狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<6>:キリストと直接繋がる安定、なぜ僕は不思議なのか?/Connection with Christ make stability, Why am I wonder?

2019-02-01 13:01:20 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<6>
    ~心の安定と集中力
     自分や人の力には頼らない「イエス・キリストと『直接』繋がる強さ」
     なぜ僕は「不思議」であるのか?
     Connection with Jesus Christ makes stability at my heart.
     Why am I wonder ?


 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)


 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一15章10節
  ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 15:10
  But by the grace of God I am what I am. His grace which was given to me was not futile, but I worked more than all of them; yet not I, but the grace of God which was with me.


 神様の御計画の内に、「神様の恵み」によって、僕が創られた事を信じて……。
 僕の「不思議」な事、それは、僕自身が行っているのでは無く、飽くまでも、神様が行っている事、「神様の恵み」である事を信じて……。
 神様と繋がっていれば、僕の行い、務めは、決して無駄にはならない事を信じて……。

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙1章5~8節
   あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
  ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
  そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
  そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

 The New Testament・The Epistle of James 1:5~8
   But if any of you lacks wisdom, let him ask of God, who gives to all liberally and without reproach, and it will be given to him.
  But let him ask in faith, without any doubting, for he who doubts is like a wave of the sea, driven by the wind and tossed.
  For that man shouldn’t think that he will receive anything from the Lord.
  He is a double-minded man, unstable in all his ways.


 本年(2018年)9月8日、アメリカ・ニューヨークで行われたテニスの全米オープン女子シングルスで、第20シードの大坂なおみ選手(20、日清食品)が、決勝で元世界ランク1位のセリーナ・ウィリアムズ選手(36、米国)を破り初優勝した。

 大坂選手専属コーチのドイツ人、サーシャ・バイン氏(33)
  「なおみを本当に誇りに思う。動き続けることが大事で、フィジカル面でも相手より良かった。(相手の抗議などにも)集中力を保って戦ってくれたことがうれしい」

 バイン氏は昨年(2017年)、専属コーチ就任し、今まで手がけた選手がいずれも世界1位にランクされている。自身の持つ独特の哲学と、工夫した指導法、選手との信頼関係から、指導した選手達を大幅にレベル・アップさせ、成長させた。
  「できるだけ楽しく、ポジティブな雰囲気を作ろうと思っている」
  「選手は一人一人違い、成功の形式はない。ベストを引き出すにはどうすればいいかを個々に考える」

 大坂選手は、飽き性で、「練習嫌いで、引っ込み思案の性格から物事をネガティブにとらえるところもあった」のであるが、「陽気なバイン氏」の許、信頼を寄せて言う。
  「ハッピーでポジティブな人の近くにいることが、いい影響になっている」
  「本当に人格者」
  「練習がすごく楽しくなった」

 ハイチ系アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフで、「180センチの長身を生かしたパワフルなテニス」で、「時速200キロクラスのサーブを持ちながら、当時世界70位前後に停滞していた」のであるが、バイン氏が専属コーチに就任後、「力に頼らないプレーを会得」し、「波があった精神面も安定」し、「総合力が上がり」、此の度の大会に於いては「落ち着いた戦いぶり」を発揮した。
 (以上、参考:2018年9月10日付、サンケイスポーツ「大坂なおみ、躍進の裏に敏腕コーチ!昨年12月就任のバイン氏/全米テニス」、及び、2018年9月11日付、神戸新聞朝刊「人 テニスの全米オープン女子シングルスで初優勝した大坂なおみさん」)

