目覚ましのベルがけたたましく鳴っても、ベッドの中から重い身体を引きずり出せない…。
そんな毎日がこのところずっと続いていた。
時にはそのまま眠り続けてしまうこともあるが、今日は化学の講義があるのでそうもしていられない。
あの教授ときたら毎時間毎時間きちんと出席を取り、出席日数を成績に換算するのでサボるわけにはいかないのだ。
鉛のような身体に鞭打ってベッドから転がり出ると惚けたようにふらふらと洗面所に向かう。
顔を洗えば少しはしゃきっとするかもしれない…気休めかもしれないが…。
食欲もない…頭も重い…梅雨時はこれだから嫌いだ…。
喉に引っ掛かるトーストをコーヒーで無理やり流し込むだけの朝食…。
食パンを焼く気力があっただけでもまだまし…。
アルミサッシのガラス窓を透して眼に入ってくる陰鬱な空…。
亮(りょう)は大きな溜息をついた。
混み合った地下鉄の車両の中はまるで牢獄…気が遠くなるほど気分が悪い…。
人熱れと独特の臭気と…降車駅まで…少しの我慢…あと少し…。
やめて…。
不意に誰かの意識が亮の中に入ってきた。
亮はあたりを見回した。
少し離れたところに怯えたような顔をして俯いている少女がいた。
すぐ後ろにぴったりと男がついている。
痴漢か…鬱陶しいぜ…まったく…。
亮は男を睨みつけた。
あっという声にならない声が男の口から漏れた。
少女に悪さをしていたその手の皮膚が剃刀で切られたように裂けていた。
男は傷口を押さえると慌ててその場を離れた。
亮の気分が少しだけよくなった。
だが…それもほんの数秒…すぐに吐き気に襲われる…。
頭ががんがんする…もうだめ…限界…。
ようよう車両は降車駅に到着した。
押し出されるようにプラットホームに降りて、その流れのままに出口へと進む。
どんよりした空でも見えてくれば新鮮な吸気が吸える…ここよりはまし…。
あの…すみません…?
背後から女の人の声…さっきのあの子だ…。おお…これは…なかなか…。
亮の気分が180度好転する。
少々ぽっちゃり系だが、文句なく可愛い…。
「さっきはありがとう…。 」
えっ…?と亮は思った。
少女はなんてことないような顔をして見つめているがどうして分かったのだろう。
助けたのが…僕だと…。
困惑している亮を尻目に少女は人混みの中に消えていった。
信じられない…僕を見抜いた…。
頭の中が空白のまま亮は講義室まで何とかたどり着いた。
直行(なおき)が手を振っている。
いま僕は幽霊でも見たような顔をしているだろう…。
「おはよう…亮くん…なんか元気ないね。 」
直行は隣の椅子から荷物を降ろして亮のために席を空けた。
理由を話す気にはなれなかった…話せなかった。
いつものことさ…そう言って亮は直之の隣に座った。
講義が終わる頃には亮の気持ちも少し落ち着いてきた。
考えてみれば亮はじっとあの男を睨んでいたわけだし、そのことにあの子が気付いていたとすれば、亮に助けられたと考えても別に不思議じゃない。
そうさ…分かるわけないさ…。
そう考えて自分を無理やり納得させた。
亮のことは誰も知らない。知らない方がいいんだ。
亮の頭の中で共鳴する大勢の見知らぬ人々の意識が、ただそこに居合わせただけなのにどれほど亮を苦しめているかなんて…。
亮はまだ…自分の力を上手く制御できないでいた。
だから周りの影響をもろに受けてしまう。気分が悪いのは半分はそのせい…。
けれども後の半分は亮の心の問題だった…。
高校時代からの友人である直行にさえ、そのことは話していない。
どんなにつらくても相談もできない。
力のことも心のことも…話せばきっと何もかも終わりだ…。
ねえ…知ってる? 一年の木之内亮ってやつさ…あいつおかしいと思わねぇ…?
ゲームのやり過ぎでネジがゆるんだんじゃないか…危ねぇから近寄るなよ…。
そんなふうに思われるのがおちさ…。
幼い頃からずっとこのことについては口を閉ざしてきたんだから…。
馬鹿なこと言うもんじゃありません…ありえないわ…。
そんなことを言ってると病院へ送られるぞ…。
何かあるたびに…あいつらはそう言って僕を叱ったんだ…。
今じゃ口もきかねぇけど…。
亮は日頃からほとんど顔を合わせることのない両親を思い浮かべた。
「亮くん…何にする? 」
直行が亮を振り返って言った。
気が付けば学食の券売機の前に立っていた。
そうか…もう…昼なんだ…。
「カレーでいいや…なんか毎日カレー食ってるような気もするけど…。 」
まるっきり食欲がわいてこないから辛さでごまかして食べてしまう。
僕の食生活…専門家が見たら目を回すだろうな…。栄養価ゼロかもな…。
別に好き嫌いがあるわけではない。ただ…食欲がない…。
何か食べなきゃ生きていけないだろうから…パン…ラーメン…カレー…うどん…なんかの繰り返し…。
家に帰っても同じようなもの…。時々母親の作った晩飯をつつくけれど…全部食べられたためしがない…。
「亮くんさ…この頃…体調悪いんじゃない? 医者行ったほうがよくない?
