狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<7-1/2>:自分を捨てた神第一・神実現・神の価値観、聖書の3年半/God First, God Realization, God's sense of value

2019-02-01 14:24:43 | エッセイ・コラム
※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<7>
    ~自分を捨てた神第一・神実現・神の価値観
       God First, God Realization, God's sense of value
     ゆとり、休養、「転機」が与えられた
     開き直り、裸になる事、自分を失くす事 
     「神第一」で得られる心の安定と静寂
     終末期に於ける「悔い改め」による「永遠の命」
     世間の「逆効果」



 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 
 



 旧約聖書・詩篇4章1節
  私が呼ぶとき、答えてください。
  私の義なる神。
  あなたは、私の苦しみのときに
  ゆとりを与えてくださいました。
  私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

 The Old Testament・The Book of Psalms 4:1
  Answer me when I call,
  God of my righteousness.
  Give me relief from my distress.
  Have mercy on me, and hear my prayer.

 
 



 新約聖書・ヨハネの福音書4章32~34節
  しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
  そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
  イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 The New Testament・The Gospel of John
  But he said to them, “I have food to eat that you don’t know about.”
  The disciples therefore said to one another, “Has anyone brought him something to eat?”
  Jesus said to them, “My food is to do the will of him who sent me and to accomplish his work.

 
 





 新約聖書・コリント人への手紙 第一6章12~20節
   すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。
  食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
  神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
  あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
  遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
  しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
  不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
  あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
  あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 6:12~20
   “All things are lawful for me,” but not all things are expedient. “All things are lawful for me,” but I will not be brought under the power of anything.
  “Foods for the belly, and the belly for foods,” but God will bring to nothing both it and them. But the body is not for sexual immorality, but for the Lord; and the Lord for the body.
  Now God raised up the Lord, and will also raise us up by his power.
  Don’t you know that your bodies are members of Christ? Shall I then take the members of Christ and make them members of a prostitute? May it never be!
  Or don’t you know that he who is joined to a prostitute is one body? For, “The two”, he says, “will become one flesh.”
  But he who is joined to the Lord is one spirit.
  Flee sexual immorality! “Every sin that a man does is outside the body,” but he who commits sexual immorality sins against his own body.
  Or don’t you know that your body is a temple of the Holy Spirit who is in you, whom you have from God? You are not your own,
  for you were bought with a price. Therefore glorify God in your body and in your spirit, which are God’s.


 僕は、此の度の、この記事までの「My Testimony/僕の証<1>~<10>の一連の記事を、最初から「僕の証」をするつもりで書いたのでは無かった。僕の近況、僕の最近の精神と心に於ける、変化や不安定さについて、先ず分析し、検証し、そして整理して纏める事によって、先に僕自身の足元、心を固めて「安定」にしておこうと思った。
 もし「不安定」なままであれば、此の後に行っていく様々な事に於いて、「集中力」等の力を発揮する事は出来ず、結果には繋がらないと思った。
 そしてその後に、今に至って明確化した僕の「目的」、つまり、「歴史修正」や、「マスコミ修正」、「世間の常識・空気・価値観の破壊」を目指す為に、書き物等を通して行っていくつもりであった。そして勿論、「神様の御計画」を常に意識し、従って行きたい。僕のその「目的」が、「神様の御計画」の内に在るのかどうか、「神様の御心」に適っているのかどうかは正直解らないが、僕としては、信じて行っていきたい。
 そして、このシリーズの記事を書いていく内に、僕は「証」をしている事に気付いた。

 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、
 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」
  (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 正に、僕が「証」をしている事が解る。その借用した説明文に、ピッタリである。しかし、飽くまでも、僕は「自分の意志」として「証」をした訳では無い。この「タイミング」と言い、全くの「偶然」なのである。実際、過去に少し通っていたプロテスタントの教会で耳にしていた「証」についての意味を、今まで知らなかったのであるから。また、確か、僕が洗礼を受けたカトリックの方には、「証」をする事は無いのではないかと思う。
 だから、今まで出した記事の中にも、実際は「証」に相当する内容の記事が存在している。でも、その書いた当時は、それを「証」するとして書いた訳では無い。
 世間一般的な価値観として、「自己実現」が在る。この「自己実現」の価値観を良しとして、基準にして判断すると、「偶然」に起こった事は価値が無い様に見え、評価や承認に値するものとしては見ない。世間的には、「自力」で何でも解決出来る人は、頼りがいが有り、頼もしく見えているであろうし、認め、褒めているであろう。勿論、他人に頼ってばかりでは、頼りないし、自立出来ていないので、良くない事である。
 しかし、「神実現」の価値観に立つならば、「偶然」に起こった事こそ値打ちが有ると思え、そして、その「神様の業(わざ)」に感謝し、神様を誉め讃える事となる。
 その反対に、世間的な価値観としての「自己実現」を持っていると、自分に感謝し、自分を誉め讃え、自分を賛美する事となってしまう。その結果、自分には能力が有るとか、自分は何でも出来る、自分は偉い、自分は賢い等と思う様になり、そして利己(エゴ)は強くなり、「傲慢」へと繋がってしまう。「自分の意志」の根底が「欲望」となっている場合が多く、「目標」や「目的」等も「自分の欲望」が基礎となっている場合が多い。
 僕の洗礼名である「アッシジのフランチェスコ」の様に、完全に開き直って、「自分を全き無」にする事が最も「神様の御心」に適う事である事は理解しているものの、理想郷では無い此の世の中を渡り歩く中で様々な「渡世術」、「手段」を得ながら、折り合いを付けながらとなってしまうので、なかなか難しい。

