に反省を求める人たちが自分の過去にはめっぽう甘かったりする。誤解とは何か。実は岡崎氏は反日デモに参加したことをいまなお正しいと思っているのではないか。
法務委員会での稲田朋美議員(自民)との質疑を要約する。
稲田氏「反省の内容だが、抗議をしなかったことを反省しているのか。何を反省しているのか。デモに参加したことは反省していないということか」
岡崎氏「誤解を受けたことについて、『残念だな』と思って、その点反省をしている」
「私はまっすぐに自らの国会における行動、活動を報告に行った。それでまっすぐに、例えばマイクを持って私どもの活動を報告した。それが全て。その後、写真がそのような結果になっていたが、それは私の責任ではございません。そういう思いの人たちが韓国の中にいたということで私には無関係だ」
稲田氏「質問に答えてない。いつ誤解について気が付き、誤解を解くためにどんなことをしたのか」
岡崎氏「私はまっすぐな自分の活動だと当時は考えていた。それで報道で誤解をした方がいらっしゃったので、それについて反省をしたということで、それ以上でもそれ以下でもない」
稲田氏「誤解を招いたとはあなたがおっしゃっていることだ。何に対する誤解を招いたのか。何が誤解なのか。あなたが反日デモに参加したことは誤解でも何でもない。そこに「×」の日の丸があったことが誤解なのか」
岡崎氏「つまりその報道で様々に思った方々の中に誤解をされた、そういう活動だった、行動だったと思って反省をしております」
稲田氏「誤解の内容が明らかでないのに、何を反省しているのか。何を誤解と考えて、何を反省しているのか。あなたが韓国のいわゆる従軍慰安婦の反日デモ、日本の大使館に対する反日デモに参加したことは事実として間違いはない。じゃあ何を誤解したんですか。趣旨ですか?」
岡崎氏「『反日だと思われたこと』だと思います」
稲田氏「誰が見たって反日です。慰安婦の皆さんが、大使館に向かって抗議のデモをして、そしてそれにあなたが参加したこと自体は間違いがないのだから、慰安婦の抗議デモにあなたが参加したことを誰も誤解はしていない。デモに参加したことをあなたは反省をしているのかしていないのか。どちらか」
岡崎氏「私は今でも私は自ら過去の問題について取り組むことが大事だと考えている。被害者に向き合うことが大事だと考えて参りました。その活動です。その報道によって、私の活動が『反日』だと言われたことが『誤解』だと思っております。私は反日の活動をしたつもりはない。むしろ、戦争の問題をきっちり答えていく、そしてこの国が本当に世界の国から誇りを持つ国である、今でも(私は)誇りを持っているが、そのようにさらに思っていただける。私自身は国益にかなうと思っています」
■どこがまっすぐなのか?
反日デモに参加したことを岡崎氏は何ら反省していないのである。自分が反日と見なされるのは新聞による誤解だというのだが、ならば、自分の行動について国民を惑わすように反省などといった言葉を持ち出さずに、まっすぐに日本の過去を非難し続ければいいではないか。これは「誤解」「反省」という言葉をもてあそびながら国民の目をごまかしていることにならないだろうか。
岡崎氏は28日の参院内閣委員会で、韓国人などの元外国人慰安婦について「名誉や尊厳を回復する措置をしっかりとしていきたい。(金銭支給も)含むものとして検討していかなければならないと思う」と述べ、新たな個人補償を検討したい考えを示したのだった。
政府はこれまで、先の大戦にかかわる賠償、財産、請求権の問題はサンフランシスコ平和条約と2国間条約で対応しており、新たに個人補償を行うことはできないという立場を堅持してきた。岡崎氏の発言はこれを大きく逸脱しており、政府の方針に従って職務に専念する菅首相の発言と矛盾することもいうまでもない。
私は岡崎氏に日本の過去よりもまず自分の過去と向き合うべきだと思っている。今、中国では多くの反日デモが行われている。これは日本の治安とも無関係ではない。日夜警察も情報収集に努めているはずである。慰安婦や日本の過去をめぐり、日本を指弾し糾弾するデモが国内で起きれば、それは日本の国益を損ないかねない事態であり、日本の警察は組織を挙げて重大な関心を払う。