あんまり食べないしさ…。 全然笑わないし…。 」
直行が心配そうに言った。
「何かさぁ…胃がむかつくから…。
朝起きられないし…寝起きは結構いい方だったんだけど…さ。
五月病ってやつかもね…もう…六月だけど…。 」
生欠伸をかみ殺しながら直行にはそんなふうに話しておいた。
根が素直な直行は気の毒な友人のために、たまねぎを枕元に置けばよく眠れるから効くんじゃないかとか…足湯が効くかも知れないとか…敬老会の物知り博士みたくいろいろ案を出してくれた。
亮は有り難く気持ちだけ受け取った。
同級生の何人かがふたりのいるテーブルにやってきて食事を始めた。
クラブのことやバイトのこと…屈託のない話をしながら…。
彼らと話している間は少し気がまぎれるような気がした。
ことに同じクラスの宮原夕紀…男子学生の憧れの的…。
夕紀の顔を見ていると別の意味で食事が進まない…ついつい見とれて…。
但しこのマドンナ…性格はきつい。
だけど…眺めている分にはそんなことどうだっていいし…。
そんなことを思いながらふと向うのテーブルに目を向けると、もうひとりのクラスメートが目に入った。
高木ノエル…宮原夕紀のように10人が10人振り返るってタイプじゃないが…こちらもまあまあいける。
ただ…そう思っているのは亮だけなのかノエルのことが男子学生の口にのぼるようなことはあまりない。
おとなしくて目立たないから…印象が薄いんだろうな…。
「…なのよ。 それってどう思う? ねえ…ちょっと木之内くん聞いてる? 」
夕紀が怒ったように亮の目の前で手を振った。
亮ははっと我に返った。
「あ…ごめん…。 ボーっとしてた…。 夕べ寝不足でさ…。 」
無視されて憤慨する夕紀に、亮の体調が酷く悪そうで医者行きを勧めたことを直行が話した。
それが引き金となって同級生たちは自分たちが罹った五月病のことについて話し出した。
同級生たちの五月病談義をぼんやり聞きながら亮はもう一度ノエルの方を見た。
超美少女夕紀を前にしてなんでノエルのことなんて考えたんだろう…。
そう言っちゃ悪いが…比べものにはならないのに…。
亮は何だか自分が寝ぼけているような気がした。
今夜は何が何でも早く寝てしまおう…。
そんなふうに思った…。
次回へ
そんな毎日がこのところずっと続いていた。
時にはそのまま眠り続けてしまうこともあるが、今日は化学の講義があるのでそうもしていられない。
あの教授ときたら毎時間毎時間きちんと出席を取り、出席日数を成績に換算するのでサボるわけにはいかないのだ。
鉛のような身体に鞭打ってベッドから転がり出ると惚けたようにふらふらと洗面所に向かう。
顔を洗えば少しはしゃきっとするかもしれない…気休めかもしれないが…。
食欲もない…頭も重い…梅雨時はこれだから嫌いだ…。
喉に引っ掛かるトーストをコーヒーで無理やり流し込むだけの朝食…。
食パンを焼く気力があっただけでもまだまし…。
アルミサッシのガラス窓を透して眼に入ってくる陰鬱な空…。
亮(りょう)は大きな溜息をついた。
混み合った地下鉄の車両の中はまるで牢獄…気が遠くなるほど気分が悪い…。
人熱れと独特の臭気と…降車駅まで…少しの我慢…あと少し…。
やめて…。
不意に誰かの意識が亮の中に入ってきた。
亮はあたりを見回した。
少し離れたところに怯えたような顔をして俯いている少女がいた。
すぐ後ろにぴったりと男がついている。
痴漢か…鬱陶しいぜ…まったく…。
亮は男を睨みつけた。
あっという声にならない声が男の口から漏れた。
少女に悪さをしていたその手の皮膚が剃刀で切られたように裂けていた。
男は傷口を押さえると慌ててその場を離れた。
亮の気分が少しだけよくなった。
だが…それもほんの数秒…すぐに吐き気に襲われる…。
頭ががんがんする…もうだめ…限界…。
ようよう車両は降車駅に到着した。
押し出されるようにプラットホームに降りて、その流れのままに出口へと進む。
どんよりした空でも見えてくれば新鮮な吸気が吸える…ここよりはまし…。
あの…すみません…?