 丁度、僕が(外へ出てする仕事の)長期休暇後、一旦「飯の種」を得る為に、或る会社(鉄工所)に入って2ヶ月だけ働いた後、再び引きこもる状態で休暇、及び、また「生活の糧」を得る為の職場探しをしていた最中に、このニュースが入って来た。
 別記事で述べた通り、その長期休暇、否、それより前から、僕は精神面が不安定となり、それと並行する形で職場も長続きせず、転々と渡り歩く事となった。実際数えてみると、2年前(2016年)の末に3年間勤めた或る鉄工所をクビになった後、1日だけ出勤した所も含めて、本年(2018年)10月中旬から勤めている現在の鉄工所までの約2年間の間に、10ヶ所(現在の所を含めると11ヶ所)をも転々と職場を変えた事となっている。そして、その内の1ヶ所だけは派遣社員として大手の或る食品会社の工場に配属されたのであるが、それ以外は全て鉄工所で、且つ直接雇用である。
 その事からも解る様に、例え僕自身に今までの実績、経験があろうとも、また比較的、他の職種と比べると僕が得意に感じている職種であるにも関わらず、長続きしていない事が解る。尤も、職場には仕事そのものだけでは無く、人間関係を含めた職場環境や福利厚生、その他、自分の気になる事が存在している。そして、自分に完全にピッタリ合う様な職場等は無いものと思う。
 更に、僕は鉄工所以外の他の職種、コンビニや医療等もアルバイト等を通して経験して来たが、そのどれもが同様に続いていない。それ故、「どの職種を行ったら長続きする」、等と言う事が出来ない事が解る。
 その2年間の間は、直接雇用であっても長続きしなかったので、社会保険を掛ける前の段階、試用期間の間に、自己都合で辞めた、或いはクビになって辞めた事となっている。また、クビになった事も含めて、それぞれに色々な理由は有った。僕自身のわがまま的な希望によるものも含まれる。しかし、その根底に存在したのは、僕の「精神面の不安定さ」である。
 現在勤めている鉄工所は、個人事業の為に社会保険は無い。法人登録していない場合、従業員が5人未満の場合は、健康保険と厚生年金の加入義務は無い。その為、その鉄工所に入った直後は将来が「不安」になり、それによって心が「不安定」となって、「また職場を変えようか」、とも考えた。また、立ち上げたばかりの鉄工所という事からも「不安」は有る。しかし一方で、今から約20数年前の僕が未だ若い頃に、同じ鉄工所の職場での同僚であり鉄工界の先輩でもある方が存在してくれている事もあって、ここの所の精神面の「不安定」さが殆ど出ていない。その方とは、数年前まで船釣りに、年に数回、同行してもいた。
 日本年金機構のインターネット・サイトに於いて、自分が将来に於いて受け取る事の出来る年金額の試算を行う事が出来る。現在までの掛け金支払額の明細も表示され、現在までに支払った金額を基に計算される。また、僕自身が今後に予測される収入も併せて他のサイトを利用して計算してみた所、現在の銀行自動振替額等を含めた生活費を照らし合わせてみると、将来に於いては今より生活費は減らせると思いながらも、とてもではないが足りないのではないかと、「不安」に襲われる。国民年金だけと厚生年金では、将来の受取額が違ってくるのは勿論の事である。
 また現在、政府は「70歳まで雇用」を審議し、法案として国会に提出しようとしている。医療や介護、福祉等の社会保障費の財源が乏しく、消費税や所得税、法人税等の引き上げだけではなく、現役世代の延長により所得税を払ってもらう期間を延長し、消費、及び内需の拡大、働く事により健康を維持して医療機関や福祉施設への依存度の減少等を見込んだものであろう。日本国の将来も、赤字国債の発行が続き、財政赤字の膨張、そして今後起きうる(否、必ず起こる)「恐慌」の為に、僕は「不安」に感じている。
 ここまでは全て、「お金」に関わる話、自分が食べていく為の事に関わるものである。

 
 