ところがその警察組織を指導監督する立場の国家公安委員長がこうした反日デモに参加する意義を国益にかなっているといってはばからないのである。これでは警察活動は成り立たない。わが国の治安の脅威ではないだろうか。
(安藤慶太=社会部編集委員)
産経新聞10月31日(日)13時24分
岡崎トミコ氏
【安藤慶太が斬る】
謝罪というのは難しい。何をどう謝ったかが大事だし、過ちに見合った謝罪でなければならない。政治や組織の論理が加わるとなおさら謝罪が難しくなる。
平成12年の雪印集団食中毒事件を機に企業広報における謝罪会見は変わったように思う。起こしたことよりも重要なのは起こしたことに対する企業としての対応である。対応を誤れば、企業生命すら脅かされる。この事件がその典型例だ。当時の社長がエレベーター付近で寝ずに待っていた記者団にもみくちゃになりながら会見の延長を記者から求められた。
「ではあと10分」と社長側。
「何で時間を限るのですか。時間の問題じゃありませんよ」
社長も記者も疲労はピークに達していた。記者の口調も詰問調だった。社長は「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ!」。こう声を荒らげ、いらだちを口にしてしまったのだった。これに一部記者も「こっちだって寝てないんですよ。そんなこと言ったら食中毒で苦しんでる人たちはどうなるんだ!」。記者が猛反発し、社長はすぐに謝ったが後の祭りだった。この会話はマスメディアなどで繰り返し流れ、結果的に雪印グループへの不信をもたらす結果となってしまった。不祥事を隠し、なりふり構わず逃げ回る光景に映ったからだった。
■誠なき記者会見が増えた
企業には説明責任が課せられ、コンプライアンス(法令遵守)の徹底が叫ばれるようになった。そして、不祥事が起こると、役所も企業も幹部が並び、立ち上がって一斉に頭を下げる。そんな光景が一般的になった。
企業防衛のコンサルタント業が活況を呈し、謝罪で頭を下げる角度まで指導の対象になってしまっている。
企業が不祥事に真摯(しんし)に向き合い、社会的責任を果たすための説明の場ならそれはいいことだ。ただ、いろいろな会見を眺めていると、やりとり自体が洗練された一方で、記者会見が企業生命を守るための心ない通過儀礼のような場と化していると感じる会見も少なくない。
うまくこなす。乗り切る場。ひどい場合には記者をいかに当たり障りなくあしらうか。これが主眼となっているように思えてならない会見がしばしばである。
こうした、こなれた記者会見に報道陣からは糾弾や挑発的な質問が延々と続いたり、声を荒げる場面にしばしば出くわすようにもなった。メディアの横暴が社会の指弾を浴びる対象となることも最近ではしばしばで、同業者として他の記者の質問をハラハラする思いで見守る機会も増えた。
準備万端のうえ何を聞いても立て板に水、饒舌(じょうぜつ)に出てくる企業側の説明を耳にしていると、逆に“心なさ”や飽き足りない思いがこみ上げてくる心理は私にも理解できる。会見者がキレたり怒りを爆発させたり、感情をあらわにする場面にこそ、本音や人間性、性根がかいま見えることが多いのも確かだ。
だが、自分の不勉強を棚に上げて挑発的な質問を繰り返したり、会見自体をかき回すのは愚かしい。ひどい場合にはスリリングな映像ほしさからか、記者会見をショーのようにはき違えて臨んだり、質問なのだか、自分の意見表明なのだか分からない質疑も増えたように思う。
いずれにしても会見の意味が、謝罪の持つ本来の意味から懸け離れていくように変わっているのは否めない。
ひょっとして舞台裏では「社長、うまく会見を乗り切りました。さすがですね」と持ち上げられ、社長は悦にいっているかもしれない。そんな光景が思い浮かぶのである。こうなると、何でも謝ればいいとなってしまうし、外形的に確かに謝罪はしているのだが、良心の所在すら疑わしい。実態は、世の中を欺いているとしかいえない。
■通用しないとりあえずの謝罪
