狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

失敗、ユニーク、ユーモア・・・「道化師の孤独」を抱えた「聖なる無用性」:「寅さんとイエス」を読む

2015-08-23 18:09:10 | 孤独・独立・自尊心
 「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)
 本書を読んだ。

 共に失敗、ユニークさ、ユーモア等を併せ持つ、寅さんこと車寅次郎とイエス・キリストの二人の多くの共通点を見出した、カトリック神父である著者の聖書を根拠・ベースにしてのその捉え方により、その共通性の奥深くに存在する価値を読み解き、一見すると表面的には道化師の様に見えるその姿と異なり、実際のその真の意味合いとしての「聖なる無用性」について語られている。
 寅さんもイエスも、生涯独身であった。また共に孤独を抱えていた。因みに寅さんを演じた渥美清氏は、亡くなる直前に夫人と同じくカトリックにて洗礼を受けてクリスチャンとなられた。
 私自身も今までずっと独身であったが、今までの40数年の生涯の上で多くの失敗を重ねて来た。仕事は大筋で鉄工であったが職場は転々とし、且つ他の仕事も種々経験した事から、定着せずに「放浪」していた。また鉄工の仕事の上では若い頃の継続した経験がある事から「有用」とされたが、他の職種では役に立たないと言う「無用」とされた。また鉄工の上においても人間関係等から「無用」とされることもあった。また世間一般と同じ事をせずに世間体を気にせず行って来た事も多く有り、今までの経験等から、周囲・世間一般・多数派とは異なり、希で独特で独自性である「ユニークさ」を持っている。また世間の多くの人達との考え方や捉え方、判断の仕方等が違っていると言う「ユーモア」も持っている。そして現在に至っては、自身の欲心も薄れて世の物事が虚無に感じられて厭世的になり、世間からは一歩身を引いて隠遁的にさえなっている。世に存在する欲望の対象になるものや肩書き等の装飾等の「余分なもの」が落とされて解放されて自由となり、見栄・虚栄が無くなり素の自分、裏も表も曝け出している自分にもそのユニークさ・ユーモアが感じられているものと思うが、その点においても寅さんやイエス、そして「無い」事や持たない事が実際は豊かであると言う事を表現した良寛とも共通する事である。そしてまた、世を軽んじて全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順を体現し「神の道化師」とも言われるアッシジのフランシスコも同様に感じる。私は物心の付いていない小学生の頃ではあるがカトリックにて洗礼を受けており、現在は教会には通ってはいないが新改訳聖書を読んでいる。それらの為に、本書を多くの共感を感じながら、またその共通性を有していると言う事からの励ましを受けながら、本書を読ませて頂いた。
 本書は300ページ程も有り内容も実に濃いのであるが、以下に、本書の内容を少し引用する。

