狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「生命倫理」について・・・(5)「運命」を素直に受け入れ、大きく委ねる

2013-02-10 00:19:12 | 予防医療の危険性と生命倫理
 アメリカのニューヨーク大学に在るリハビリセンターに書かれている、イエズス会修道院のJ・ロジャー・ルーシー神父の作った詩を、以下に引用させて頂きます。
 大きな事を成し遂げる為にを与えて欲しいと神に求めたのに、謙遜を学ぶ様にと弱さを授かった。
 より偉大な事が出来る様にと健康を求めたのに、より良き事が出来る様にと病弱を与えられた。
 幸せになろうとしてを求めたのに、賢明である様にと貧困を授かった。
 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならない様にと失敗を授かった。
 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆる事を喜べる様にと生命を授かった。
 求めたものは何一つ与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた。
 神の意に沿わぬ者であるにも関わらず、心の中で言い表せないものは全て叶えられた。
 私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
 現状に不満を持たずに、或いは、仕方が無いと我慢して、神様から与えられた自分の「運命」として素直に受け入れ、神様に大きく委ねる事が出来る様になった時に、本当の喜びが湧いて来て、神様を賛美し、足るを知り清貧に満足する様になると思います。



「生命倫理」について・・・(4)人間の尊厳、「メンデルの法則」と「進化論」

2013-02-09 18:16:40 | 予防医療の危険性と生命倫理
 生命の尊厳、中でも人間の尊厳は特に大事です。
 1859年「種の起源」においてダーウィン「進化論」を唱えて、人間は神様によって造られたのでは無く、アメーバの様な極めて簡単な原始生物から進化して来たものであるとしました。
 しかし、1865年メンデルエンドウ豆の研究によって遺伝の法則である「メンデルの法則」を発表しました。優性の法則・分離の法則・独立の法則の3つから成ります。これは、エンドウ豆はいつまでもエンドウ豆、朝顔はいつまでも朝顔である事を証明しています。つまり「種」は独立したもので、動物と動物の間には「種」が在り、人間と猿との間には絶対に子供が生まれないと言う事で、進化論の唱える種と種の壁を打ち破って通り越える事は在り得ないと言う事です。この「メンデルの法則」がきっかけとなって、「遺伝学」が誕生する事になりました。
 もしも「進化論」が正しいならば、「人間の尊厳」は失われてしまいます。しかし日本の学校の教科書には、「メンデルの法則」「進化論」矛盾した二つを同時に載せてあり、「ダブル・スタンダード」となっています
 実は「進化論」を推し薦めたのは、イルミナティ・フリーメーソンユダヤ地下組織であると言われています。それは、自分たちの崇拝する「サタン(悪魔)」を肯定し、聖書に在る唯一の「創造主」の神様を否定している為である事から、その様な理論を利用した様です。ユダヤ地下組織は、イエス・キリストと対立した最高法院サンヘドリンが、A.D.70年ローマ帝国によってユダヤの国が滅ぼされた時に姿を消して地下活動を始めたもので、その後にカトリックのバチカン等にスパイ・エージェントとしてマラノを送り込んだりして、キリスト教の破壊工作を行って来ました。マラノとは、表面的にはキリスト教に改宗していますが、内面はユダヤ教の信仰を持ったままである者の事です。そのユダヤ教には、「タルムード」と言う聖書からはかけ離れた独自の経典が存在し、ユダヤ人以外は全て「ゴイム(獣)」であると言う意味合いの教えがベースとなっています。
 新約聖書・ローマ人への手紙3章28~30節人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
 人間には「肉体」のみでは無く、精神的実態として存在すると考えられる「霊魂」が有ります。「霊魂」は人の生命と知恵、精神の源であり、これによっても他の動物と区別されます。
 又、人には「真の知識」「義」「聖」が与えられておりそれら其々に「知性」、「道徳性」、「宗教性」が与えられていると言う事を意味しています。つまり、いかにチンパンジーが優れた「知性」を持っているとは言え「人間の知性」とは格段の違いが在ります。そして人間には「自由」と同時に「責任」も有り、また「祈り」を必要としています。
 旧約聖書・創世記1章24~25節ついで神は、『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ』と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
 同1章26~27節そして神は、『われわれに似る様に、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。。此の節の中の「われわれ」とは、唯一の神様の内に複数のペルソナ(人格、位格)が存在する事を意味しています。それは、父と子(イエス・キリスト)と聖霊の三位一体の概念です。
 同1章28節神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』。この節では、他の生物よりも卓越した「知性」が与えられた人間に、神様が人に与えた任務としての自然の管理を意味しています。


「生命倫理」について・・・(3)尊厳死・安楽死に関わる告知・延命処置についての私の考え方

2013-02-08 21:44:54 | 予防医療の危険性と生命倫理
 尊厳死・安楽死の問題が有りますが、告知・延命処置について私は以下の様に考えます。
 私は、キリスト者であるが故に、聖書の指針を根拠とします。故に、例え痛みが強く、身体的・精神的に苦しくなろうとも、其の様な状態に置かれる事に神様の考え・目的が有る事を悟り、又、其の目的が何であるかを考え、神様が決める其の時(死)が来るまでは生きなければなりません生命の誕生や死は神様が決める事であり、人によって人の生命を操作する事(死期を直接決める事)は出来ません。よって、意識が消失して回復する見込みが全く無くなるまでは安楽死は間違いで、行ってはならないと考えます。殺人・自殺・自殺幇助に値する尊厳死・安楽死は間違いと考えます。
 人の命万物の創造主である神様によって造られ、又、神様によって人には他の動物と異り尊厳が与えられています人の命は其の人の持ちものでは無く神様の所有するもので、其の命を神様から託されている人間は、其の責任を持って生を全うしなければなりません。
 癌等の末期症状でのターミナルケアにおいて、を使用しての疼痛の緩和によるQOLの向上を図った場合に、それが結果的に生命を縮める事に繋がっても、其れは仕方がないと考えます。
 人は神様によって神様の役に立つ様にと造られた為に、死期をも含めた神様の立てた計画に乗っ取って、神様の考えに従って生きなければなりません。他人の考えは勿論、自分の考えで死期を決めるのは間違いです。
 命・自分自身は神様の所有するものである為に、普段以上に特に末期症状においては、神様に全てを委ねる事、つまり勿論、死期をも委ねる事が必要です。
 大脳の機能の消失で、且つ回復の可能性が全く無く、脳幹の機能のみが働く植物人間の状態においては、人工呼吸器等の生命維持装置を外しても構わないと、私の場合には思っています。
 


「生命倫理」について・・・(2)私の考えと聖書

2013-02-07 18:36:36 | 予防医療の危険性と生命倫理
 旧約聖書・エレミヤ書1章4~5節次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』
 キリスト者である私の考えは、着床前診断、出生前診断、代理母出産、例外を除いた人工妊娠中絶いずれも間違いで行ってはならないと言う事です。人其々には「運命」が有り、障がいを持ってこの世に生まれる事は「運命」、子供が産めない事も「運命」です。「運命」万物の創造主である唯一の神様の考え・計画による人其々に与えられた「使命」であり、その神様からの命令に従わなくてはなりません。人間の考えでその「運命」を変えようとすることは間違いで、人間の科学によって「神の領域」である生命の操作をしようとする事は人間の傲慢さの表れであり、神様の命令に反抗して神様に背を向ける事になり「罪」になります。
 子供を授かる事が出来ない場合に、親の居ない子等の里親になる事も出来ます。代理母出産の場合で代理母と遺伝的繋がりの無い受精卵を移植する場合の内で、精子、又は卵子、或いは両方とも夫婦以外の第三者のものを使う事は、夫婦の内の片方とは血の繋がりが無い、或いは夫婦のどちらとも血の繋がりが無いと言う事であり、その代理出産に果たしてどこまで意味が有るのか疑問に思います。
 人は皆、生まれる時も死ぬ時も自分の意志・考えで行う訳では有りません自分が此の世に生まれたいと言う望みによって生まれて来た訳では有りません。また自分の能力で生まれて来た訳では有りません人は皆、創造主によって造られ、人其々の死期も神様が決めます人其々の命はそれを造った神様の所有するものである為に、自分の死期を自ら決める自殺は間違いです。つまり此の世で生きる事も、神様の為に生きる事が正しい事になります。人の為と書いて「偽り」、神様の為に行う事が本当の「義」となります。
 「自分」の能力では無く「神様」の能力で行う事、つまり「自己実現」では無く「神実現」である事が正しい在り方です。生命は「神様」の能力、「神実現」です。
 聖書は「神実現」する事が必要である事を教えていますが、創造主の神様の御心に適う事を行う様に、神様に従う様にと教えています「自己実現」では無く、「神実現」である様にと。例えば人間が物を作る場合は人間に役に立つ物を作りますが、創造主である神様も人間が神様に役に立つようにと人間を造られた訳であります。物がそれを作った人間に従わなければならない様に、人間も創造主・神様に従わなくてはなりません
 新約聖書・ヨハネの福音書9章2~3節弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
 本ブログ2012年12月4日付け「人権週間、全ての人が障がい者・・・曖昧な根拠・基準」でも記載しました様に、人間は皆完璧な者はおらず長所と短所を併せ持ち、その短所のあるレベルによって人間が勝手に健常者と障がい者を線を引いて区別しているだけで、その基準にしているレベルも根拠が無く曖昧であります。
 健常者障がい者の方を傍から見て不幸と決めつける事も間違いで、本人がどの様に感じているのかが大事であります。障がい者の方々の殆どは、自分を不幸であるとは思っていません。人其々、自分の幸せに対する基準や測り・物差しは違います。自分の基準に当てはめて他人を見て決めつける事は間違いです。
 又、マジョリティーの意見が正しい訳では無く、却ってマイノリティーの意見の方が正しい事の方が多く有ります多数派の世間一般的な見方や捉え方をする場合に「根拠」が伴っていない事が殆どで、世間の中に在っては「根拠」よりも他人の顔色や反応を基準にしているだけの様に思います。つまり「真実」よりも人に嫌われない様にしようとか、人に笑われない様にしようと言う事しか考えていません
 キリスト者(クリスチャン)は日本に在っては極めて少数派ですが、西欧各諸国においては多数派となっています。多数になるに比例して組織(教会)がより強固になり、組織(教会)の考えが強まって権力も強くなり、本来の根拠(聖書)から離れる傾向にある様に思います。組織(教会)は人の考えが入っている為に、純粋に根拠(聖書)のみでは無く様々な装飾や手垢が付いています。それ故、西欧諸国の教会はイエス・キリストの死と復活の後のパウロ等の使徒の活躍した頃の原始キリスト教からかけ離れて、派手で立派な教会を建てたり、権力や財産等の世の様々なものを所有したりしています。
 日本の仏教は俗に「葬式仏教」と言われていますが、戦後の人工妊娠中絶の増加を背景にして、中絶で死んだ胎児の霊を弔う水子供養の習慣が広まっていきました。檀家制度が破綻して経営が苦しくなった多くの寺院は、大手墓石業者と協力して水子供養を宣伝し始めた「ビジネス」です。因みに戒名・位牌は日本の仏教独自のもので、お金の掛け方で行く先が決まるとされています仏教の発祥インドでは墓を建てることが無く、お金を掛けずに火葬して川や山に遺灰を撒いています仏教の場合、開祖の釈迦(ブッダ)の教えが説いてある経典が仏教の中での全ての「根拠」となるはずですが、日本の仏教の場合、歴史上の風土や習慣・生活・葬送等に合わせて、独自に都合の良いように変えられて来た様で、其の「根拠」からかけ離れてしまっています
 一方、聖書には神様の御言葉が書かれています今日まで全く変化無く、一度も改ざんされずに全く同じものが発行され続けて来た、世界中でのベストセラーです。3500年前(B.C.1500年頃)から書かれ始め、A.D.100年頃までの約1600年間に渡って書き足されていきました。其の約1600年間、及び其の後の約1900年間、聖書其の物は全く変化せず、世間に妥協せず、時の権力・政治にも妥協せず、迫害にも屈せずに、「真実」をそのままにして今日まで受け継がれて来ましたジェネレーションギャップも無く、どの様な時代にも、どの様な世代にも、其の中に在る考え方や生き方の指針道徳、哲学等のあらゆるものの「根拠」となる神様からの御言葉が、其の時そのときに一致して受け入れられて来ました。また聖書には一貫性が有り、一つの教理的体系、一つの道徳的基準、一つの救いの計画、一つの歴史的筋書きをもって貫かれています。また様々な職業・階層の人達によって、同じ一つの意味合い完全な一冊の書物を成しています。よって聖書の御言葉それぞれに矛盾が全く無く意味合いが共通している為に、主を信じて従う事で迷いが無くなります