背後から女の人の声…さっきのあの子だ…。おお…これは…なかなか…。
亮の気分が180度好転する。
少々ぽっちゃり系だが、文句なく可愛い…。
「さっきはありがとう…。 」
えっ…?と亮は思った。
少女はなんてことないような顔をして見つめているがどうして分かったのだろう。
助けたのが…僕だと…。
困惑している亮を尻目に少女は人混みの中に消えていった。
信じられない…僕を見抜いた…。
頭の中が空白のまま亮は講義室まで何とかたどり着いた。
直行(なおき)が手を振っている。
いま僕は幽霊でも見たような顔をしているだろう…。
「おはよう…亮くん…なんか元気ないね。 」
直行は隣の椅子から荷物を降ろして亮のために席を空けた。
理由を話す気にはなれなかった…話せなかった。
いつものことさ…そう言って亮は直之の隣に座った。
講義が終わる頃には亮の気持ちも少し落ち着いてきた。
考えてみれば亮はじっとあの男を睨んでいたわけだし、そのことにあの子が気付いていたとすれば、亮に助けられたと考えても別に不思議じゃない。
そうさ…分かるわけないさ…。
そう考えて自分を無理やり納得させた。
亮のことは誰も知らない。知らない方がいいんだ。
亮の頭の中で共鳴する大勢の見知らぬ人々の意識が、ただそこに居合わせただけなのにどれほど亮を苦しめているかなんて…。
亮はまだ…自分の力を上手く制御できないでいた。
だから周りの影響をもろに受けてしまう。気分が悪いのは半分はそのせい…。
けれども後の半分は亮の心の問題だった…。
高校時代からの友人である直行にさえ、そのことは話していない。
どんなにつらくても相談もできない。
力のことも心のことも…話せばきっと何もかも終わりだ…。
ねえ…知ってる? 一年の木之内亮ってやつさ…あいつおかしいと思わねぇ…?
ゲームのやり過ぎでネジがゆるんだんじゃないか…危ねぇから近寄るなよ…。
そんなふうに思われるのがおちさ…。
幼い頃からずっとこのことについては口を閉ざしてきたんだから…。
馬鹿なこと言うもんじゃありません…ありえないわ…。
そんなことを言ってると病院へ送られるぞ…。
何かあるたびに…あいつらはそう言って僕を叱ったんだ…。
今じゃ口もきかねぇけど…。
亮は日頃からほとんど顔を合わせることのない両親を思い浮かべた。
「亮くん…何にする? 」
直行が亮を振り返って言った。
気が付けば学食の券売機の前に立っていた。
そうか…もう…昼なんだ…。
「カレーでいいや…なんか毎日カレー食ってるような気もするけど…。 」
まるっきり食欲がわいてこないから辛さでごまかして食べてしまう。
僕の食生活…専門家が見たら目を回すだろうな…。栄養価ゼロかもな…。
別に好き嫌いがあるわけではない。ただ…食欲がない…。
何か食べなきゃ生きていけないだろうから…パン…ラーメン…カレー…うどん…なんかの繰り返し…。
家に帰っても同じようなもの…。時々母親の作った晩飯をつつくけれど…全部食べられたためしがない…。
「亮くんさ…この頃…体調悪いんじゃない? 医者行ったほうがよくない?
あんまり食べないしさ…。 全然笑わないし…。 」
直行が心配そうに言った。
「何かさぁ…胃がむかつくから…。
朝起きられないし…寝起きは結構いい方だったんだけど…さ。
五月病ってやつかもね…もう…六月だけど…。 」
生欠伸をかみ殺しながら直行にはそんなふうに話しておいた。
根が素直な直行は気の毒な友人のために、たまねぎを枕元に置けばよく眠れるから効くんじゃないかとか…足湯が効くかも知れないとか…敬老会の物知り博士みたくいろいろ案を出してくれた。
亮は有り難く気持ちだけ受け取った。
同級生の何人かがふたりのいるテーブルにやってきて食事を始めた。
クラブのことやバイトのこと…屈託のない話をしながら…。
彼らと話している間は少し気がまぎれるような気がした。
ことに同じクラスの宮原夕紀…男子学生の憧れの的…。
夕紀の顔を見ていると別の意味で食事が進まない…ついつい見とれて…。
但しこのマドンナ…性格はきつい。
だけど…眺めている分にはそんなことどうだっていいし…。
そんなことを思いながらふと向うのテーブルに目を向けると、もうひとりのクラスメートが目に入った。
高木ノエル…宮原夕紀のように10人が10人振り返るってタイプじゃないが…こちらもまあまあいける。
ただ…そう思っているのは亮だけなのかノエルのことが男子学生の口にのぼるようなことはあまりない。
おとなしくて目立たないから…印象が薄いんだろうな…。
「…なのよ。 それってどう思う? ねえ…ちょっと木之内くん聞いてる? 」
夕紀が怒ったように亮の目の前で手を振った。
亮ははっと我に返った。
「あ…ごめん…。 ボーっとしてた…。 夕べ寝不足でさ…。 」
無視されて憤慨する夕紀に、亮の体調が酷く悪そうで医者行きを勧めたことを直行が話した。
それが引き金となって同級生たちは自分たちが罹った五月病のことについて話し出した。
同級生たちの五月病談義をぼんやり聞きながら亮はもう一度ノエルの方を見た。
超美少女夕紀を前にしてなんでノエルのことなんて考えたんだろう…。
そう言っちゃ悪いが…比べものにはならないのに…。
亮は何だか自分が寝ぼけているような気がした。
今夜は何が何でも早く寝てしまおう…。
そんなふうに思った…。
次回へ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます