狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<7-2/2>:自分の無い神第一・神実現・神の価値観、与えられたゆとり/God First, God Realization, God's sense of value

2019-02-01 14:43:39 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<7>
    ~自分を捨てた神第一・神実現・神の価値観
       God First, God Realization, God's sense of value
     ゆとり、休養、「転機」が与えられた
     開き直り、裸になる事、自分を失くす事 
     「神第一」で得られる心の安定と静寂
     終末期に於ける「悔い改め」による「永遠の命」
     世間の「逆効果」



 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 (「My Testimony/僕の証<7-1/2>」からの続き)……

  本ブログを始めてから、丸6年が経った。丁度始めた直後、医療系の最後となるクリニックに2ヶ月のみ在勤させて頂いた。このタイミングも意味が深く感じる。僕は今後、医療系に戻る事は無く、それで区切りが付いた。そして、慣れた鉄工関係と並行しながら、ここまでブログが続いている。
 鉄工は慣れた仕事である為、家に仕事を持ち帰る必要が無い。かつて若い頃は、図面を自宅に持ち帰り、給料に繋がらないにも関わらず、ややこしい図面と睨めっこしたり、寸法出し、展開等と、材料の書き出しを行ったりしたものであった。しかし今は、「自分の時間」に於いてするべき事が有るので、家に持ち帰る事はしない。
 もし医療系に勤めるとしたら、どうであろうか?。慣れた仕事では無い為、家で仕事の勉強もしなければならず、その他諸々、仕事を家に持ち帰らなければならなくなってしまう。それでは、僕の「目的」に向かう事は、出来なくなってしまう。
 テレビ番組のタイムテーブルを見てみると、どうであろうか。何と、医療ドラマの多いことか!。その白衣姿のテレビ・ドラマが多い反面、作業着姿のテレビ・ドラマは何と少ない事か!。今は、丁度、「下町ロケット」(TBS系)を放送している。しかし、そのドラマも、下町は共感出来るものの、僕が居る世界、小さな古い町工場の下請け鉄工所とは違う。
 僕は、思う。医療の世界を知りたく、且つ見たかったら、テレビ・ドラマでも見ておけと。それでも飽き足らないのであろうか?。世間の方々は、足るを知らず、貪欲である。僕は、そんな世間の期待、欲望には応えないし、今後、その世界に、戻る事は無い。
 ついでに、僕は、セックス等のような仕様もない(しょうもない)、くだらない事を見せるつもりは全く無いので、悪しからず。
 兎に角、僕は今や他に「目的」を持つので、そんな周囲の「雑音」には耳を貸さない。その一環としての、「ブログ」である。

 長期休暇を取り、引きこもる事は、今までにも数回有った。「高校中退」後にも有ったし、大怪我の後の入院2ヶ月と自宅療養3ヶ月、6年前(2012年)の半年間と2ヶ月、そして昨年から今年に掛けての7ヶ月と2ヶ月の休暇である。それぞれに意味は有った。
 「高校中退」後、兎に角、家を出て独り暮らしをしたかったのであるが、お金が無い。そして世間知らず、ウブな僕は、最初の或る仕事の数ヶ月の見習い後に引きこもり、その後、働いてアパートを借りる事3ヶ所を「転々」とするも、また引き返して実家に戻り、引きこもった。その後、20歳の時に家出をし、県外各地を「転々」とした。
 怪我の入院後の自宅療養時には色々考えたが、仕事への復帰を翌月に控えた最終月になってからやっと、「大検」の勉強に取り掛かり始めた。
 6年前は、非常に内容の濃いものとなった。遺書の意味も込めて非常時に「備え」る「もしもノート」の作成、非常時・災害時の減災対策としての備蓄等の「備え」、そして「聖書通読」開始、此の世での死によって天に昇る前に必要な「悔い改め」の「心の備え」を行った。6年前は、僕にとっては「備え」の年であった。
 2013年、その直後の医療系最後のクリニック勤務後に区切りが付いた後、或る派遣の倉庫の仕事、大手K重工業への素人工としての派遣を挟んで、町工場の小さな下請け鉄工所に3年間勤めた。派遣2つとその鉄工所の勤務期間の合計は、「3年半」である。
 その鉄工所をクビになった翌年である昨年(2017年)、転々と鉄工所の職場を変え、そして、その年の11月からの7ヶ月間、また一旦出たものの、8~9月の間、此の度の長期休暇に入った事となる。その間、ただ「しんどい」からと寝てばかりいた訳では無い。実際、その最初の日、もう丁度1年を過ぎたが、「Preparation」(プレパレーション)を簡潔に纏め書いたものを、書斎の机の前に貼っている。「Preparation」とは、心構え、覚悟、準備、用意、標本、ミサの前の祈り、備えの日の事であるが、最も大事なのは、先程も述べた、此の世での死によって天に昇る前に必要な、「心の備え」となる「悔い改め」の事である。

 
 



 新約聖書・マタイの福音書4章17節
   この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 The New Testament・The Gospel of Matthew 4:17
   From that time, Jesus began to preach, and to say, “Repent! For the Kingdom of Heaven is at hand.”


 現在、「此の世の終末」が、近付いているのである。しかし、世間の中には、憲法改正反対等と「寝ぼけた」、「平和ボケ」した事を言っている者が多い。僕は長期休暇の間、決して寝ぼけてはいなかったのである。
 日本の政治だけでは無く、世界情勢、中でも中東地域は重要である。日本人にとっては「石油」の為に重要な地域ではあるが、「聖書」を読んで信仰する者、創造主である唯一の神様を信仰する者にとって、「心」の為に重要であり、中東は最重要地域と言って良い。そのパレスチナや現「フェイク・イスラエル」をはじめとした中東地域を中心とした国際情勢が、その長期休暇時にも、大きく、また回転も速く、変動し、流動して、揺れ動いていた。
 しかし、僕の要領の悪さや能力の無さから、その目紛るしく変転とする世界情勢について行けず、処理できず溜まる事となり、お金も失くなり「飯の種」が必要になってくると、この先の時間を取れない「不安」感や、捌く事が出来ない事からの焦りや苛立ちが生ずる事となり、「純粋無垢」となった「敏感期」も重なって、精神、心は「不安定」となった。またその間、「聖書」をはじめとした読書から離れていた事で、心の「アダプター」が外れていた事も、原因である。

 その世界情勢を追いながらの書き物や、プライバシーが曝け出される中で、「開き直り」、「裸」となり、自分を「無」にした上での「ヒント」の製作の後、次の長期休暇では欠けていたものに気付いていた為、読書による「落ち着き」を求めた。実際、その後、心は「安定」している。
 そして、より深く研究、検証、キュレーションするの為に購入しておいた本を読んだ。「空気の研究」は勿論の事、「旧ナチス・ドイツ軍によるユダヤ人ホロコーストは無かった」事、「本当のユダヤ人の約束の地はアラビア半島のアシール」、「本当の『血統的』ユダヤ人はパレスチナ人の中に多く含まれている」事、「現イスラエルは偽物で神様との契約を持たない」事、「本当のユダヤ人の起源と歴史」等についてである。

 長期休暇に入る前、またその後の近況に於いて、「マシンガン・トーク」の様な「症状」が出ていたが、これが、精神的に、一種の「パニック」に陥っていたのではないかと思う。僕の「不思議」さ故に、今まで周囲の目、周りの反応、世間の攻撃が、僕に対して行われて来た。それ故、実際、長期休暇の前には、精神的に疲れていた。普段マイペースではあるものの、それまで「鈍感力」も持ち合わせていたものの、長期休暇の前は、正直「しんどい」状態であった。しかし、今、考えてみると、その昨年の休暇前の一連の迫害は、僕の「開き直り」や、僕が「裸」になる事、「自分を無にする事」を、神様が引き出そうとしてのものであった気がする。

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第二4章8~10節
  私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
  迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

 The New Testament・The Second Epistle to the Corinthians 4:8~10
  We are pressed on every side, yet not crushed; perplexed, yet not to despair;
  pursued, yet not forsaken; struck down, yet not destroyed;
  always carrying in the body the putting to death of the Lord Jesus, that the life of Jesus may also be revealed in our body.


 そう、イエス様に祈り、そして繋がっている限り、四方八方から迫害されようとも滅ぶことは無く、神様であるイエス様でも苦しまれられたのだと、自分も同様にその苦しみ、辱めを身に負うべきだと考える必要があろう。そして、僕自身が、イエス様の自分を「無」にされた犠牲の姿を体現し、イエス様を「証」出来る様にならなければならないのであろう。

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一10章13節
  あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 10:13
  No temptation has taken you except what is common to man. God is faithful, who will not allow you to be tempted above what you are able, but will with the temptation also make the way of escape, that you may be able to endure it.


 神様に試され、練られ、そして磨かれていく。そうして、僕は、成熟していく。

 
 



 旧約聖書・詩篇4章1節
  私が呼ぶとき、答えてください。
  私の義なる神。
  あなたは、私の苦しみのときに
  ゆとりを与えてくださいました。
  私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

 The Old Testament・The Book of Psalms 4:1
  Answer me when I call,
  God of my righteousness.
  Give me relief from my distress.
  Have mercy on me, and hear my prayer.


 疲れ、「しんどい」、パニックに陥る程の正に窮状の時、神様は、そのピッタリのタイミングで、僕に「ゆとり」を与えて下さった。

 
 



 新約聖書・マタイの福音書 4章1~4節
  さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
  そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
  すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
  イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 The New Testament・The Gospel of Matthew 4:1~4
  Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.
  When he had fasted forty days and forty nights, he was hungry afterward.
  The tempter came and said to him, “If you are the Son of God, command that these stones become bread.”
  But he answered, “It is written, ‘Man shall not live by bread alone, but by every word that proceeds out of God’s mouth.’ ”


 僕は長期休暇時、収入が途絶えていたにも関わらず、一向に気にする事無く、書き物に集中し、熱中した。

 
 








 新約聖書・ヨハネの福音書4章5~15節
  それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
  そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
  ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
  弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
  そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
  イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
  彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
  あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
  イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
  しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
  女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 The New Testament・Gospel of John4:5~15
  So he came to a city of Samaria, called Sychar, near the parcel of ground that Jacob gave to his son, Joseph.
  Jacob’s well was there. Jesus therefore, being tired from his journey, sat down by the well. It was about the sixth hour.
  A woman of Samaria came to draw water. Jesus said to her, “Give me a drink.”
  For his disciples had gone away into the city to buy food.
  The Samaritan woman therefore said to him, “How is it that you, being a Jew, ask for a drink from me, a Samaritan woman?” (For Jews have no dealings with Samaritans.)
  Jesus answered her, “If you knew the gift of God, and who it is who says to you, ‘Give me a drink,’ you would have asked him, and he would have given you living water.”
  The woman said to him, “Sir, you have nothing to draw with, and the well is deep. So where do you get that living water?
  Are you greater than our father, Jacob, who gave us the well and drank from it himself, as did his children and his livestock?”
  Jesus answered her, “Everyone who drinks of this water will thirst again,
  but whoever drinks of the water that I will give him will never thirst again; but the water that I will give him will become in him a well of water springing up to eternal life.”
  The woman said to him, “Sir, give me this water, so that I don’t get thirsty, neither come all the way here to draw.”