 新約聖書・マタイの福音書 6章25~34節
  だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
  空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
  あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
  なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
  きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
  そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
  こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
  だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
  だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 6:25~34
  Therefore I tell you, don’t be anxious for your life: what you will eat, or what you will drink; nor yet for your body, what you will wear. Isn’t life more than food, and the body more than clothing?
  See the birds of the sky, that they don’t sow, neither do they reap, nor gather into barns. Your heavenly Father feeds them. Aren’t you of much more value than they?
 “Which of you by being anxious, can add one moment to his lifespan?
  Why are you anxious about clothing? Consider the lilies of the field, how they grow. They don’t toil, neither do they spin,
  yet I tell you that even Solomon in all his glory was not dressed like one of these.
  But if God so clothes the grass of the field, which today exists and tomorrow is thrown into the oven, won’t he much more clothe you, you of little faith?
  “Therefore don’t be anxious, saying, ‘What will we eat?’, ‘What will we drink?’ or, ‘With what will we be clothed?’
  For the Gentiles seek after all these things; for your heavenly Father knows that you need all these things.
  But seek first God’s Kingdom and his righteousness; and all these things will be given to you as well.
  Therefore don’t be anxious for tomorrow, for tomorrow will be anxious for itself. Each day’s own evil is sufficient.


 そう、このイエス・キリストの言う通り、生活する為のお金、食べ物等は、「神第一」とする信仰心を持つ事によって、神様が「備えて」下さるのである。イエス様を信仰する事で、「不安」は失くなり、その分、心は「安定」するのである。「自分第一」、或いは「他人第一」としていると、自分の欲望、他人の欲望から生じるストレスが降りかかり、心は何時までも「安定」しない。
 
 神様に委ね、「心が安定」すると、ある程度の事は我慢する事が出来る様になり、許容範囲が広がり、忍耐力も増す。故に、この2年間の様な職場を転々とする事も、失くなるであろう。そして、職場が「安定」する事によって、僕にとっては無駄な時間潰し、意味の無い事でしか思えない職探しをする必要も無く、またその事について悩んだりする必要性も失くなる事で、心が動揺する「不安」とはならず、時間も効率化する事が出来て、僕が今に至って抱く様になった「目的」に向けても、「集中力」を発揮して取りかかる事が出来る様になるであろう。今に至り、僕にとって外の仕事は「飯の種」、「手段」であって、それは決して「目的」では無い。「手段」と「目的」とは、異なるものである。

 僕は、読書をする時は勿論、書き物をする時も、「心の安定」を必要とする。世の中のライターの中には、ある程度、気持ちに火が付いた方が良いと思う方々も多い事であろう。しかし僕の場合は、黙想、「沈思黙考」した後の「心の落ち着き」を持ってでしか、書く事は出来ない。もしも気持ちが高ぶって「感情的」になっている時に書くならば、言葉の繋がりは無く、順序や秩序の無いものとなり、言葉がバラバラの単語のままで、文章にはならず、整理して纏める事が出来ず、決して「論理的」なものとはならないであろう。「感情」と「思想」とは異なり、「思想」は「理論」、「哲学」へと繋がるのである。「心の安定」によって、「感情的」にはならず、「思想」を働かせる事に繋がる。僕は、「思想」を持って、ものを書きたい。

 読書の場合は、それを行う事からも「心の安定」に繋がる。その他、「心を落ち着かせる」方法は、沢山在る。世間一般的な方法として、運動、体操、ヨガ、食事、入浴、自然、趣味、音楽、座禅、五感促進、血行促進等と色々と在る。しかし、精神科の医療や薬には頼ってはならないものと、僕は強く考える。精神科医療には、エビデンス(科学的根拠)は存在せず、明確な定義も存在しないのである。実際、精神科医療に掛かっている「不安定」な方々は、薬を処方される事や、医者への気持ちの上での依存度が高まる事によって、慢性化したり、悪化している。薬は「毒」であるし、耐性化して効かなくなっていく。