 イエスは当時のユダヤ社会の体制を全て拒否し、掟破りの人生を送った。また、寅さんの社会常識からのはみ出し度も尋常では無く、常軌を逸していたが、その「両者に共通する逸脱は、他者を生かす為の他者への思いやりであり、表層の嘘を暴き真相を露(あらわ)にする、いわば道化の姿である。」。当時の常識を排除して不浄とされた職業に就いている者達と差別意識を全く持たずに一緒に食事を取ったイエスは、寅さんも同様に、「既成の常識よりも、眼前の困っている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人への共感であり、人間として当然正しいことを正しいこととする毅然たる態度である。」。イエスと共に食事をした、社会から差別され排除された人々には生きる希望が蘇った。また寅さんの笑いとユーモアを背景にしたぶざまな姿を見た人々は自らを慰めたが、その「振舞の中にこそ、神の心の痕跡をみる」。
 寅さんの愚かさ、アンバランスの中にユーモアの不思議さ、イエスと食事を共にした社会からのけ者にされていた人々の嬉しさが溢れた事実から読み取れるイエスのユーモア。「ユーモアにとって欠かせない自分を客観視して笑いのめす余裕がイエスに備わっているからである。」イエスが当時の義人達、律法学者達からの反応も読み切り、「『お前さんらがつべこべ悪口を言っても、あるいは笛吹けど踊らずとも、そのうち結果として俺の正しいことは証明されるよ、いや現にもう証明されているじゃないか』とユーモア混じりに言ったとしても不思議ではない。」
 イエスが多く語られた例え話・比喩には、逆説的で皮肉、ユーモアが溢れていた。滑稽の中にある温かさ、フーテンの姿をとり、道化の姿をとり、自己を笑い飛ばしながら自己を無化し、一方で冷たい現実を冷徹に見据え、その時代が盲目的にのめり込んでいる誤った価値観を、ユーモアに包んでメタノイア(回心)に導く、これが二人の姿であった…(中略)…両者は人間性の回復に生涯をかけたと言っても過言ではない。」
 新約聖書の四つの福音書である「マタイの福音書」、「マルコの福音書」、「ルカの福音書」、「ヨハネの福音書」。この内ヨハネが最も遅く1世紀終わり頃成立との事であるが、マルコが最も早くに成立し、その数十年後にマルコを原典・ベースとして参考にしながらマタイとルカがそれぞれが集めた資料を加味して福音書を書いたとの事。一番最初に書かれるマルコのイエス像が、後に書かれる福音書によって幾分上品な装いになっていることは一目瞭然である。例えば、マルコ福音書では“怒るイエス、憤るイエス”も端的に描かれるが、それがルカ福音書になると、“穏やかな、落ち着いたイエス”に修正される傾向がある。」、「もし生きたイエス、即ちイエスの歴史的実像に多少フーテンの匂いがあったとしても、そういった事実には目をつぶり、出来るだけ尊敬に値するイエス像を描こうとしたことは疑う余地がない。」、「歴史の中に生きたイエスの実像は、ルカが描くイエス像よりも更にスキャンダラスであった可能性が高い。」。
 「…(前略)…そこに在るのは、現場でのイエスの出来事である。素朴な名もなき民衆の記憶を頼りに、イエスの出来事をていねいに描いてゆく。マルコ福音書とは、イエスにキリスト論的称号を着せてイエスを理解しようとした当時の主流に対し、そうした既成観念を離れ、生きたイエスの具体的な出来事を描くことを通じて、イエスを理解し賛美した一つの試みに他ならない。そして描き出すイエスの風貌は、…(中略)…「野生の革命家」であった。」
人はとかく称号というかレッテルに惑わされてしまう。どういう職歴か、どういう学歴かでその人物がわかったように思ってしまう。そうした称号やレッテルを一切取り外し、その人物が一つ一つの新しい具体的な出来事に、如何に応じていったかを描くことによって、その人物の質を捉えようとした試みがマルコ福音書である。」
 「誰かから馬鹿にされようと、自分の愚かさ弱さを曝け出しながら、自分を必要とする他者のために暇を差し出すフーテンの寅もまた、ある意味で「野生の革命家」である。誰が寅のように常識をはみ出して生きることが出来よう。人間、口ではいくらでもいい事が言える。いくらでも美しく格調高い文章を書くことも出来る。しかし、具体的な出来事を前にして、自分を必要としている人が眼前にいるにもかかわらず、そこから逃げてゆく人の如何に多いことか。そしてあとで理由を付けて、逃げた行為を弁解する。
 「自分はフーテンである、自分はヤクザである、…(中略)…心の底から自覚している者こそ、いざとなった時、不測の出来事に遭遇した時、自分を捨て他者のために生きることが出来る、人生のパラドックス(逆説)がここにある。」、「泡のように消えてゆく、取るに足らない者としての自覚…(中略)…無益な自分、迷惑ばかりかけてきた自分ゆえ、今何か少しでも人のためになれるならとの思いが生まれる。」
 「福音書から浮かび上がってくるイエスの風貌は、一切の依存、一切の権威を必要としない独立心の人であったこと。人からの評価も、スキャンダルの種になることも、自らの生命を失うことも恐れない、勇気ある人であったこと。物事自体の真実性のみに、言葉や行動の動機を置く、確信に満ちた人であったこと。さらに澄み渡る洞察力と共感力を持ち、今困っている人、悲しんでいる人と共に歩もうとした心温かく、優しい心根の人物であったことなどである。」
 「…(前略)…譲る心、許す心、他者を生かす喜びを二人は教えてくれた。果てしない利益追求に明け暮れる、ゆとりのないこせこせした生活、時間と空間の『空白』に堪え切れず、それを埋め続ける現代人に、『暇』だらけの、時代遅れの寅が、自らぶざまな姿を示しながら、『そんなに急いでどうするんだ、空を切ってるよ』と気づかせてくれた。」
 寅さんの旅先が騒音のるつぼと化した都会を避けて農村や漁村や地方の静かな田舎であり、イエスの舞台も同様に田舎の小さな町や村であったとの事。「『沈黙の世界』の著者M・ピカートは、ラジオ…(中略)…テレビや携帯電話やコンピューターによる騒音と情報の増大は、エネルギーの源泉である、真の意味の『沈黙』を消失せしめ、無意識のうちに当然あるべき人間性を破壊し続けている。」、「『沈黙は言葉なくしても存在しうる。しかし、沈黙なくして言葉は存在しえない』『もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうだろう』」。「その沈黙から一人の人間イエスが誕生するという『受肉』」
 「出来るだけ合理的に利益を上げるため、時間と空間の無駄を排除しようとする発想は、功利性に反するもの、有用性に反するものを社会から排除してゆく。無用な空間や空白は我慢ならず、…(中略)…空漠としたものに不安を感じ、そこに留まる時にのみ見出し得る何かを、自ら抹殺している。」
 「寅さんの姿勢は、『非接触・非破壊』…(中略)…すなわち一線を越えないこと、触れないことは、相手を大切に思う心の現れであり、今後の新しい出会いに対して、相互にとってより開かれた可能性を残す。」
 「日本的人間の深さはこのつらさによって極まる。日本的に言って深さのある人間、もののわかる人間は、このつらさのわかる人間である。」
 
 本ブログ過去の関連記事↓↓
  ・2013/04/13付:「俗事における「無用性」は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」

 引用文献↓↓
 「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)
「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)

 関連動画↓↓
 

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