わが国では謝罪はしても、非は認めていないことがままある、非は認めないがとりあえず謝ってその場を収めることを好む雰囲気が確かにある。
例えば「世間をお騒がせして申し訳ない」という謝罪の常套(じょうとう)句がある。これだって、頭は下げているのだが文脈によっては暗に「騒ぐ世間が間違っている」と言っているに等しい場合がある。
そこをあえてほじくり返したり、詮索(せんさく)したりせずに丸く収める。それが私たちの知恵であり実際、そうして済ませる場面は身の回りに確かにある。
だが、こうしたやり方が国際的に通用しないことは理解しなければならない。
慰安婦をめぐる河野談話然り、村山談話然り、菅談話然りである。
とりあえず謝ってしまうと、どういう波及があるか。これはよく考えておかねばなるまい。とりあえずの謝罪は非を認めることを意味し、信じがたいほどの巨額訴訟を吹きかけられたりする。日本人自身がいつまでもおとしめられ続け、耐え難い屈辱の日々を余儀なくされるのである。
■反日デモ参加への釈明
前回のこの欄で仙谷官房長官の謝罪が全く謝罪に値しないことを指摘したが今週、考えさせられたのは岡崎トミ子国家公安委員長である。
岡崎氏は平成15年2月、ソウルの駐韓日本大使館前で、韓国の慰安婦支援団体主催の反日デモに参加。民主党が野党時代には、元慰安婦に日本が国家として謝罪と金銭支給を行うための「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を繰り返し国会に提出していた政治家である。
その岡崎氏が国の治安を預かる国家公安委員長に就任するという事態になっている。
就任のさい、菅首相は反日デモ参加について「本人も過去の言動に配慮に欠けた面があり、誤解を招いたことについて深く反省をし、以後、注意をしており、内閣の方針に従って職務に邁進(まいしん)していくという旨を表明されております」と岡崎氏を弁護していた。
一体、岡崎氏は何に反省しているのだろうか。
少し長くなるが岡崎氏の国会答弁をまとめる。
《2003年、私が韓国に参りましたのは、慰安婦とされた過去の戦争の問題に関して、人の心がたいへん踏みにじられていた。私どもは日本の中で戦後の問題、過去の問題について取り組むことが大切だというところで、私たちの活動を説明に参りました。その場所では、韓国全土から慰安婦とされたおばあさんたち、被害者の皆さんたちがそこに集まって来られるということで、私はその報告の場に参加をしました。
私は一応自分の旅費で参りましたけれど、参加したときには空港の送り迎えについてはもちろん、公用車を使用させていただきました。これは国会の活動について報告に行くということで、あくまでも活動の報告だと思っております》。
もう少し岡崎氏の釈明を聞いてみる。反日デモへの参加について岡崎氏は国会議員としての活動だと認めている。しかし、それは「戦争の被害にあった皆さんからしますと、自分たちの要求について、ぜひ自分たちの願いを聞いて欲しいという気持ちの場」に参加したのであって、デモの場で「日本反対」、国旗にバッテンの付いたポスターが掲げられていたことを自分は知らなかった−と述べたのだった。
それが新聞に取り上げられ、私の後ろにそのモノがあったと新聞の報道を見て初めて知った。新聞には「日本政府を糾弾する岡崎トミ子議員」というキャプションが付いていて、「そうなんだな」と思った−というのだが、「私自身はまったく日の丸にバッテンは無関係」だとして抗議はしていない−というのだ。
日本国の国旗国歌を皆が尊重することについて私は大事だと考えている。その上で一連の出来事について「誤解を与えたということについて、反省をしている」と述べたのだった。
■何を反省しているのか
これでは何に反省しているのか、よく分からない。日本の過去に反省を求める人たちが自分の過去にはめっぽう甘かったりする。誤解とは何か。実は岡崎氏は反日デモに参加したことをいまなお正しいと思っているのではないか。
法務委員会での稲田朋美議員(自民)との質疑を要約する。
稲田氏「反省の内容だが、抗議をしなかったことを反省しているのか。何を反省しているのか。デモに参加したことは反省していないということか」