 休暇の間、書き物に熱中していた時、それは正に、「水を得た魚」となっていた様な気がする(因みに、一部では、僕の事を「魚」と渾名(あだな、ニックネーム)する者が居る)。


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 マタイの福音書 6章25~34節
  だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
  空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
  あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
  なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
  きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
  そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
  こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
  だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
  だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 The Gospel of Matthew 6:25~34
  Therefore I tell you, don’t be anxious for your life: what you will eat, or what you will drink; nor yet for your body, what you will wear. Isn’t life more than food, and the body more than clothing?
  See the birds of the sky, that they don’t sow, neither do they reap, nor gather into barns. Your heavenly Father feeds them. Aren’t you of much more value than they?
 “Which of you by being anxious, can add one moment to his lifespan?
  Why are you anxious about clothing? Consider the lilies of the field, how they grow. They don’t toil, neither do they spin,
  yet I tell you that even Solomon in all his glory was not dressed like one of these.
  But if God so clothes the grass of the field, which today exists and tomorrow is thrown into the oven, won’t he much more clothe you, you of little faith?
  “Therefore don’t be anxious, saying, ‘What will we eat?’, ‘What will we drink?’ or, ‘With what will we be clothed?’
  For the Gentiles seek after all these things; for your heavenly Father knows that you need all these things.
  But seek first God’s Kingdom and his righteousness; and all these things will be given to you as well.
  Therefore don’t be anxious for tomorrow, for tomorrow will be anxious for itself. Each day’s own evil is sufficient.


 そう、「自分の意志」、「自分の思い」から「心配」したからと言って、自分の此の世に於ける寿命を永遠にする事は出来ない。高々、此の世での命は100年有るか無いかの僅かである。しかし反対に、自分を「無」にして「神第一」とし、神様の思いを第一とするならば、後の天での「永遠の命」が得られる。また、兎にも角にも此の世の生を全うしなければならない中で、自分の欲望を捨てた後、神様に祈り、願い、信仰する事で、全ては備えられる。

 
 



 新約聖書・ヨハネの福音書4章32~34節
  しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
  そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
  イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 The New Testament・The Gospel of John
  But he said to them, “I have food to eat that you don’t know about.”
  The disciples therefore said to one another, “Has anyone brought him something to eat?”
  Jesus said to them, “My food is to do the will of him who sent me and to accomplish his work.


 休暇中、「自分の務め」として考える事に集中し、熱中していた時、僕は「不思議」と、余り空腹感を感じなかったものだった。

 
 



 新約聖書・テモテへの手紙 第二4章5~7節
 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 The New Testament・The Second Epistle to Timothy 4:5~7
  But you be sober in all things, suffer hardship, do the work of an evangelist, and fulfill your ministry.
  For I am already being offered, and the time of my departure has come.
  I have fought the good fight. I have finished the course. I have kept the faith.


 以下、2018年10月1日付、神戸新聞朝刊「からだ 病それから 働き盛りこそ長い休みを 人生100年『60代はゴールではない』 宗教学者 島田裕巳さん(64)甲状腺機能亢進症」より
  「…(前略)…原因は分かりません。ただ、大きなストレスはありました。一連のオウム真理教事件が起きた際、教団を擁護したと激しいバッシングを受け、’95年11月に大学を辞めました。教授になったばかりでした。その後仕事はなく、確定申告額は年間150万円とか180万円で入院前はどん底状態。貯金もなくなりました。…(中略)…
  ……今は元気です。体と気力は病気の前後で全然違います。もし大学にいたら、引き受けざることが多過ぎて死んでいたかもしれない。何が幸いするか分からない。
  現在は年間10冊ぐらい本を出し、次の構想も浮かんできます。10年近く休んだことで、余力が生まれたためでしょう。
  そう考えると、長い休みが必要なのではないかと。現代は60代がゴールではなく、もっと働かないといけない。人生100年の時代、働き盛りこそ。長期に休む必要がある。40代、50代で3、4年休んでも、どうってことないですよ。…(中略)…
  ……人生を全うしたという点で、死は悲しむことではないと考えていますから。ただ、この年齢では、まだ宗教学者としては若くて重みが足りない。年を取れば取るほど、仕事が充実する世界なのです。」
 (以上、2018年10月1日付、神戸新聞朝刊「からだ 病それから 働き盛りこそ長い休みを 人生100年『60代はゴールではない』 宗教学者 島田裕巳さん(64)甲状腺機能亢進症」より)

 島田氏も、「自分の意志」で休みだした訳では無い。恐らく、「神様によって」休暇に導かれたのではないだろうか。そして、いい意味での「逆効果」として、却って、良い結果に繋がっている。正に、僕と同じ様であるし、そして更に同じく「世間の価値観の反対」である様に感じる。
 僕も社会に出て以来、今まで迫害、バッシング、挑発、嘲笑、愚弄、差別等を受け、除け者にされて来た。しかしそれらによって、却って、自分自身を高める事に繋がって来た。正に「試練」、練られて磨かれて来た様に思う。勿論それは表面的なものでは無く、内面、精神面、心に於いての事である。周囲からの迫害、攻撃によって、元々の僕のセンス、反骨、気骨、頑固、狷介、臍曲がり、捻くれ、天邪鬼、非常識な性格が花開き、それが現在、活きている。除け者にされ「孤独」になる事によって、自ら勉強し、自ら捉え、自らが考え、自ら判断し、自らが行動するという事に繋がった。また、群衆に混ざらない事によって、流されずに地に足を付け、自分の立場で、自分のペースで、物事を冷静に客観視する事が出来ている。そして、一人で居る事は、心静かに、落ち着いて、自分の内面を見、神様に祈り、神様と直接向き合う事が出来る。「孤独」は心を成熟させるものであり、世間にとっては「逆効果」となっているのである。

 神様によって導かれて来た、僕のここまでの人生。「自分の意志」で行う事は、尽く失敗して来た。しかし、その都度、修正され、立て直され、復活、再興へと導かれた。それと同時に、僕の人生、過去、現在そして未来も含めて、全て「神様の御計画」の内に存在している事を思う。神様から「不思議」な「恵み」が与えられ(1年以上前までは、我慢を伴う「自分の十字架」と捉えていた)、試練が与えられる中、僕に与えられているその「不思議な恵み」としての「タラント」(才能)を活かす様に方向付けられて来た様に思う。「開き直れ!」、「裸になれ!」、「自分を失くせ!」と……。
 そうして本当に開き直り、裸になり、自分の欲望を捨て、自分を失くした上で神様と繋がった時、本当の強さが得られるのではないだろうか。

 
 



 コリント人への手紙 第二12章9~10節
  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
  ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 The Second Epistle to the Corinthians 12:9~10
  He has said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Most gladly therefore I will rather glory in my weaknesses, that the power of Christ may rest on me.
  Therefore I take pleasure in weaknesses, in injuries, in necessities, in persecutions, and in distresses, for Christ’s sake. For when I am weak, then am I strong.

 開き直り、裸になり、自分の欲望を捨て、自分を失くすという事は、「自分の弱さ」を曝け出すという事である。世俗に於いては、地位、名誉、学歴、肩書、所有、財産、能力、実績、ファッション等々……、それらの「虚飾」で覆う事によって、自分の素や本質、正体を隠し、秘密にして、強く見せているに過ぎない。此の世に於いて幾ら強く見せたところで、人間はいずれ死ぬ。人間は弱い存在であるので、やがて老弱、病弱となり、たった100年有るか無いかの短い寿命で死んでしまうのである。
 しかし、神様への信仰心を持ち、自分を失くした上での「イエス・キリストと『直接』繋がる強さ」によって、心の「安定」と「静寂」という人間の強さを獲得し、更に、昇天する前の心の準備としての「悔い改め」を行う事によって、「永遠の命」という真の強さを得る事が出来る。
 現在は「終末期」に在る。「神第一」、「悔い改め」を胸に刻む。

 
 



 詩篇147章3節
  主は心の打ち砕かれた者をいやし
  彼らの傷を包む。

 The Book of Psalms 147:3
  He heals the broken in heart,
  and binds up their wounds.

 
 



 コリント人への手紙 第一15章10節
  ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 The First Epistle to the Corinthians 15:10
  But by the grace of God I am what I am. His grace which was given to me was not futile, but I worked more than all of them; yet not I, but the grace of God which was with me.

 
 



 旧約聖書・歴代誌 第二36章16節
  ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

 The Old Testament・The Second Books of Chronicles 36:16
  but they mocked the messengers of God, and despised his words, and scoffed at his prophets, until Yahweh’s wrath arose against his people, until there was no remedy.


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  ・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド

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  ・2013/02/10付:「『生命倫理』について・・・(5)『運命』を素直に受け入れ、大きく委ねる」
  ・2013/04/13付:「俗事における『無用性』は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」
  ・2014/06/08付:「お金・事業より優る『思想』、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる『生涯』・・・『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読んで」
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  ・2015/08/23付:「失敗、ユニーク、ユーモア・・・『道化師の孤独』を抱えた『聖なる無用性』:『寅さんとイエス』を読む」
  ・2016/04/10付:「独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、『自分を取り戻す』」
  ・2016/05/08付:「聖霊存する不動の土台が築かれた心により失敗・ユニークが才能・特性に変貌する・・・『聖書力』を読む」
  ・2017/05/05付:「『ひきこもり』は良い事である・・・精神的修練と自立、心の成熟、自己点検、内省、瞑想、普通であろうとする間違い、アイデンティティにこそ値打ち、自分と公義とのバランス、そして根本規範」
  ・2017/07/22付:「『陰徳』により人からの評価・承認を得られずとも後の永遠と創造主の守護を得る・・・過去を想起し、自分を知り、現在・未来と運命・役割を考える」
  ・2017/07/23付:「高校中退後の30年間、友達・つながりが全く無かったが、こうして今ちゃんと生きている・・・世間・マスコミの論拠崩壊、独立自尊の精神、マイペース、へそ曲がり、リラックス、そして行雲流水、成るように成る」
  ・2017/08/11付:「『カラスの恩返し?』、ペンギンの様に飛躍せず、天の孔雀ならぬ天の邪鬼な、酉年生まれの私・・・『けっして覗かないでください』と、大した才能も無く、日々物書き」
  ・2018/01/09付:「十日戎に見る日本人・・・地上での幸福のみを願う自分の欲望を神とした祈り、渇く水を追い求める人々、敬虔な信者は自分の事を願わず神に感謝し神を賛美、人それぞれのタラントに応じた務め」
  ・2018/02/27付:「『隠遁者』で『世捨て人』、『道化師』の私からの一言、『麻生さん、ひょっとして、マンガが好きって「ドラえもん」の事だったのですか?』」
  ・2018/02/27付:「『ボタン一つ』の『生命倫理』、核戦争、仕事、技士さん、そして透析医療と導入前『保存期腎不全対策』に見る病院の『利益相反』行為」
  ・2018/03/19付:「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God」

 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)

  ・ウィキペディア:「証 (キリスト教)」

 参考文献
  ・2018/10/01付・神戸新聞朝刊:「からだ 病それから 働き盛りこそ長い休みを 人生100年『60代はゴールではない』 宗教学者 島田裕巳さん(64)甲状腺機能亢進症」
 
 「 My Testimony/僕の証<7> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
  【1】 【2】


My Testimony/僕の証<7-1/2>:自分を捨てた神第一・神実現・神の価値観、聖書の3年半/God First, God Realization, God's sense of value

2019-02-01 14:24:43 | エッセイ・コラム
※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<7>
    ~自分を捨てた神第一・神実現・神の価値観
       God First, God Realization, God's sense of value
     ゆとり、休養、「転機」が与えられた
     開き直り、裸になる事、自分を失くす事 
     「神第一」で得られる心の安定と静寂
     終末期に於ける「悔い改め」による「永遠の命」
     世間の「逆効果」



 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 
 



 旧約聖書・詩篇4章1節
  私が呼ぶとき、答えてください。
  私の義なる神。
  あなたは、私の苦しみのときに
  ゆとりを与えてくださいました。
  私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

 The Old Testament・The Book of Psalms 4:1
  Answer me when I call,
  God of my righteousness.
  Give me relief from my distress.
  Have mercy on me, and hear my prayer.

 
 



 新約聖書・ヨハネの福音書4章32~34節
  しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
  そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
  イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 The New Testament・The Gospel of John
  But he said to them, “I have food to eat that you don’t know about.”
  The disciples therefore said to one another, “Has anyone brought him something to eat?”
  Jesus said to them, “My food is to do the will of him who sent me and to accomplish his work.

 
 





 新約聖書・コリント人への手紙 第一6章12~20節
   すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。
  食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
  神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
  あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
  遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
  しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
  不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
  あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
  あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 6:12~20
   “All things are lawful for me,” but not all things are expedient. “All things are lawful for me,” but I will not be brought under the power of anything.
  “Foods for the belly, and the belly for foods,” but God will bring to nothing both it and them. But the body is not for sexual immorality, but for the Lord; and the Lord for the body.
  Now God raised up the Lord, and will also raise us up by his power.
  Don’t you know that your bodies are members of Christ? Shall I then take the members of Christ and make them members of a prostitute? May it never be!
  Or don’t you know that he who is joined to a prostitute is one body? For, “The two”, he says, “will become one flesh.”
  But he who is joined to the Lord is one spirit.
  Flee sexual immorality! “Every sin that a man does is outside the body,” but he who commits sexual immorality sins against his own body.
  Or don’t you know that your body is a temple of the Holy Spirit who is in you, whom you have from God? You are not your own,
  for you were bought with a price. Therefore glorify God in your body and in your spirit, which are God’s.


 僕は、此の度の、この記事までの「My Testimony/僕の証<1>~<10>の一連の記事を、最初から「僕の証」をするつもりで書いたのでは無かった。僕の近況、僕の最近の精神と心に於ける、変化や不安定さについて、先ず分析し、検証し、そして整理して纏める事によって、先に僕自身の足元、心を固めて「安定」にしておこうと思った。
 もし「不安定」なままであれば、此の後に行っていく様々な事に於いて、「集中力」等の力を発揮する事は出来ず、結果には繋がらないと思った。
 そしてその後に、今に至って明確化した僕の「目的」、つまり、「歴史修正」や、「マスコミ修正」、「世間の常識・空気・価値観の破壊」を目指す為に、書き物等を通して行っていくつもりであった。そして勿論、「神様の御計画」を常に意識し、従って行きたい。僕のその「目的」が、「神様の御計画」の内に在るのかどうか、「神様の御心」に適っているのかどうかは正直解らないが、僕としては、信じて行っていきたい。
 そして、このシリーズの記事を書いていく内に、僕は「証」をしている事に気付いた。

 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、
 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」
  (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 正に、僕が「証」をしている事が解る。その借用した説明文に、ピッタリである。しかし、飽くまでも、僕は「自分の意志」として「証」をした訳では無い。この「タイミング」と言い、全くの「偶然」なのである。実際、過去に少し通っていたプロテスタントの教会で耳にしていた「証」についての意味を、今まで知らなかったのであるから。また、確か、僕が洗礼を受けたカトリックの方には、「証」をする事は無いのではないかと思う。
 だから、今まで出した記事の中にも、実際は「証」に相当する内容の記事が存在している。でも、その書いた当時は、それを「証」するとして書いた訳では無い。
 世間一般的な価値観として、「自己実現」が在る。この「自己実現」の価値観を良しとして、基準にして判断すると、「偶然」に起こった事は価値が無い様に見え、評価や承認に値するものとしては見ない。世間的には、「自力」で何でも解決出来る人は、頼りがいが有り、頼もしく見えているであろうし、認め、褒めているであろう。勿論、他人に頼ってばかりでは、頼りないし、自立出来ていないので、良くない事である。
 しかし、「神実現」の価値観に立つならば、「偶然」に起こった事こそ値打ちが有ると思え、そして、その「神様の業(わざ)」に感謝し、神様を誉め讃える事となる。
 その反対に、世間的な価値観としての「自己実現」を持っていると、自分に感謝し、自分を誉め讃え、自分を賛美する事となってしまう。その結果、自分には能力が有るとか、自分は何でも出来る、自分は偉い、自分は賢い等と思う様になり、そして利己(エゴ)は強くなり、「傲慢」へと繋がってしまう。「自分の意志」の根底が「欲望」となっている場合が多く、「目標」や「目的」等も「自分の欲望」が基礎となっている場合が多い。
 僕の洗礼名である「アッシジのフランチェスコ」の様に、完全に開き直って、「自分を全き無」にする事が最も「神様の御心」に適う事である事は理解しているものの、理想郷では無い此の世の中を渡り歩く中で様々な「渡世術」、「手段」を得ながら、折り合いを付けながらとなってしまうので、なかなか難しい。

 僕は振り返ると、「自分の意志」で行わなかった事、或いは、その時は「自分の意志」に反する事が多々有ったのであるが、結果的に、特に後者の方、「自分の意志に反する事」が好結果に繋がっている事が多い。この事から言える事は、「自分の意志」で間違った方向に進むのでは無く、「神様の御計画」の下、「神様の導き」によって「修正」されたのではないかと思える。この事からも、僕は本当に、「不思議」であると思える。

 「高校中退」は、その内の一つである。一応進学校であったので、卒業後は大学進学を考えていた。高校生の頃は社会、職業、世の中の事はまるで解っておらず、何に成りたいという明確な希望も無く、ただ漠然と大学……としてしか頭に無かった。そして、そのくせ少しも勉強せず、部活動を中途で辞めて以降は、高校生活全般に於いてやる気は無くなっていった。しかし、その「高校中退」によって、自分探しをし、自己実現意欲は高まり、自分の元々持っていたセンスもあろうが、自立意識、独立意識、自尊心は、却って高まっていったのであった。
 そして、既に「独立自尊」の精神を獲得していた上で、22歳の時に、町工場の小さな下請けの鉄工所に見習いに入ったのである。もし、「普通に」、大学へ進学していたならば、僕のその「独立自尊」の精神や、「反骨精神」、頑固、狷介、臍曲がり、捻くれ者、天邪鬼な性格のセンスは開花したであろうか?。
 その、独立精神を持ち、反骨的に、世間と距離を置き、客観視し、疑い、自分の信じる事を堅く守り、捻くれたものの見方が出来る様に成ったのは、正に「高校中退」の経験が有ったからである。そして、もし、あのまま大学へ進学してしまっていたならば、組織の中でそれらのセンスは開花せず、「自分らしさ」、「自分の本質」、「自分の正体」は出て来なかったのではないだろうか。そして、その生き方、ものの見方や捉え方、判断、考え方等が、現在、このブログの書き物等に活きているのである。

 阪神淡路大震災が「起こされた」1995年の年は、僕が26歳となった年である。「起こされた」としているが、果たして、神様が起こされたのか、それともユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンが使った「人工地震兵器」等でおこされたのであろうか?。2011年の福島原発「爆破」を含む東日本大震災と同様に、後者の可能性が高い。それは兎も角、その年(1995年)の夏、僕は新築マンションの購入をし、翌年入居した。しかし、此の件も、そのタイミングと言い、誠に「不思議」なのである。
 僕は鉄工所に見習いに入る直前から、その仕事で将来独立して商売するという「目標」を持っていた為、コツコツ貯金していた。鉄工所に入って「3年半」後、阪神淡路大震災が起こされた。後で挙げるが、この「3年半」は、意味が有る。
 そしてその後、郵便ポストに広告が入っていた。新築マンションの広告である。それは、新聞の折込広告では無い。当時、僕は賃貸ハイツで、独り暮らしをしていた。そして、それまで購入について全く考えていなかったにも関わらず、更に貯金していたのは独立して商売する為であったにも関わらず、その広告をきっかけとして、愚かにも、安易に手付けし、2千万円もの借金(住宅ローン)をしてまでして、新築マンションを購入してしまったのであった。今にして見れば、誠に馬鹿で、愚かな事をしたと思える事である。
 しかし現在、その事をよく考えてみると、次の様な事が言えると思う。阪神淡路大震災の時に、橋も道路もビルも家屋も、何もかもが壊れ、何もかもが失くなった様子を、テレビや新聞だけでは無く、現地まで行って目にした。そして、今と比べても大分低い僕の当時の理解力や教養レベルに於いてさえ、その光景や出来事から影響を受けた。その後暫く実家の近くで少年時に受洗したカトリック教会に通い、家族を想い実家にも幾らか帰った。しかし、未だまだ未熟であったので、中途半端であった。その神戸が「無」になった事と同様に、僕自身も「無」にさせられようとしたのではないだろうか?。
 要するに、マンション購入が「自分の意志」によるのでは無く、「神様の御計画」の中に入っていたのではないだろうか?。貯金のお金を吐き出させた上で僕を「無」にする為に……。阪神淡路大震災の直後のタイミングで、且つ、実際よく考えないで、前もっては全く考えずに購入したのであるから。そして、その約10年後、医療系専門学校に入学するに当たり、マンションは売却した。その売却によって戻ったお金は、一銭も無い「0(ゼロ)」である。ローンを全額返して完済しただけである。つまり、トントンで、その物件を売りに出していたのであった。また、売れた事で助かったとも言える。
 次に述べる「怪我」の後、3LDKのマンションに独りで住む事も虚しく、また意味の無い様にも思え、学校に通学する為に金銭面が苦しくなるという理由も有ったものの、その「意味が無い」、「虚しさ」、また「捨てる事に意味」を感じ、精神面に於ける「無の豊かさ」を感じたと言う理由から、売却したのであった。そして、「全てを捨てる」の方向に向けて、神様が導かれたのではないかと思える。

 また、今から約16年程前には、外傷性下行大動脈損傷をはじめとした全身打撲の重症の怪我を負い、九死に一生を得た。大動脈は、3層有る内の内膜1層のみが繋がっていた状態で、しかも風船の様に膨らみ、いつ破れてもおかしくない状態であった。もし破れていれば、出血多量で死んでいた。その後、「自分の意志」で、「大検」(大学入学資格検定、現・高等学校卒業程度認定試験)の資格を取得し、医療系専門学校に通学した。しかし一方で、その学校に通う上で、僕は「開き直り」の姿勢と精神を得ていた。
 怪我から進学までの2年間の間、当時住んでいた近くのプロテスタント教会(日本同盟基督教団)に通った。其処で、現在手にして読んでいる「新改訳聖書」を得た。
 その学校に入学する直前で引っ越しする直前、「不思議」な事が起きた。荷造りしている最中、それまで机の上に置いていた、イエス・キリストを表した赤ん坊を抱いたマリアの像が割れたのである。たしか、畳の上、しかも畳の上に胡座をかいて座っていて手にしていた所で落としたのであるから、低い位置からの落下でしか無い。それにも関わらず、割れたのである。果たしてこれは、何を意味するのであろうか?。
 カトリックでは行っているものの、プロテスタント教会は、「偶像崇拝」をしない。旧約聖書「出エジプト記」でも、してはいけない事が、「十戒」の内の一つとして書かれている。僕は当時、プロテスタント教会に通ったものの、未だ理解出来ていなかった。その為、学校入学前のタイミングで「縁起が悪い」等と思いながら、接着剤で修理し、引越し先の現在の自宅に暫くの間、数年前まで飾っていた。この「不思議」な出来事も、「神様のお導き」であった様に思うのである。僕の目を、マリアはただの人間でしかなく、神様は創造主である天の父と子なるイエス・キリストと聖霊の「三位一体」の唯一であるという事へと向けさせ、悟りを得るようにと……。
 しかし、入学して「3年半」の後、臨地実習でつまづき、再チャレンジの場が与えられて卒業し、国家資格も取得したものの、医院やクリニックでの職場は長続きせず、どれも数ヶ月で退職となった。
 「聖書」では、イエス・キリストの「公生涯」が「3年半」、「荒らす憎むべき者」の支配が「3年半」等と、「3年半」は意味が有る。さて、僕はどちらの「3年半」に相当するのだろうか?……。
 その医療系を志望したのも、「自分の意志」である。勿論、それまでの事と比べて大分前もって考えはした。しかし実際、入学する前の年には、既にどちらでも良い、試験で落ちても構わない、という気持ちには成っていた。要するに、入学する前の年に既に、「鉄工」の仕事でも間違いでは無い事を理解していたのである。しかし、運が良かったのか悪かったのか、否、元い、神様のお導きとして、或る大阪の学校に引っ掛かってしまったのである(否、元い、これも「導かれた」と変えた方が良いか?)。そして、「折角だから」という理由で入学したのであった。
 結局、恰も「特攻隊」の如く(ちょっと良すぎて僕と釣り合わない例えではないのか?)に異業種に飛び込んで「失敗」したのであるが(但し、「特攻隊」は失敗では無く、「一粒の麦」として犠牲になられ、多くを遺すと共に、後世に於ける実りに繋げられた)、この事も、僕を「全き無」にする為に、「全てを捨てる」方向へ導かれた一環ではなかったであろうか?
 医療系への「欲望」は今に至っては全く無いが、これもそもそも、「自分の意志」で捨て始めた訳では無く、クビになった事がきっかけである。そして、もし、そのまま順調にその関係を職場にしていたならば、医療の裏側を知る事は無く、健康診断や職場検診、人間ドック、脳ドック、癌検診、ワクチン、出生前診断、体外受精、代理出産等の予防医療や、抗癌剤、薬等々……の過剰医療、不要医療、医原病等々……を賛美してしまっていたかもしれないのである。そう考えると、恐ろしい事である。僕が、その様な医療ビジネスの利権関係や偽善に手を貸す事になっていたのではないかと……。

 本ブログを始めてから、丸6年が経った。丁度始めた直後、……(「My Testimony/僕の証<7-2/2>」へ続く)

 「 My Testimony/僕の証<7> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
  【1】 【2】

My Testimony/僕の証<6>:キリストと直接繋がる安定、なぜ僕は不思議なのか?/Connection with Christ make stability, Why am I wonder?

2019-02-01 13:01:20 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<6>
    ~心の安定と集中力
     自分や人の力には頼らない「イエス・キリストと『直接』繋がる強さ」
     なぜ僕は「不思議」であるのか?
     Connection with Jesus Christ makes stability at my heart.
     Why am I wonder ?


 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)


 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一15章10節
  ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 15:10
  But by the grace of God I am what I am. His grace which was given to me was not futile, but I worked more than all of them; yet not I, but the grace of God which was with me.


 神様の御計画の内に、「神様の恵み」によって、僕が創られた事を信じて……。
 僕の「不思議」な事、それは、僕自身が行っているのでは無く、飽くまでも、神様が行っている事、「神様の恵み」である事を信じて……。
 神様と繋がっていれば、僕の行い、務めは、決して無駄にはならない事を信じて……。

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙1章5~8節
   あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
  ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
  そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
  そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

 The New Testament・The Epistle of James 1:5~8
   But if any of you lacks wisdom, let him ask of God, who gives to all liberally and without reproach, and it will be given to him.
  But let him ask in faith, without any doubting, for he who doubts is like a wave of the sea, driven by the wind and tossed.
  For that man shouldn’t think that he will receive anything from the Lord.
  He is a double-minded man, unstable in all his ways.


 本年(2018年)9月8日、アメリカ・ニューヨークで行われたテニスの全米オープン女子シングルスで、第20シードの大坂なおみ選手(20、日清食品)が、決勝で元世界ランク1位のセリーナ・ウィリアムズ選手(36、米国)を破り初優勝した。

 大坂選手専属コーチのドイツ人、サーシャ・バイン氏(33)
  「なおみを本当に誇りに思う。動き続けることが大事で、フィジカル面でも相手より良かった。(相手の抗議などにも)集中力を保って戦ってくれたことがうれしい」

 バイン氏は昨年(2017年)、専属コーチ就任し、今まで手がけた選手がいずれも世界1位にランクされている。自身の持つ独特の哲学と、工夫した指導法、選手との信頼関係から、指導した選手達を大幅にレベル・アップさせ、成長させた。
  「できるだけ楽しく、ポジティブな雰囲気を作ろうと思っている」
  「選手は一人一人違い、成功の形式はない。ベストを引き出すにはどうすればいいかを個々に考える」

 大坂選手は、飽き性で、「練習嫌いで、引っ込み思案の性格から物事をネガティブにとらえるところもあった」のであるが、「陽気なバイン氏」の許、信頼を寄せて言う。
  「ハッピーでポジティブな人の近くにいることが、いい影響になっている」
  「本当に人格者」
  「練習がすごく楽しくなった」

 ハイチ系アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフで、「180センチの長身を生かしたパワフルなテニス」で、「時速200キロクラスのサーブを持ちながら、当時世界70位前後に停滞していた」のであるが、バイン氏が専属コーチに就任後、「力に頼らないプレーを会得」し、「波があった精神面も安定」し、「総合力が上がり」、此の度の大会に於いては「落ち着いた戦いぶり」を発揮した。
 (以上、参考:2018年9月10日付、サンケイスポーツ「大坂なおみ、躍進の裏に敏腕コーチ!昨年12月就任のバイン氏/全米テニス」、及び、2018年9月11日付、神戸新聞朝刊「人 テニスの全米オープン女子シングルスで初優勝した大坂なおみさん」)

 丁度、僕が(外へ出てする仕事の)長期休暇後、一旦「飯の種」を得る為に、或る会社(鉄工所)に入って2ヶ月だけ働いた後、再び引きこもる状態で休暇、及び、また「生活の糧」を得る為の職場探しをしていた最中に、このニュースが入って来た。
 別記事で述べた通り、その長期休暇、否、それより前から、僕は精神面が不安定となり、それと並行する形で職場も長続きせず、転々と渡り歩く事となった。実際数えてみると、2年前(2016年)の末に3年間勤めた或る鉄工所をクビになった後、1日だけ出勤した所も含めて、本年(2018年)10月中旬から勤めている現在の鉄工所までの約2年間の間に、10ヶ所(現在の所を含めると11ヶ所)をも転々と職場を変えた事となっている。そして、その内の1ヶ所だけは派遣社員として大手の或る食品会社の工場に配属されたのであるが、それ以外は全て鉄工所で、且つ直接雇用である。
 その事からも解る様に、例え僕自身に今までの実績、経験があろうとも、また比較的、他の職種と比べると僕が得意に感じている職種であるにも関わらず、長続きしていない事が解る。尤も、職場には仕事そのものだけでは無く、人間関係を含めた職場環境や福利厚生、その他、自分の気になる事が存在している。そして、自分に完全にピッタリ合う様な職場等は無いものと思う。
 更に、僕は鉄工所以外の他の職種、コンビニや医療等もアルバイト等を通して経験して来たが、そのどれもが同様に続いていない。それ故、「どの職種を行ったら長続きする」、等と言う事が出来ない事が解る。
 その2年間の間は、直接雇用であっても長続きしなかったので、社会保険を掛ける前の段階、試用期間の間に、自己都合で辞めた、或いはクビになって辞めた事となっている。また、クビになった事も含めて、それぞれに色々な理由は有った。僕自身のわがまま的な希望によるものも含まれる。しかし、その根底に存在したのは、僕の「精神面の不安定さ」である。
 現在勤めている鉄工所は、個人事業の為に社会保険は無い。法人登録していない場合、従業員が5人未満の場合は、健康保険と厚生年金の加入義務は無い。その為、その鉄工所に入った直後は将来が「不安」になり、それによって心が「不安定」となって、「また職場を変えようか」、とも考えた。また、立ち上げたばかりの鉄工所という事からも「不安」は有る。しかし一方で、今から約20数年前の僕が未だ若い頃に、同じ鉄工所の職場での同僚であり鉄工界の先輩でもある方が存在してくれている事もあって、ここの所の精神面の「不安定」さが殆ど出ていない。その方とは、数年前まで船釣りに、年に数回、同行してもいた。
 日本年金機構のインターネット・サイトに於いて、自分が将来に於いて受け取る事の出来る年金額の試算を行う事が出来る。現在までの掛け金支払額の明細も表示され、現在までに支払った金額を基に計算される。また、僕自身が今後に予測される収入も併せて他のサイトを利用して計算してみた所、現在の銀行自動振替額等を含めた生活費を照らし合わせてみると、将来に於いては今より生活費は減らせると思いながらも、とてもではないが足りないのではないかと、「不安」に襲われる。国民年金だけと厚生年金では、将来の受取額が違ってくるのは勿論の事である。
 また現在、政府は「70歳まで雇用」を審議し、法案として国会に提出しようとしている。医療や介護、福祉等の社会保障費の財源が乏しく、消費税や所得税、法人税等の引き上げだけではなく、現役世代の延長により所得税を払ってもらう期間を延長し、消費、及び内需の拡大、働く事により健康を維持して医療機関や福祉施設への依存度の減少等を見込んだものであろう。日本国の将来も、赤字国債の発行が続き、財政赤字の膨張、そして今後起きうる(否、必ず起こる)「恐慌」の為に、僕は「不安」に感じている。
 ここまでは全て、「お金」に関わる話、自分が食べていく為の事に関わるものである。

 
 






 新約聖書・マタイの福音書 6章25~34節
  だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
  空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
  あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
  なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
  きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
  そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
  こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
  だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
  だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 6:25~34
  Therefore I tell you, don’t be anxious for your life: what you will eat, or what you will drink; nor yet for your body, what you will wear. Isn’t life more than food, and the body more than clothing?
  See the birds of the sky, that they don’t sow, neither do they reap, nor gather into barns. Your heavenly Father feeds them. Aren’t you of much more value than they?
 “Which of you by being anxious, can add one moment to his lifespan?
  Why are you anxious about clothing? Consider the lilies of the field, how they grow. They don’t toil, neither do they spin,
  yet I tell you that even Solomon in all his glory was not dressed like one of these.
  But if God so clothes the grass of the field, which today exists and tomorrow is thrown into the oven, won’t he much more clothe you, you of little faith?
  “Therefore don’t be anxious, saying, ‘What will we eat?’, ‘What will we drink?’ or, ‘With what will we be clothed?’
  For the Gentiles seek after all these things; for your heavenly Father knows that you need all these things.
  But seek first God’s Kingdom and his righteousness; and all these things will be given to you as well.
  Therefore don’t be anxious for tomorrow, for tomorrow will be anxious for itself. Each day’s own evil is sufficient.


 そう、このイエス・キリストの言う通り、生活する為のお金、食べ物等は、「神第一」とする信仰心を持つ事によって、神様が「備えて」下さるのである。イエス様を信仰する事で、「不安」は失くなり、その分、心は「安定」するのである。「自分第一」、或いは「他人第一」としていると、自分の欲望、他人の欲望から生じるストレスが降りかかり、心は何時までも「安定」しない。
 
 神様に委ね、「心が安定」すると、ある程度の事は我慢する事が出来る様になり、許容範囲が広がり、忍耐力も増す。故に、この2年間の様な職場を転々とする事も、失くなるであろう。そして、職場が「安定」する事によって、僕にとっては無駄な時間潰し、意味の無い事でしか思えない職探しをする必要も無く、またその事について悩んだりする必要性も失くなる事で、心が動揺する「不安」とはならず、時間も効率化する事が出来て、僕が今に至って抱く様になった「目的」に向けても、「集中力」を発揮して取りかかる事が出来る様になるであろう。今に至り、僕にとって外の仕事は「飯の種」、「手段」であって、それは決して「目的」では無い。「手段」と「目的」とは、異なるものである。

 僕は、読書をする時は勿論、書き物をする時も、「心の安定」を必要とする。世の中のライターの中には、ある程度、気持ちに火が付いた方が良いと思う方々も多い事であろう。しかし僕の場合は、黙想、「沈思黙考」した後の「心の落ち着き」を持ってでしか、書く事は出来ない。もしも気持ちが高ぶって「感情的」になっている時に書くならば、言葉の繋がりは無く、順序や秩序の無いものとなり、言葉がバラバラの単語のままで、文章にはならず、整理して纏める事が出来ず、決して「論理的」なものとはならないであろう。「感情」と「思想」とは異なり、「思想」は「理論」、「哲学」へと繋がるのである。「心の安定」によって、「感情的」にはならず、「思想」を働かせる事に繋がる。僕は、「思想」を持って、ものを書きたい。

 読書の場合は、それを行う事からも「心の安定」に繋がる。その他、「心を落ち着かせる」方法は、沢山在る。世間一般的な方法として、運動、体操、ヨガ、食事、入浴、自然、趣味、音楽、座禅、五感促進、血行促進等と色々と在る。しかし、精神科の医療や薬には頼ってはならないものと、僕は強く考える。精神科医療には、エビデンス(科学的根拠)は存在せず、明確な定義も存在しないのである。実際、精神科医療に掛かっている「不安定」な方々は、薬を処方される事や、医者への気持ちの上での依存度が高まる事によって、慢性化したり、悪化している。薬は「毒」であるし、耐性化して効かなくなっていく。

 僕自身、今までずっと、精神的に「不安」であった訳では無い。別の記事に書いた様に、成熟段階、また、そのステップが螺旋状の様に繋がり上昇する「無限のスパイラル」の中で、再度、或いは何回かの「敏感期」に入る。僕は、最近から現在に至るまで、そのセンシティブな時期、デリケートな状態に入っている様に思える。それ故、ここ最近の「不安定さ」が、その感受性の高さ故に、繊細さ故に、壊れ易さ故から、生じて来た様に思う。
 その「敏感期」は、誰でも生まれて間もない時期に経験している。その幼児期の「純粋無垢」な心が、俗世間の中での生活を通して曇り汚れてしまい、感受性も鈍くなる。感受性が鈍ると「鈍感力」が発揮される為、人の気持ちに共感出来ず、同情出来ず、その汚れた心から湧いてくる欲望、利己(エゴ)ばかりになる。しかし一方で、「鈍感力」を持つ事で、些細な悪口、陰口を気に留めず、環境に左右され難くなるので、「集中力」が増すメリットも有る。
 僕は何年か前までは、その「鈍感力」を身に着けていた。それは、僕の心が汚かったからという事が言えるが、一方では、此の世の中を渡っていく為の「渡世術」として、役にも立っていた。僕がここまで友達が居なかったにも関わらず、社会に出てからの約30年も生きて来る事が出来、また職場を転々としながらも生きて来れたのは、その「鈍感力」を持っていた事も、理由の内の一つである。しかしだからといって、ヤクザの様に、「凌ぎ」の為に、何でもやっていい訳では無い。
 また、元々、僕は「マイ・ペース」である。よって、周囲には流され難い。また、前述の約30年間に「転々」としながらも、「成るように成る」と、「行雲流水」の如くの精神をも持ち合わせていた事も、理由の内の一つである。僕は、その様な「楽観」的な心も持ち続けて来た為、心は余り動揺せず、比較的「安定」して来たものと思う。世間の方々の多くは、辞職や転職をする事にも大きな勇気を必要とするぐらい、それらについて大きな試練を感じているのではないだろうか。僕にとって辞職や転職は、大した事では無いのである。
 更に高校中退して社会に出だした事から、元々から地位や名誉、肩書、学歴等を持たない為、それらにしがみつき、それらを守る必要も無い。それらに対する執着が無い事で、「不安」が生じない。またその他、今となっては所有、財産は比較的少ないので、それらからの「不安」も生じ難い。友達という所有も、社会に出て以降は「無い」ので、今更何も「不安」に思わない。

「敏感期」で心がリセットされて清浄され、より次元高く成熟していく。世間一般的にも、心身が「不安定」となって体調不良を訴える「更年期」に、それが当てはまる方々は多いと思う。「更年期」とは、人間のバージョン・アップを行う時である。

 結局、否が応でも此の世で生きていかなければならないのであるから、「鈍感力」の良い面を持ちつつ、「楽観力」も持つ。そして一旦「純粋無垢」、「無」に戻った心を、出来るだけ維持していかなければならない。しかし、人間である以上は、「弱い」のである。
 その「弱さ」故に、また「元の木阿弥」の如くに見える様な状態に陥ってしまうのだろう。僕が、それを体現している。「純粋無垢」となっても、「失敗」やトラブルを繰り返して来た。そして、生涯、無限に、その状態が螺旋の様に繰り返す事になるのであろう。
 人間は「弱い」。だから、繰り返す。よって、「自力」で解決しようとすると、必ず「失敗」する。「自己実現」しようとすると、「失敗」するのである。
 「純粋無垢」な心は、デリケートなので傷つき易く、波立ち易く、「不安定」となり易い。それ故、環境の変化、周囲の挑発や煽り、ハラスメント、いじめ等によって、感情の起伏が激しくなり、それを我慢、或いは怒りを起こす事となり、そのどちらによっても精神は疲れてしまい、「しんどい」となる。

  
 



 ヤコブの手紙1章19~22節
   愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
  人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
  ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

 The Epistle of James 1:19~22
   So, then, my beloved brothers, let every man be swift to hear, slow to speak, and slow to anger;
  for the anger of man doesn’t produce the righteousness of God.
  Therefore, putting away all filthiness and overflowing of wickedness, receive with humility the implanted word, which is able to save your souls.
  But be doers of the word, and not only hearers, deluding your own selves.