 僕自身、今までずっと、精神的に「不安」であった訳では無い。別の記事に書いた様に、成熟段階、また、そのステップが螺旋状の様に繋がり上昇する「無限のスパイラル」の中で、再度、或いは何回かの「敏感期」に入る。僕は、最近から現在に至るまで、そのセンシティブな時期、デリケートな状態に入っている様に思える。それ故、ここ最近の「不安定さ」が、その感受性の高さ故に、繊細さ故に、壊れ易さ故から、生じて来た様に思う。
 その「敏感期」は、誰でも生まれて間もない時期に経験している。その幼児期の「純粋無垢」な心が、俗世間の中での生活を通して曇り汚れてしまい、感受性も鈍くなる。感受性が鈍ると「鈍感力」が発揮される為、人の気持ちに共感出来ず、同情出来ず、その汚れた心から湧いてくる欲望、利己(エゴ)ばかりになる。しかし一方で、「鈍感力」を持つ事で、些細な悪口、陰口を気に留めず、環境に左右され難くなるので、「集中力」が増すメリットも有る。
 僕は何年か前までは、その「鈍感力」を身に着けていた。それは、僕の心が汚かったからという事が言えるが、一方では、此の世の中を渡っていく為の「渡世術」として、役にも立っていた。僕がここまで友達が居なかったにも関わらず、社会に出てからの約30年も生きて来る事が出来、また職場を転々としながらも生きて来れたのは、その「鈍感力」を持っていた事も、理由の内の一つである。しかしだからといって、ヤクザの様に、「凌ぎ」の為に、何でもやっていい訳では無い。
 また、元々、僕は「マイ・ペース」である。よって、周囲には流され難い。また、前述の約30年間に「転々」としながらも、「成るように成る」と、「行雲流水」の如くの精神をも持ち合わせていた事も、理由の内の一つである。僕は、その様な「楽観」的な心も持ち続けて来た為、心は余り動揺せず、比較的「安定」して来たものと思う。世間の方々の多くは、辞職や転職をする事にも大きな勇気を必要とするぐらい、それらについて大きな試練を感じているのではないだろうか。僕にとって辞職や転職は、大した事では無いのである。
 更に高校中退して社会に出だした事から、元々から地位や名誉、肩書、学歴等を持たない為、それらにしがみつき、それらを守る必要も無い。それらに対する執着が無い事で、「不安」が生じない。またその他、今となっては所有、財産は比較的少ないので、それらからの「不安」も生じ難い。友達という所有も、社会に出て以降は「無い」ので、今更何も「不安」に思わない。

「敏感期」で心がリセットされて清浄され、より次元高く成熟していく。世間一般的にも、心身が「不安定」となって体調不良を訴える「更年期」に、それが当てはまる方々は多いと思う。「更年期」とは、人間のバージョン・アップを行う時である。

 結局、否が応でも此の世で生きていかなければならないのであるから、「鈍感力」の良い面を持ちつつ、「楽観力」も持つ。そして一旦「純粋無垢」、「無」に戻った心を、出来るだけ維持していかなければならない。しかし、人間である以上は、「弱い」のである。
 その「弱さ」故に、また「元の木阿弥」の如くに見える様な状態に陥ってしまうのだろう。僕が、それを体現している。「純粋無垢」となっても、「失敗」やトラブルを繰り返して来た。そして、生涯、無限に、その状態が螺旋の様に繰り返す事になるのであろう。
 人間は「弱い」。だから、繰り返す。よって、「自力」で解決しようとすると、必ず「失敗」する。「自己実現」しようとすると、「失敗」するのである。
 「純粋無垢」な心は、デリケートなので傷つき易く、波立ち易く、「不安定」となり易い。それ故、環境の変化、周囲の挑発や煽り、ハラスメント、いじめ等によって、感情の起伏が激しくなり、それを我慢、或いは怒りを起こす事となり、そのどちらによっても精神は疲れてしまい、「しんどい」となる。

  
 



 ヤコブの手紙1章19~22節
   愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
  人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
  ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

 The Epistle of James 1:19~22
   So, then, my beloved brothers, let every man be swift to hear, slow to speak, and slow to anger;
  for the anger of man doesn’t produce the righteousness of God.
  Therefore, putting away all filthiness and overflowing of wickedness, receive with humility the implanted word, which is able to save your souls.
  But be doers of the word, and not only hearers, deluding your own selves.