 僕は振り返ると、「自分の意志」で行わなかった事、或いは、その時は「自分の意志」に反する事が多々有ったのであるが、結果的に、特に後者の方、「自分の意志に反する事」が好結果に繋がっている事が多い。この事から言える事は、「自分の意志」で間違った方向に進むのでは無く、「神様の御計画」の下、「神様の導き」によって「修正」されたのではないかと思える。この事からも、僕は本当に、「不思議」であると思える。

 「高校中退」は、その内の一つである。一応進学校であったので、卒業後は大学進学を考えていた。高校生の頃は社会、職業、世の中の事はまるで解っておらず、何に成りたいという明確な希望も無く、ただ漠然と大学……としてしか頭に無かった。そして、そのくせ少しも勉強せず、部活動を中途で辞めて以降は、高校生活全般に於いてやる気は無くなっていった。しかし、その「高校中退」によって、自分探しをし、自己実現意欲は高まり、自分の元々持っていたセンスもあろうが、自立意識、独立意識、自尊心は、却って高まっていったのであった。
 そして、既に「独立自尊」の精神を獲得していた上で、22歳の時に、町工場の小さな下請けの鉄工所に見習いに入ったのである。もし、「普通に」、大学へ進学していたならば、僕のその「独立自尊」の精神や、「反骨精神」、頑固、狷介、臍曲がり、捻くれ者、天邪鬼な性格のセンスは開花したであろうか?。
 その、独立精神を持ち、反骨的に、世間と距離を置き、客観視し、疑い、自分の信じる事を堅く守り、捻くれたものの見方が出来る様に成ったのは、正に「高校中退」の経験が有ったからである。そして、もし、あのまま大学へ進学してしまっていたならば、組織の中でそれらのセンスは開花せず、「自分らしさ」、「自分の本質」、「自分の正体」は出て来なかったのではないだろうか。そして、その生き方、ものの見方や捉え方、判断、考え方等が、現在、このブログの書き物等に活きているのである。

 阪神淡路大震災が「起こされた」1995年の年は、僕が26歳となった年である。「起こされた」としているが、果たして、神様が起こされたのか、それともユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンが使った「人工地震兵器」等でおこされたのであろうか?。2011年の福島原発「爆破」を含む東日本大震災と同様に、後者の可能性が高い。それは兎も角、その年(1995年)の夏、僕は新築マンションの購入をし、翌年入居した。しかし、此の件も、そのタイミングと言い、誠に「不思議」なのである。
 僕は鉄工所に見習いに入る直前から、その仕事で将来独立して商売するという「目標」を持っていた為、コツコツ貯金していた。鉄工所に入って「3年半」後、阪神淡路大震災が起こされた。後で挙げるが、この「3年半」は、意味が有る。
 そしてその後、郵便ポストに広告が入っていた。新築マンションの広告である。それは、新聞の折込広告では無い。当時、僕は賃貸ハイツで、独り暮らしをしていた。そして、それまで購入について全く考えていなかったにも関わらず、更に貯金していたのは独立して商売する為であったにも関わらず、その広告をきっかけとして、愚かにも、安易に手付けし、2千万円もの借金(住宅ローン)をしてまでして、新築マンションを購入してしまったのであった。今にして見れば、誠に馬鹿で、愚かな事をしたと思える事である。
 しかし現在、その事をよく考えてみると、次の様な事が言えると思う。阪神淡路大震災の時に、橋も道路もビルも家屋も、何もかもが壊れ、何もかもが失くなった様子を、テレビや新聞だけでは無く、現地まで行って目にした。そして、今と比べても大分低い僕の当時の理解力や教養レベルに於いてさえ、その光景や出来事から影響を受けた。その後暫く実家の近くで少年時に受洗したカトリック教会に通い、家族を想い実家にも幾らか帰った。しかし、未だまだ未熟であったので、中途半端であった。その神戸が「無」になった事と同様に、僕自身も「無」にさせられようとしたのではないだろうか?。
 要するに、マンション購入が「自分の意志」によるのでは無く、「神様の御計画」の中に入っていたのではないだろうか?。貯金のお金を吐き出させた上で僕を「無」にする為に……。阪神淡路大震災の直後のタイミングで、且つ、実際よく考えないで、前もっては全く考えずに購入したのであるから。そして、その約10年後、医療系専門学校に入学するに当たり、マンションは売却した。その売却によって戻ったお金は、一銭も無い「0(ゼロ)」である。ローンを全額返して完済しただけである。つまり、トントンで、その物件を売りに出していたのであった。また、売れた事で助かったとも言える。
 次に述べる「怪我」の後、3LDKのマンションに独りで住む事も虚しく、また意味の無い様にも思え、学校に通学する為に金銭面が苦しくなるという理由も有ったものの、その「意味が無い」、「虚しさ」、また「捨てる事に意味」を感じ、精神面に於ける「無の豊かさ」を感じたと言う理由から、売却したのであった。そして、「全てを捨てる」の方向に向けて、神様が導かれたのではないかと思える。