 世間の多くの人達、「無神論者」達は、その様な事に対する解決策として、「人との繋がり」を挙げるであろう。しかし、「人間」は「弱い」のである。「人間」は、欠陥だらけなのである。その欠陥だらけの「人間」に頼ったところで、必ず「失敗」するのである。両親然り、学校の先生然り、医者然り……である。勿論、「マスコミ」や芸能人、その他有名人に頼ってはいけない事は、言うまでもない。
 しかし、同じ「人間」でも、司祭や牧師は、まだましかもしれない。その理由は、神様の御言葉である「聖書」を基準としているからである。「聖書」には、預言者等によって、神様から預かった言葉が書かれている。よって、「神様の御言葉」そのものである。しかし、各キリスト教会も完璧では無く、聖書の中の「タブー」視している御言葉を伝えていないし、「人間の解釈」や「組織の考え」も混じっている。
 キリスト者の内村鑑三や、同じくクリスチャンの新渡戸稲造は、それぞれ「無教会主義」とクエーカー派であった。クエーカー派も「無教会」に近く、教会の制度化や儀式化に反対し、小さな、質素な、それこそ草庵の如くの集会所で、共に聖書を読み、祈る。その「無教会」、組織・団体に所属しない単独(alone)の身の上で、直接聖書を読み、直接神様と向き合い、直接神様に祈る。僕も同様に、またそれらを見習う様にして、「神様と繋がる」、否、「神様と『直接』繋がる」事を持って、生きていきたい。

 「敏感力」や「鈍感力」、「楽観力」等の、自分の力だけでは「失敗」する。また、世間一般的な「渡世術」も、「人間」の方法なので「失敗」する。更に、「人との繋がり」を持ってしても、「失敗」する。唯一「失敗」しない方法は、「神様と『直接』繋がる」事であろう。
 「神様と『直接』繋がる」事によって、例え何かでしくじったり躓いたり(つまずいたり)しても、融通が効き、修正が効き、処理は速く済み、大事には至らず、立ち直り、復活し、リバイバル(再興)するのであろう。

 僕は、十数年前までは神様からの信仰から大きく離れ、数年前までも直接聖書を読まず、真剣な「悔い改め」を行わない等、薄い信仰に陥っていた。しかし前述の通り、高校中退してから社会に出てからの約30年間、失敗やトラブル、職場を転々として来ながら、自分なりに融通が効き、修正が効き、成るように成り、その都度復活、リバイバルが起こって来たのは、神様の救いが在ったからだと信じる。
 信仰も薄かったのに、またそれだけでは無く、数々の罪も犯して来たのに、何故、神様は何度も僕を救い続けて来てくれたのか?。
 僕は、罪を犯した故に、古代ユダヤの王ダビデと同様に、天罰として、プラバシー侵害やストーカーの被害の下に置かれ続けて来た。しかし、罪の大きさの違いは有るにしても、また、その頻度の違いが有るにしても、世間の全ての人達が同じ様に罪を犯し続けていても、また、実際に刑務所に入れられる犯罪者が多いにも関わらず、世の中の誰も、その様な天罰の下には置かれてはいない。何故、僕だけが、その様な下に置かれなければならないのか?。
 僕は、単なる日本人である。しかし、日本人は国籍名であり、且つ、元々古代に於いて日本人は多民族であったので、民族名は異なる。それを表面的に単一民族の様に装って来たが、実際は、血統的、遺伝子的に、多民族の子孫で構成されている。僕は、正確に何の民族に当たるのかは、勿論解らない。因みに、その日本の多民族の中には、「血統的」な本当のユダヤ人が含まれている事を、今までに聞いて来た。ユダヤ人は、「聖書」の中にも書かれている通り、「神様の選民」である。
 僕が何の民族に相当するのかは解らず、また、ユダヤ人であるのかどうかも解らない。しかし、ユダヤ人が神様から選ばれた民である事と同じ様に、少年時に洗礼を受けた事による神様との契約(Testament)を持つ為なのか?、それとも神様との間での契約の書である聖書(The Testament)を読んで来たが故に神様との契約を持っている為なのか?、ひょっとすると、僕は神様から選ばれているのか?、解らない。
 しかし、此の世の中には、受洗されたクリスチャンは沢山居られる。日本国内では1%にも満たない極めて少数派ではあるが、欧米ロシアでは多数派として、また中東地域等にも、キリスト者は数多く存在する。前述の様に、僕は信仰の薄かった時期が長く、小学生時代は毎週教会に通っていたものの、その後は合計しても数年程であり、その教会で聖書の御言葉に触れる事は有ったが、家で直接読むのは数年前からである。その様な僕が、良きも悪しきも、神様によって特別扱いされるのであろうか?

 
 



 新約聖書・エペソ人への手紙3章7~9節
  私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
  すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
  また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

 The New Testament・The Epistle to the Ephesians 3:7~9
  of which I was made a servant according to the gift of that grace of God which was given me according to the working of his power.
  To me, the very least of all saints, was this grace given, to preach to the Gentiles the unsearchable riches of Christ,
  and to make all men see what is the administration of the mystery which for ages has been hidden in God, who created all things through Jesus Christ,


 人それぞれに、違った「運命」が在る。その事は、解っている。僕のその様な状態に置かれている事も、「宿命」である事は、理解している。しかし、僕だけが、その様にされるのは、はっきり言うと、理不尽に思えるし、納得出来ないとも思える。あぁ、僕は、旧約聖書「ヨブ記」のヨブの様に、神様に対して文句を言いだした!。
 前述の犯罪だけでは無く、先天的な障害を持って生まれて来た方々にしても、その各人が一人だけでは無く、世の中を見渡せば、幾らでも、同じ様な障害を持っている人は見つかる。同様に、幾ら難病を抱えていても、同じ様な難病を抱えている人は、沢山見つかる。しかし、僕の様な、ストーカーの被害の原因となっているプラバシー侵害の被害を、他に見つける事は出来ない。
 プラバシー侵害をされているとしても、それは物理的、科学的に証明出来るものばかりである。その物理的、科学的なものは、「人間」が作ったものである。一方、僕のプラバシー侵害について、それら物理的、科学的に証明出来るものであろうか?。絶対に、不可能である。
 そうすれば、何故、どの様にして、その様な事が起きているのであろうか?。誠に、「不思議」な事である。
 もう、この際、ついでに、証しする為に、述べてしまおう。「不思議」な事は他にも有る。僕の話す声が、まるで「メガホーン」(拡声器)を使っているが如くに、大きく響き渡るのである。それも、周囲の近所だけでは無く、はっきり言うと、日本全国、否、世界各地にも、伝わっている様なのである。此の事は、一体、どういう事なのだろうか?。誠に、「不思議」な事である。因みに、「メガホーン」が「ラッパ」の形をしているのは……(新約聖書「ヨハネの黙示録」の参照を)。
 それどころか、口を開けて話をしている訳でも無いのに、恰も「以心伝心」しているかの如く、僕が口に出さずして、思ったり、書いたり、音読では無く黙って読んだりして言葉にしている時にも、伝わっている様なのである。此の事も、一体全体、どういう事なのだろうか?。誠に、「不思議」な事である。

 
 



 コリント人への手紙 第一15章58節
  ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 The First Epistle to the Corinthians 15:58
  Therefore, my beloved brothers, be steadfast, immovable, always abounding in the Lord’s work, because you know that your labor is not in vain in the Lord.


 僕は、ブログを始めてから、丸6年が経過した。このブログも、日本国内は勿論、外国にも伝わっている様である。YouTube等を見ると、その事に気付く事が屡々(しばしば)有った。アクセス数を見ると、大した数では無い。にも関わらずである。よって、どうも、普通の伝わり方では無い様に思える。何にしても、僕としては、その伝わっている事を利用して、書いたりしている訳である。
 「不思議」な事はまだ有る。僕が恰も「カメラマン」の様にして、行く先々で取材をするが如く、カメラ中継をするが如く、プライバシーを侵害するが如く、企業秘密をバラすが如くの事を行ってしまっている為に、「カメラが来た」、「目」等と言われて嫌われ、差別され、除け者にされる事である。クビになったり、難癖を付けられる等をして退職に追い込まれるのは、その「カメラ」の様なものを僕が持つが故に偏見を持たれる事も、理由に在る。しかし、僕が「カメラ」を回しているのでは無く、僕が見ているのではなくて、世間一般の人達が見ているのである。
 プライバシーの侵害にしても、自分で自分のプライバシーを曝け出す訳が無い。誰でも、自分のプライバシーは秘密にしたいものである。だから、そのプライバシーが曝け出されている事も、僕自身がしていない事を解ってもらえる事と思う。
 「不思議」な事はまだ更に有る。僕には「背後霊」の如く、常に悪口を言ったり、挑発したり、煽り、唆し、誘惑、偽旗工作(False Flag)をする者が付いている。女性の声もすれば、男性の声もする。そして、その「背後霊」が偽旗をする事で、恰も僕の周囲が悪口を言った様に見せかけて、僕と周囲との喧嘩等のトラブルを引き起こそうとしている。それらは、恰も、天童荒太氏著作の小説「悼む人」(文藝春秋)の中で描かれてる事と似ている。もしかすると、この小説は、僕を構成するモチーフの一部にしているのではないのか?、そう思えてならない。刊行されたのは2008年であったので、僕が丁度、医療系専門学校に通学していた時であった。
 また、「空気感染」しやすい世間の人達は、その悪魔の「False Flag」(偽旗工作)につられて何も考えずに洗脳され、「世間病」がやがて広がって蔓延し、悪魔が言うと皆が言う、一人が言うと皆が言う、悪魔が笑うと皆笑う、一人が笑うと皆笑う……といった具合に、「空気感染」による「世間の病気」が蔓延して、「一時のブーム」が出来るのである。しかし、その「世間の病気」は大概、「一瞬」で消えてしまう。その場の空気や雰囲気、ブーム、流行とは、その様なものである。

 その「背後霊」とは関係ない事であるが、次に、その著作で2009年に第140回直木賞を受賞された天童氏への、それ以前のインタビュー、2004年3月28日付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」より、
  「家族狩り」(1995年刊、新潮社)の増補改訂の文庫版出版に当たり、「テロ、紛争、飢餓などの世界情勢や、高齢者の介護、中高年の自殺といった問題も提示」しながら書き下ろしされた。
   「いまここで苦しんでいる者の不幸と、遠い地域の悲劇とは、本当にかけ離れたことなのか…」
   「世界で起きていることは、小さな個人の積み重なりで起きているもので、実はつながっている。むごいこと、悲惨なことを直視し、それでも、その人生を肯定することで次の生き方が見えてくる。小説全体を通して、世界と個人がつながっているという回路を示したい。」
   「自身を追い込む作業ですが、僕には、人の痛みを見詰めた作品を届ける責任があると思っています。」
 (以上、2004年3月28日付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」より)