「生命倫理」について・・・(1)出生前診断、代理出産、人工妊娠中絶

2013-02-06 23:50:38 | 予防医療の危険性と生命倫理
 「『たかじんのそこまで言って委員会』~2013年1月20日(日)付け」(読売テレビ(日本テレビ系)、13:30~15:00放送)分において、出生前診断、代理出産、殺人の犯罪・不可・禁止理由等の「生命倫理」についての討論が有りました。
 出生前診断の内の着床前診断(受精卵診断)は、受精卵が8細胞~胚盤胞前後にまで発生が進んだ段階でその遺伝子や染色体を解析し、将来起こりうる遺伝疾患流産の可能性を診断する事で遺伝病染色体異常、性別等を発見する事が出来るものです。胚が子宮内膜上皮を通って内膜内部に侵入して子宮壁内に着床して胚の発育の準備を始め、着床の確定をもって妊娠が開始します。通常は胚が子宮に侵入すると直ちに着床します。受精日=排卵日から始まり、7日後~11日後(「妊娠前1~2週」)で着床=妊娠となります。
 この着床前診断を日本産科婦人科学会は指針として、重い遺伝病(重い筋ジストロフィー症)習慣性流産の一部の患者などに限定し、男女や障害・疾患の有無による産み分け等は認めていません
 妊娠後の出生前診断として、羊水検査や最近研究が始められた血液検査等の方法が有ります。羊水検査は「妊娠15 ~18週」の妊婦のお腹に針を刺して採取した羊水に含まれる代謝産物、或いは浮遊する細胞の染色体や遺伝子を検査して、胎児の遺伝病、代謝疾患、染色体異常などを調べるものです。この検査には流産のリスクが伴います。一方、血液検査は妊娠10週目以降の早期に採血によって検査をする為に比較的安易に行なう事が出来、流産のリスクも発生しません。
 代理母出産はある女性が別の女性に子供を引き渡す目的で妊娠・出産することで、これを規制する法制度は現在まで未整備となっていますが、日本産科婦人科学会により自主規制が行われている為に日本国内では原則として実施されていません。其の為、不妊夫婦がこの選択肢を採用する場合に、アメリカ内の代理出産の認められている州においてや、米国よりも安い費用で依頼する事が出来て政府が認め法案が準備されつつあるインドイにおいて行っています。
 代理出産の種類には、代理母とは遺伝的につながりの無い受精卵を子宮に入れ出産する方法と、代理母が人工授精を行い出産する方法が有り、前者には夫婦の受精卵を、第三者提供の卵子との精子との体外受精卵を、第三者提供の精子との卵子との体外受精卵を、第三者提供の精子と卵子との体外受精卵を、それぞれ代理母の子宮に入れて出産する方法が有ります。
 「妊娠12週頃まで」の人間としての形ができるまでの器官形成期未形成胎児として胎芽と呼ばれ、「妊娠12週以降」を胎児と呼びます。
 厚生労働省の省令では「妊娠12週以上」を「死産」として届ける様に規定し、此れに基づいて墓地・埋葬法では12週以上の中絶された胎児を死体として扱う様に定め火葬・埋葬する事になっています。「妊娠12週未満」の場合は法的な定めが有りません。又、中絶胎児の体性幹細胞は移植や難病の治療薬の為等の再生医療に利用される事も有りますが、12週未満の大部分の中絶胎児は医療廃棄物(感染性廃棄物)として廃棄されます
 一般的に「流産」は「自然妊娠中絶」のことを指す場合が多く、日本産科婦人科学会では「妊娠22週未満」の妊娠中絶を「流産」と定義しています。「妊娠22週以降」の場合の妊娠中絶は「死産」と定義しています。日本産科婦人科学会の定義ではさらに、「妊娠12週未満」の「流産」を「早期流産」「妊娠12週以降22週未満」の「流産」を「後期流産」と言い、「後期流産」については法令上、死産の場合と同様の死産届が必要となります。
 日本産科婦人科学会が「流産」と定義する「妊娠22週未満」の人工妊娠中絶に法的問題は有りませんが、胎児と母体の生命、及び身体の安全等の理由で原則禁止であり堕胎罪となります。しかし例外として女性本人・配偶者・親類について遺伝的精神疾患・遺伝的障害・その他重篤な遺伝病の予想からの女性の身体的理由や、経済的理由、強姦などの犯罪被害の結果妊娠した場合の倫理的理由で中絶を容認しています。
 着床前診断の問題として、染色体異常の有無を調べて正常な場合だけ受精卵を子宮に戻して妊娠・出産させて妊娠中絶を避けられる一方、異常のあった受精卵は廃棄される為に、ダウン症等の「障がい者の生存権」を脅かす事に繋がる事が有ります。又、妊娠後の出生前診断においても同様の問題が有ると同時に、人工妊娠中絶の増加に繋がる懸念が有ります。
 又、出生前診断は一定の条件をクリアした生命にしか誕生を許さない為に、どの様な姿であれ命を受け入れると言う「無条件の愛」が失われ、親が求める条件を満たす事によってのみ子供は愛されると言う事になってしまいます
 代理母出産の問題として、インド等の貧困層における人身売買やそれから発展した臓器売買、障がいを持って生まれた子の引取拒否や出産リスクを冒して産んだ子の引き渡し拒否等の契約不履行、自然状態の出産では無い子の精神的影響、代理母の子として扱われる法的親子関係、養子制度等の家族関係等が有ります。
 着床前診断・出生前診断・代理母出産・人工妊娠中絶それぞれには、宗教的な問題を含めた、人間の尊厳・生命の尊厳の生命倫理の問題が有ります。
 以上は現在の其々の状況ですが、私の考え等は後日。