岡崎氏「誤解を受けたことについて、『残念だな』と思って、その点反省をしている」
「私はまっすぐに自らの国会における行動、活動を報告に行った。それでまっすぐに、例えばマイクを持って私どもの活動を報告した。それが全て。その後、写真がそのような結果になっていたが、それは私の責任ではございません。そういう思いの人たちが韓国の中にいたということで私には無関係だ」
稲田氏「質問に答えてない。いつ誤解について気が付き、誤解を解くためにどんなことをしたのか」
岡崎氏「私はまっすぐな自分の活動だと当時は考えていた。それで報道で誤解をした方がいらっしゃったので、それについて反省をしたということで、それ以上でもそれ以下でもない」
稲田氏「誤解を招いたとはあなたがおっしゃっていることだ。何に対する誤解を招いたのか。何が誤解なのか。あなたが反日デモに参加したことは誤解でも何でもない。そこに「×」の日の丸があったことが誤解なのか」
岡崎氏「つまりその報道で様々に思った方々の中に誤解をされた、そういう活動だった、行動だったと思って反省をしております」
稲田氏「誤解の内容が明らかでないのに、何を反省しているのか。何を誤解と考えて、何を反省しているのか。あなたが韓国のいわゆる従軍慰安婦の反日デモ、日本の大使館に対する反日デモに参加したことは事実として間違いはない。じゃあ何を誤解したんですか。趣旨ですか?」
岡崎氏「『反日だと思われたこと』だと思います」
稲田氏「誰が見たって反日です。慰安婦の皆さんが、大使館に向かって抗議のデモをして、そしてそれにあなたが参加したこと自体は間違いがないのだから、慰安婦の抗議デモにあなたが参加したことを誰も誤解はしていない。デモに参加したことをあなたは反省をしているのかしていないのか。どちらか」
岡崎氏「私は今でも私は自ら過去の問題について取り組むことが大事だと考えている。被害者に向き合うことが大事だと考えて参りました。その活動です。その報道によって、私の活動が『反日』だと言われたことが『誤解』だと思っております。私は反日の活動をしたつもりはない。むしろ、戦争の問題をきっちり答えていく、そしてこの国が本当に世界の国から誇りを持つ国である、今でも(私は)誇りを持っているが、そのようにさらに思っていただける。私自身は国益にかなうと思っています」
■どこがまっすぐなのか?
反日デモに参加したことを岡崎氏は何ら反省していないのである。自分が反日と見なされるのは新聞による誤解だというのだが、ならば、自分の行動について国民を惑わすように反省などといった言葉を持ち出さずに、まっすぐに日本の過去を非難し続ければいいではないか。これは「誤解」「反省」という言葉をもてあそびながら国民の目をごまかしていることにならないだろうか。
岡崎氏は28日の参院内閣委員会で、韓国人などの元外国人慰安婦について「名誉や尊厳を回復する措置をしっかりとしていきたい。(金銭支給も)含むものとして検討していかなければならないと思う」と述べ、新たな個人補償を検討したい考えを示したのだった。
政府はこれまで、先の大戦にかかわる賠償、財産、請求権の問題はサンフランシスコ平和条約と2国間条約で対応しており、新たに個人補償を行うことはできないという立場を堅持してきた。岡崎氏の発言はこれを大きく逸脱しており、政府の方針に従って職務に専念する菅首相の発言と矛盾することもいうまでもない。
私は岡崎氏に日本の過去よりもまず自分の過去と向き合うべきだと思っている。今、中国では多くの反日デモが行われている。これは日本の治安とも無関係ではない。日夜警察も情報収集に努めているはずである。慰安婦や日本の過去をめぐり、日本を指弾し糾弾するデモが国内で起きれば、それは日本の国益を損ないかねない事態であり、日本の警察は組織を挙げて重大な関心を払う。
ところがその警察組織を指導監督する立場の国家公安委員長がこうした反日デモに参加する意義を国益にかなっているといってはばからないのである。これでは警察活動は成り立たない。わが国の治安の脅威ではないだろうか。
(安藤慶太=社会部編集委員)