 世間の多くの人達、「無神論者」達は、その様な事に対する解決策として、「人との繋がり」を挙げるであろう。しかし、「人間」は「弱い」のである。「人間」は、欠陥だらけなのである。その欠陥だらけの「人間」に頼ったところで、必ず「失敗」するのである。両親然り、学校の先生然り、医者然り……である。勿論、「マスコミ」や芸能人、その他有名人に頼ってはいけない事は、言うまでもない。
 しかし、同じ「人間」でも、司祭や牧師は、まだましかもしれない。その理由は、神様の御言葉である「聖書」を基準としているからである。「聖書」には、預言者等によって、神様から預かった言葉が書かれている。よって、「神様の御言葉」そのものである。しかし、各キリスト教会も完璧では無く、聖書の中の「タブー」視している御言葉を伝えていないし、「人間の解釈」や「組織の考え」も混じっている。
 キリスト者の内村鑑三や、同じくクリスチャンの新渡戸稲造は、それぞれ「無教会主義」とクエーカー派であった。クエーカー派も「無教会」に近く、教会の制度化や儀式化に反対し、小さな、質素な、それこそ草庵の如くの集会所で、共に聖書を読み、祈る。その「無教会」、組織・団体に所属しない単独(alone)の身の上で、直接聖書を読み、直接神様と向き合い、直接神様に祈る。僕も同様に、またそれらを見習う様にして、「神様と繋がる」、否、「神様と『直接』繋がる」事を持って、生きていきたい。

 「敏感力」や「鈍感力」、「楽観力」等の、自分の力だけでは「失敗」する。また、世間一般的な「渡世術」も、「人間」の方法なので「失敗」する。更に、「人との繋がり」を持ってしても、「失敗」する。唯一「失敗」しない方法は、「神様と『直接』繋がる」事であろう。
 「神様と『直接』繋がる」事によって、例え何かでしくじったり躓いたり(つまずいたり)しても、融通が効き、修正が効き、処理は速く済み、大事には至らず、立ち直り、復活し、リバイバル(再興)するのであろう。

 僕は、十数年前までは神様からの信仰から大きく離れ、数年前までも直接聖書を読まず、真剣な「悔い改め」を行わない等、薄い信仰に陥っていた。しかし前述の通り、高校中退してから社会に出てからの約30年間、失敗やトラブル、職場を転々として来ながら、自分なりに融通が効き、修正が効き、成るように成り、その都度復活、リバイバルが起こって来たのは、神様の救いが在ったからだと信じる。
 信仰も薄かったのに、またそれだけでは無く、数々の罪も犯して来たのに、何故、神様は何度も僕を救い続けて来てくれたのか?。
 僕は、罪を犯した故に、古代ユダヤの王ダビデと同様に、天罰として、プラバシー侵害やストーカーの被害の下に置かれ続けて来た。しかし、罪の大きさの違いは有るにしても、また、その頻度の違いが有るにしても、世間の全ての人達が同じ様に罪を犯し続けていても、また、実際に刑務所に入れられる犯罪者が多いにも関わらず、世の中の誰も、その様な天罰の下には置かれてはいない。何故、僕だけが、その様な下に置かれなければならないのか?。
 僕は、単なる日本人である。しかし、日本人は国籍名であり、且つ、元々古代に於いて日本人は多民族であったので、民族名は異なる。それを表面的に単一民族の様に装って来たが、実際は、血統的、遺伝子的に、多民族の子孫で構成されている。僕は、正確に何の民族に当たるのかは、勿論解らない。因みに、その日本の多民族の中には、「血統的」な本当のユダヤ人が含まれている事を、今までに聞いて来た。ユダヤ人は、「聖書」の中にも書かれている通り、「神様の選民」である。
 僕が何の民族に相当するのかは解らず、また、ユダヤ人であるのかどうかも解らない。しかし、ユダヤ人が神様から選ばれた民である事と同じ様に、少年時に洗礼を受けた事による神様との契約(Testament)を持つ為なのか?、それとも神様との間での契約の書である聖書(The Testament)を読んで来たが故に神様との契約を持っている為なのか?、ひょっとすると、僕は神様から選ばれているのか?、解らない。
 しかし、此の世の中には、受洗されたクリスチャンは沢山居られる。日本国内では1%にも満たない極めて少数派ではあるが、欧米ロシアでは多数派として、また中東地域等にも、キリスト者は数多く存在する。前述の様に、僕は信仰の薄かった時期が長く、小学生時代は毎週教会に通っていたものの、その後は合計しても数年程であり、その教会で聖書の御言葉に触れる事は有ったが、家で直接読むのは数年前からである。その様な僕が、良きも悪しきも、神様によって特別扱いされるのであろうか?

 
 



 新約聖書・エペソ人への手紙3章7~9節
  私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
  すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
  また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

 The New Testament・The Epistle to the Ephesians 3:7~9
  of which I was made a servant according to the gift of that grace of God which was given me according to the working of his power.
  To me, the very least of all saints, was this grace given, to preach to the Gentiles the unsearchable riches of Christ,
  and to make all men see what is the administration of the mystery which for ages has been hidden in God, who created all things through Jesus Christ,


 人それぞれに、違った「運命」が在る。その事は、解っている。僕のその様な状態に置かれている事も、「宿命」である事は、理解している。しかし、僕だけが、その様にされるのは、はっきり言うと、理不尽に思えるし、納得出来ないとも思える。あぁ、僕は、旧約聖書「ヨブ記」のヨブの様に、神様に対して文句を言いだした!。
 前述の犯罪だけでは無く、先天的な障害を持って生まれて来た方々にしても、その各人が一人だけでは無く、世の中を見渡せば、幾らでも、同じ様な障害を持っている人は見つかる。同様に、幾ら難病を抱えていても、同じ様な難病を抱えている人は、沢山見つかる。しかし、僕の様な、ストーカーの被害の原因となっているプラバシー侵害の被害を、他に見つける事は出来ない。
 プラバシー侵害をされているとしても、それは物理的、科学的に証明出来るものばかりである。その物理的、科学的なものは、「人間」が作ったものである。一方、僕のプラバシー侵害について、それら物理的、科学的に証明出来るものであろうか?。絶対に、不可能である。
 そうすれば、何故、どの様にして、その様な事が起きているのであろうか?。誠に、「不思議」な事である。
 もう、この際、ついでに、証しする為に、述べてしまおう。「不思議」な事は他にも有る。僕の話す声が、まるで「メガホーン」(拡声器)を使っているが如くに、大きく響き渡るのである。それも、周囲の近所だけでは無く、はっきり言うと、日本全国、否、世界各地にも、伝わっている様なのである。此の事は、一体、どういう事なのだろうか?。誠に、「不思議」な事である。因みに、「メガホーン」が「ラッパ」の形をしているのは……(新約聖書「ヨハネの黙示録」の参照を)。
 それどころか、口を開けて話をしている訳でも無いのに、恰も「以心伝心」しているかの如く、僕が口に出さずして、思ったり、書いたり、音読では無く黙って読んだりして言葉にしている時にも、伝わっている様なのである。此の事も、一体全体、どういう事なのだろうか?。誠に、「不思議」な事である。

 
 



 コリント人への手紙 第一15章58節
  ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 The First Epistle to the Corinthians 15:58
  Therefore, my beloved brothers, be steadfast, immovable, always abounding in the Lord’s work, because you know that your labor is not in vain in the Lord.