 僕は現在、パレスチナ人の苦しみをはじめとした国際情勢に関心を持ちながらブログを発信していている事からも共感するし、また現在、次の生き方、「目的」が、見えている。

 話は戻り、この「背後霊」の如くに僕に付き纏わっているのは、その内容から見ても、サタン(悪魔)の仕業である事は、間違いない。その事も、ヨブやダビデの身に起こった事と同様である。また、「カメラ」はどうだろうか?。しかし、それ以外の「不思議」な事は、僕は神様が行っているものと信じたいし、信じる。「カメラ」も、「プライバシー曝け出し」と同様、良い様に捉えれば、ドライブ・レコーダーや監視カメラの様に、何か有った時の為の証拠、或いは証人を得るものとして、「益」となっているのかもしれない。

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙8章26~30節
   御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
  人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
  神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
  なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
  神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 The Epistle to the Romans 8:26~30
   In the same way, the Spirit also helps our weaknesses, for we don’t know how to pray as we ought. But the Spirit himself makes intercession for us with groanings which can’t be uttered.
  He who searches the hearts knows what is on the Spirit’s mind, because he makes intercession for the saints according to God.
  We know that all things work together for good for those who love God, for those who are called according to his purpose.
  For whom he foreknew, he also predestined to be conformed to the image of his Son, that he might be the firstborn among many brothers.
  Whom he predestined, those he also called. Whom he called, those he also justified. Whom he justified, those he also glorified.


 僕の身に起こっている「不思議」な事は、「神様からの恵み」である。しかし僕は、2年前までは、その「不思議」な事を、「自分の十字架」と言う様に捉えていた。実際、罪を犯した為の「天罰」と考えられるからである。また、そのどれもが、その当時まで、僕自身にとっては「苦しみ」であったし、「我慢」、「忍耐」を必要としていたからである。正直に言うと、今でも完璧に開き直り切ってはおらず、まだ「苦しみ」や「恥ずかしさ」を時々、感じている。未だまだ、神様への信仰が未熟である故であろうと思う。
 これら僕の「不思議」な事を、僕の捉え方としての「自分の十字架」からの前進した捉え方として、レバル・アップした捉え方が、「神様からの恵み」である。そして、それら「不思議」な事を「神様からの恵み」と捉え切った時、神様に対する「感謝」や「喜び」が、自然と湧いて来る様になる。僕は正直、それら「不思議」な事を「神様からの恵み」と捉え出したのは約1年前からであるので、未だまだ未熟であり、「無限のスパイラル」の様にして、今後も成熟化していくのであろう。
 そうは言っても、折角の「純粋無垢」な心を維持したいものである。汚れた俗世間、理想郷では無い世間の環境の中で、自分の心を守る「盾」や「アダプター」が必要となる。前述して来た様な、人間の作るもの、世間一般的なもの、科学的・物理的なものとしての対策法は沢山有る。周囲の雑音に対するヘッドホーンや耳栓も、その内の一つである。また、人間に頼る「人との繋がり」も、そうである。
 それらを完全否定するつもりは無いし、「渡世術」としては必要に感じる。僕の洗礼名である「アッシジのフランチェスコ」の様に、「神様の道化師」とした完全に開き直り、自分を完全に「無」にして此の世を渡っていくのは、なかなか難しい。しかし何れにせよ、最も必要なのは、「神様の盾」を、「神様のアダプター」を、心に付ける事である。人間を含め、此の世のものは、全てに欠陥が在り、全て不完全であるから、それらに頼るだけでは「失敗」する。人間に頼ったところで、承認欲求から偽善行為に走り、騙され、利用され、裏切られる。
 僕は、「不思議」なものを持っているが故に、周囲、世間からの攻撃を受け易い。故に、一層、「神様の盾」、「神様のアダプター」を心に纏う必要が有る。その為には、絶えざる信仰心と祈り、聖書の御言葉を心に留める事が必要である。そして、その迫害を受ける中での信仰によって、「キリストの“似姿”」、イエス様に似た姿になっていくのであろう。
 「心の安定と集中力」。「イエス・キリストと『直接』繋がる強さ」を心の礎に据え、落ち着き、冷静さを保ち、許容範囲が広がって寛容となり、余裕・ゆとりが大きくなる事で心に大きな波が生じる事も無く、心が安定し、バランスを保ち、集中力を得る。それにより、「目的」をはじめとして、様々な結果に繋がっていくであろう。
 そして、「僕の不思議な事」が、「神様の御計画」の内に存在する事を信じて……。

 
 



 コリント人への手紙 第二12章9~10節
  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
  ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 The Second Epistle to the Corinthians 12:9~10
  He has said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Most gladly therefore I will rather glory in my weaknesses, that the power of Christ may rest on me.
  Therefore I take pleasure in weaknesses, in injuries, in necessities, in persecutions, and in distresses, for Christ’s sake. For when I am weak, then am I strong.


 本ブログ過去の関連記事
  ・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド

 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)

 参考文献
  ・2004/03/28付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」
  ・2018/09/10付・サンケイスポーツ:「大坂なおみ、躍進の裏に敏腕コーチ!昨年12月就任のバイン氏/全米テニス」
  ・2018/09/11付・神戸新聞朝刊:「人 テニスの全米オープン女子シングルスで初優勝した大坂なおみさん」

My Testimony/僕の証<10>:続・番外編~カメラに対する「口隠し」「黒縁メガネ」、近付く「第三次世界大戦」に向けての「希望」は改革保守、独立自尊のアローン/Hope against WWⅢ

2019-02-01 11:41:09 | エッセイ・コラム

 My Testimony & Witness
  僕の証<10>
    続・番外編~カメラに対する「口隠し」と「黒縁メガネ」
          近付く「第三次世界大戦」に向けての「希望」は「改革保守」
          「独立自尊」の「アローン」
          "Hope" against WWⅢ


 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 
 近付く「第三次世界大戦」に向けての「希望」は、クリスチャンの僕としては「信仰」である。そして、日本、公、政治そして世界に関しては、憲法改正、九条二項改正、緊急事態条項創設等を含めた「改革保守」、更に、一人ひとりに必要な「アローン」の精神、「独立自尊」の精神である。

  
YouTube: ソウルこれっきりですか

 そうそう、もう「これっきり」にしないと、キリがない。とりあえず、「番外編」はここまで。

 しかし、更に思い出したので、ここに追記しておく。
 2011年大晦日から2012年元旦、僕は訳有って独りで過ごした。「独り」は僕にとっては特に珍しいものでも無く、極普通、日常茶飯事、在り来たりの事なのであるが、その時は母とも一緒では無かった。
 丁度その頃から、僕はYouTubeにて、国際問題や社会問題、歴史、政治等に目覚め出した。YouTubeの中に、僕がそれまで定期購読して来た国際時事情報誌「エノク」の著者であられる宇野正美氏が講演されておられる模様の動画が多数アップロードされている事を知った事が丁度その時で、それをきっかけにしてYouTubeに傾倒していき、それと共に地上波テレビからは徐々に遠のいていく事となった。

 その2011年の大晦日に放送された「第62回NHK紅白歌合戦」を、地上波テレビを視聴出来る様に増設していたデスクトップ・パソコンで、その放送途中に少しだけ覗いて見た。その時は丁度、韓国の女性アイドルグループ「KARA」が司会者の井上真央氏にインタビューを受けていた時であったのだが、そのインタビューを受けていたKARAのメンバーの内の一人が、「口を手で隠す」仕草を行った。すると、司会者の井上真央氏が咄嗟に、「N****見ていいよ!」とおっしゃられたのであった。僕はその瞬間だけしか当番組を視聴しなかった。その当時、「呼び捨て」にされた事に関しては遺憾に感じ、頂けなく感じられたが、咄嗟に出た言葉である故、よく考えた上での発言でも無い訳であり、逆に井上真央氏がKARAの「口を手で隠す」事に対するひらめき、直感力や反応、その様な言葉が咄嗟に出て来る事を、不思議に感じる。
 そしてその後、紅白には、「KARA」が出演した2011年後の5年間は、韓国のグループが出演する事は無かった。そして一昨年の2017年に、韓国の日本人も含めた多国籍の女性9人組アイドルグループ「TWICE」が、6年ぶりに韓国のグループとして出演された。2012年といえば、グローバリズムを進めるイルミナティ・フリーメーソンがバックアップの民主党政権から、「日本を取り戻す」をスローガンとした自民党の現・安倍晋三首相が政権を奪還した年である。
 女優の井上真央氏は、僕が医療系専門学校に通学していた2005年4月~2009年3月までのその丁度同じ時に、明治大学に通われていたらしい。そして、血液型は「O型」であられる。その紅白の司会者を務められた2011年には、NHKの連続テレビ小説「おひさま」に主演されたらしいが、僕は視聴しなかった。

 その連続テレビ小説の前作は、「鉄工所」を舞台にした「てっぱん」であったが、このドラマも僕は視聴しなかった。その主演を務められた瀧本美織氏も「O型」であられる。また、瀧本美織氏演じるヒロインの養父で「鉄工所」を経営するという役を演じられた遠藤憲一氏も「O型」であられる。丁度そのドラマが放送されていた2010年11月15日(月)、遠藤憲一氏は「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにゲスト出演された。その日、僕は某N会社に派遣社員として鉄・非鉄製品の検査を行う事、2ヶ月が経過していたのであるが、その会社の休憩室で昼休みに点けていたテレビに「笑っていいとも」が映され、遠藤憲一氏が次の日のゲストの仲村トオル氏に電話でテレフォンショッキングへのゲスト出演の引き継ぎを依頼していた際に、「『T*******』入れたってな!」とおっしゃられ、隣のタモリ氏が笑っておられた事を思い出す。
 僕はその年、2月までは昔お世話になっていた某S鉄工所に勤め、3月~5月までは某K病院に勤めたが「患者から苦情が出ている」との殺し文句で「クビ」にされて辞め、2ヶ月の無職の状態後に鉄工所勤務を2つ挟むも(内一つは派遣にて)、共に短期間で「クビ」になり、その後にその某N会社での派遣の仕事を行っていた。そして、その約半月後の12月頭、僕の父が亡くなられた。
当時、2008年9月のリーマン・シャックから約2年後で景気回復が未だまだ途上であったし、僕自身の経験のブランクや中途半端な態度、周囲からの偏見や固定観念、希望的観測等から、不遇に置かれていた。その様な状況を知ってか、また自身が丁度、「鉄工所」を舞台にしたドラマ「てっぱん」に出演されていた事から、同情心から、そういった発言に繋がったのではないかと思われる。因みに遠藤憲一氏も若い頃、「……高校1年時の2学期で中退してしまう。嫌なことがあるとすぐにやめる癖がつき、その後アルバイトを転々としていたが、…(中略)…合格して舞台俳優としてのキャリアをスタートするが、空気の重圧感や規律の厳しさと辞め癖が抜けていなかったことから10日後に劇団を離脱……」(ウィキペディア「遠藤憲一」より)であったらしい。厳つい顔立ちから悪役を演じられる事が多かったものの、昨年(2018年)7月~9月に関西テレビ(フジテレビ系)で放送されたドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」では、元生活保護者でしがない感じを見せる役を演じられた。僕は、そのドラマを母と共に視聴した。丁度その頃、僕は職業安定所に少し通ったのであるが、そこの壁には遠藤憲一氏のポスターが貼られていた。