 また、今から約16年程前には、外傷性下行大動脈損傷をはじめとした全身打撲の重症の怪我を負い、九死に一生を得た。大動脈は、3層有る内の内膜1層のみが繋がっていた状態で、しかも風船の様に膨らみ、いつ破れてもおかしくない状態であった。もし破れていれば、出血多量で死んでいた。その後、「自分の意志」で、「大検」(大学入学資格検定、現・高等学校卒業程度認定試験)の資格を取得し、医療系専門学校に通学した。しかし一方で、その学校に通う上で、僕は「開き直り」の姿勢と精神を得ていた。
 怪我から進学までの2年間の間、当時住んでいた近くのプロテスタント教会(日本同盟基督教団)に通った。其処で、現在手にして読んでいる「新改訳聖書」を得た。
 その学校に入学する直前で引っ越しする直前、「不思議」な事が起きた。荷造りしている最中、それまで机の上に置いていた、イエス・キリストを表した赤ん坊を抱いたマリアの像が割れたのである。たしか、畳の上、しかも畳の上に胡座をかいて座っていて手にしていた所で落としたのであるから、低い位置からの落下でしか無い。それにも関わらず、割れたのである。果たしてこれは、何を意味するのであろうか?。
 カトリックでは行っているものの、プロテスタント教会は、「偶像崇拝」をしない。旧約聖書「出エジプト記」でも、してはいけない事が、「十戒」の内の一つとして書かれている。僕は当時、プロテスタント教会に通ったものの、未だ理解出来ていなかった。その為、学校入学前のタイミングで「縁起が悪い」等と思いながら、接着剤で修理し、引越し先の現在の自宅に暫くの間、数年前まで飾っていた。この「不思議」な出来事も、「神様のお導き」であった様に思うのである。僕の目を、マリアはただの人間でしかなく、神様は創造主である天の父と子なるイエス・キリストと聖霊の「三位一体」の唯一であるという事へと向けさせ、悟りを得るようにと……。
 しかし、入学して「3年半」の後、臨地実習でつまづき、再チャレンジの場が与えられて卒業し、国家資格も取得したものの、医院やクリニックでの職場は長続きせず、どれも数ヶ月で退職となった。
 「聖書」では、イエス・キリストの「公生涯」が「3年半」、「荒らす憎むべき者」の支配が「3年半」等と、「3年半」は意味が有る。さて、僕はどちらの「3年半」に相当するのだろうか?……。
 その医療系を志望したのも、「自分の意志」である。勿論、それまでの事と比べて大分前もって考えはした。しかし実際、入学する前の年には、既にどちらでも良い、試験で落ちても構わない、という気持ちには成っていた。要するに、入学する前の年に既に、「鉄工」の仕事でも間違いでは無い事を理解していたのである。しかし、運が良かったのか悪かったのか、否、元い、神様のお導きとして、或る大阪の学校に引っ掛かってしまったのである(否、元い、これも「導かれた」と変えた方が良いか?)。そして、「折角だから」という理由で入学したのであった。
 結局、恰も「特攻隊」の如く(ちょっと良すぎて僕と釣り合わない例えではないのか?)に異業種に飛び込んで「失敗」したのであるが(但し、「特攻隊」は失敗では無く、「一粒の麦」として犠牲になられ、多くを遺すと共に、後世に於ける実りに繋げられた)、この事も、僕を「全き無」にする為に、「全てを捨てる」方向へ導かれた一環ではなかったであろうか?
 医療系への「欲望」は今に至っては全く無いが、これもそもそも、「自分の意志」で捨て始めた訳では無く、クビになった事がきっかけである。そして、もし、そのまま順調にその関係を職場にしていたならば、医療の裏側を知る事は無く、健康診断や職場検診、人間ドック、脳ドック、癌検診、ワクチン、出生前診断、体外受精、代理出産等の予防医療や、抗癌剤、薬等々……の過剰医療、不要医療、医原病等々……を賛美してしまっていたかもしれないのである。そう考えると、恐ろしい事である。僕が、その様な医療ビジネスの利権関係や偽善に手を貸す事になっていたのではないかと……。

 本ブログを始めてから、丸6年が経った。丁度始めた直後、……(「My Testimony/僕の証<7-2/2>」へ続く)

 「 My Testimony/僕の証<7> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
  【1】 【2】


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