 また井上真央氏は、関西テレビ(フジテレビ系)で毎年正月に放送されている「新春大売出し!さんまのまんま」に2008年から2017年まで10年連続でゲスト出演したらしい。僕は、2016年分か2017年分だったか、井上真央氏が出演されている部分の「今田耕司おすすめ芸人コーナー」を含む当番組を、母と共に視聴した。
 その「新春大売出し!さんまのまんま」に御出演されておられる明石家さんま氏と今田耕司氏は、「アローン会」に所属されておられるという。
 その「アローン会」は、「幸せを望む独り者の芸人が集まって、現状を好転させていこう」を運営方針とし、「独身の行き遅れたメンバーたちが集い、恋人ができた時点で退会していくという独身のシステム」であるという。(参考:下記の参考文献内)
 そして、その「アローン会」は、名誉会長の坂田利夫氏(1941年生、元・コメディNo.1)を筆頭に、顧問の明石家さんま氏(1955年生)、会長の今田耕司氏(1966年生)、部長の岡村隆史氏(1970年生、ナインティナイン)、部員の徳井義実氏(1975年生、チュートリアル)、又吉直樹氏(1980年生、ピース)のメンバーで構成されているらしい。
 しかし、何故「ロンリー」(lonely)では無く「アローン」(alone)なのであろうか?。同じ「孤独」でも、寂しさを伴う「ロンリー」とは異なり、「アローン」は単独、独立、独力、そして匹敵する者が無い程の「孤高」を意味し、精神的にレベルが高い事を表す。よって、僕も「アローン」であり、且つ「マーヴァリック」(異端者、一匹狼)である。下記の「本ブログ過去の関連記事」を参照されたい。

 
YouTube: Mavericks Rolling Along

 ところで、安倍晋三首相が最近「黒縁メガネ」を掛けておられる姿が話題になっている。「黒縁メガネ」を掛けられた安倍首相が、父の安倍晋太郎元外相とそっくりだと巷で言われている。
 先日、1月23日のスイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)や、一昨日の30日の衆院本会議で行われた自身の施政方針演説にて「黒縁メガネ」姿っを披露された。何か、訳でも有るのだろうか?。同じく、下記の「本ブログ過去の関連記事」を参照されたい。

 

 出典:2019年1月31日付・阿修羅「安倍首相がメガネでイメチェン? リベラルの父親そっくり(日刊ゲンダイ)」

 また、同じく政治に関する事として、旧「民主党」から党の「憲法改正」についての方針と自身のそれについての見解の相違から自ら離党して、2017年の衆議院選挙前に「希望の党」の結成メンバーとして参加された現無所属の細野豪志元環境相が、昨日31日、記者団に「自民党入りを目指したい。自民党の皆さんと一緒に行動したい」と語られたという。

 その事について、「希望の党」の松沢成文代表は、同日の記者会見で
  「『一緒に自民に対抗する勢力をつくって日本の政治を再生しよう』と行動してきた仲間なので、(細野氏の二階派入りは)残念だ。寄らば大樹で大きなところにいないと出世もないと考えるのだろうか。真っ向から批判していた政党に、ぽーんと移動してしまうと、政治理念や政策はどうでもよくて有利なところに行きたいというのが垣間見えて、国民の政治不信につながる。有権者の信任をつなぎとめられるかは自己責任。細野さんもこれからいばらの道だと思うが、信じるところがあるなら頑張ってもらいたい。」(2019年1月31日付・朝日新聞「『寄らば大樹の細野さん、ぽーんと移動』 希望・松沢氏」より)。

 尚、「改革保守・希望の党」については、同じく、下記の「本ブログ過去の関連記事」を参照されたい。

 2017年9月30日収録CD、「聖書講義・聖徳太子はユダヤ人であった」(宇野正美氏講演、エノク出版)より、
  「『希望の党』、…(中略)…小池(百合子)さんも保守ですよ。元は自民党の政権の時の防衛大臣ですよ。…(中略)…“希望の星!”とした方が(良かったのではないかと、)ねぇ……、僕は簡単だからそう思って……」
  「……そういう事から“第三次世界大戦”が近いという事が解って来ますね。こういう時に日本が一つに纏まっていなければならない訳です。だから、もの凄い知恵者が居る。そして、前原さん(※ 当時、民進党の党首)か誰かに働きかけて……」(※ 一部、要約)

 


 出典:「希望の党」

 民主党の後継の民進党の解体で、当時、勢いの有った小池百合子氏を党首(当時、現・東京都知事)とされる保守政党である「希望の党」が立ち上げられ、当時、既成の自民党との“保守の二大政党の体制”を創る事が試みられていた。
 前原誠司元外相は、希望の党に所属していた当時の2017年12月18日、来日中であった、アメリカのトランプ政権の発足当初、首席戦略官兼上級顧問を務められたスティーブン・バノン氏との夕食会に参加され、翌日の自身のツイッターに、その時のバノン氏とのツーショット写真を投稿された事について、多くの批判を浴びられたという。バノン氏は17日に来日してから、NHKを「フェイクニュース」と批判する等、御尤も、正しい発言が多いにも関わらずにである。そして前原誠司氏も、保守であられる。
 
 2017年12月19日付、前原誠司氏ツイッターより、
  「昨夜、来日中のスティーブン・バノン氏との夕食会に参加しました。仕事のためにお酒も飲まなければ、ゴルフもしないというストイックさと、雄弁さに感銘を受けました。有意義なひと時をありがとうございました」

 本ブログ過去の関連記事
  ・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド

  「NHK紅白」について
   ・2019/01/29付:『My Testimony/僕の証<8-6/14>:エピローグならぬプロローグの「追録」~有名人の同情・共感・酷似 & パレスチナ人への同情・共感・連帯/Sympathy & Solidarity』
 
  「アローン」、「NHK紅白」について
   ・2013/11/11付:『敏感で太い「鈍感力」と、「alone」と「maverick」の「孤独力」による「心の安定」・・・「人間関係は浅くていい。」を読んで』
   ・2019/01/30付:『My Testimony/僕の証<8-12/14>:エピローグならぬプロローグの追録~「失敗は勝利」、特攻を無駄死と嘲弄する人達、母の包容と導き/Defeat & Failure are Victory』
 
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   ・2019/01/29付:『My Testimony/僕の証<8-9/14>:エピローグならぬプロローグの「追録」~僕は反米・反イスラエルの保守&いじめ・不登校・引きこもり公表有名人/Coming-out of Bullying』

  「黒縁メガネ」について
   ・2019/01/06付:『My Testimony/僕の証<8-3/14>:エピローグならぬプロローグの「追録」~ 「キュレーター」として「変態コレクター」……!?/Is Curator Abnormal Collector ?』
   ・2019/01/29付:『My Testimony/僕の証<8-5/14>:エピローグならぬプロローグの「追録」~内村鑑三と同様に世間・宗教組織からの排除で得た「無教会主義」と執筆/Non-church Movement』
 
  「希望の党」、「細野豪志氏」、「前原誠司氏」、「黒縁メガネ」について
   ・2017/11/29付:『純粋な「保守革新」の希望の党(1)・・・「保守」を貫き一時の甘言に乗らなかった小池百合子都知事の賢明さ & 政界の裏の八咫烏』
   ・2017/11/29付:『純粋な「保守革新」の希望の党(2)・・・一時の困難に迎合せず「保守」を貫徹すれば「希望」は膨らむ & 小池都知事の中東アラブとの貴重な繋がり & 諸悪の根源はマスコミと愚民達』
   ・2019/01/06付:『My Testimony/僕の証<8-2/14>:エピローグならぬプロローグの「追録」~ いじめを演出し加担してブームを作るマスコミとそれに煽動される世間の姿と重なる2,000年前のイエス・キリスト虐殺』
 
 参考文献
  ・2010/11/12付・価格.com~テレビ紹介情報:「『笑っていいとも!』 2010年11月12日(金)放送内容」
  ・2010/11/15付・笑っていいとも!のテレフォンショッキングのゲストの似顔絵の輪!あっ、輪!ブログ:「11/15 遠藤憲一」
  ・2018/01/18付・NAVERまとめ:「【2018新春さんまのまんま】井上真央が出なかった理由は?ネットで話題に」
  ・2018/07/27付・livedoor NEWS:「『アローン会』に徳井義実が復帰 岡村隆史がInstagramで報告」
  ・2017/09/30収録CD:「聖書講義・聖徳太子はユダヤ人であった」(宇野正美氏講演、エノク出版)
  ・2017/12/21付・livedoor NEWS:「前原誠司氏、スティーブ・バノン氏とのツーショットを投稿して炎上」
  ・2018/07/27付・ORICON NEWS:「岡村隆史、徳井義実の“アローン会”復帰を生報告『ハンサムが帰ってきました』」
  ・2018/12/09付・HARYU:「NHK紅白歌合戦、歴代の韓国歌手やK-POPアイドルの出場歴まとめ」
  ・2019/01/30付・産経新聞:「安倍首相のメガネ姿、父・晋太郎元外相と酷似、ドレッサー受賞も近い?」
  ・2019/01/31付・阿修羅:「安倍首相がメガネでイメチェン? リベラルの父親そっくり(日刊ゲンダイ)」
  ・2019/01/31付・gooニュース(共同通信):「細野豪志氏『自民入党目指す』 衆院静岡5区、変更せず活動」
  ・2019/01/31付・朝日新聞:「『寄らば大樹の細野さん、ぽーんと移動』 希望・松沢氏」
  ・ウィキペディア:「遠藤憲一」
  ・ウィキペディア:「井上真央」
  ・・ウィキペディア:「第62回NHK紅白歌合戦」