 僕は、ブログを始めてから、丸6年が経過した。このブログも、日本国内は勿論、外国にも伝わっている様である。YouTube等を見ると、その事に気付く事が屡々(しばしば)有った。アクセス数を見ると、大した数では無い。にも関わらずである。よって、どうも、普通の伝わり方では無い様に思える。何にしても、僕としては、その伝わっている事を利用して、書いたりしている訳である。
 「不思議」な事はまだ有る。僕が恰も「カメラマン」の様にして、行く先々で取材をするが如く、カメラ中継をするが如く、プライバシーを侵害するが如く、企業秘密をバラすが如くの事を行ってしまっている為に、「カメラが来た」、「目」等と言われて嫌われ、差別され、除け者にされる事である。クビになったり、難癖を付けられる等をして退職に追い込まれるのは、その「カメラ」の様なものを僕が持つが故に偏見を持たれる事も、理由に在る。しかし、僕が「カメラ」を回しているのでは無く、僕が見ているのではなくて、世間一般の人達が見ているのである。
 プライバシーの侵害にしても、自分で自分のプライバシーを曝け出す訳が無い。誰でも、自分のプライバシーは秘密にしたいものである。だから、そのプライバシーが曝け出されている事も、僕自身がしていない事を解ってもらえる事と思う。
 「不思議」な事はまだ更に有る。僕には「背後霊」の如く、常に悪口を言ったり、挑発したり、煽り、唆し、誘惑、偽旗工作(False Flag)をする者が付いている。女性の声もすれば、男性の声もする。そして、その「背後霊」が偽旗をする事で、恰も僕の周囲が悪口を言った様に見せかけて、僕と周囲との喧嘩等のトラブルを引き起こそうとしている。それらは、恰も、天童荒太氏著作の小説「悼む人」(文藝春秋)の中で描かれてる事と似ている。もしかすると、この小説は、僕を構成するモチーフの一部にしているのではないのか?、そう思えてならない。刊行されたのは2008年であったので、僕が丁度、医療系専門学校に通学していた時であった。
 また、「空気感染」しやすい世間の人達は、その悪魔の「False Flag」(偽旗工作)につられて何も考えずに洗脳され、「世間病」がやがて広がって蔓延し、悪魔が言うと皆が言う、一人が言うと皆が言う、悪魔が笑うと皆笑う、一人が笑うと皆笑う……といった具合に、「空気感染」による「世間の病気」が蔓延して、「一時のブーム」が出来るのである。しかし、その「世間の病気」は大概、「一瞬」で消えてしまう。その場の空気や雰囲気、ブーム、流行とは、その様なものである。

 その「背後霊」とは関係ない事であるが、次に、その著作で2009年に第140回直木賞を受賞された天童氏への、それ以前のインタビュー、2004年3月28日付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」より、
  「家族狩り」(1995年刊、新潮社)の増補改訂の文庫版出版に当たり、「テロ、紛争、飢餓などの世界情勢や、高齢者の介護、中高年の自殺といった問題も提示」しながら書き下ろしされた。
   「いまここで苦しんでいる者の不幸と、遠い地域の悲劇とは、本当にかけ離れたことなのか…」
   「世界で起きていることは、小さな個人の積み重なりで起きているもので、実はつながっている。むごいこと、悲惨なことを直視し、それでも、その人生を肯定することで次の生き方が見えてくる。小説全体を通して、世界と個人がつながっているという回路を示したい。」
   「自身を追い込む作業ですが、僕には、人の痛みを見詰めた作品を届ける責任があると思っています。」
 (以上、2004年3月28日付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」より)

 僕は現在、パレスチナ人の苦しみをはじめとした国際情勢に関心を持ちながらブログを発信していている事からも共感するし、また現在、次の生き方、「目的」が、見えている。

 話は戻り、この「背後霊」の如くに僕に付き纏わっているのは、その内容から見ても、サタン(悪魔)の仕業である事は、間違いない。その事も、ヨブやダビデの身に起こった事と同様である。また、「カメラ」はどうだろうか?。しかし、それ以外の「不思議」な事は、僕は神様が行っているものと信じたいし、信じる。「カメラ」も、「プライバシー曝け出し」と同様、良い様に捉えれば、ドライブ・レコーダーや監視カメラの様に、何か有った時の為の証拠、或いは証人を得るものとして、「益」となっているのかもしれない。

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙8章26~30節
   御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
  人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
  神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
  なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
  神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 The Epistle to the Romans 8:26~30
   In the same way, the Spirit also helps our weaknesses, for we don’t know how to pray as we ought. But the Spirit himself makes intercession for us with groanings which can’t be uttered.
  He who searches the hearts knows what is on the Spirit’s mind, because he makes intercession for the saints according to God.
  We know that all things work together for good for those who love God, for those who are called according to his purpose.
  For whom he foreknew, he also predestined to be conformed to the image of his Son, that he might be the firstborn among many brothers.
  Whom he predestined, those he also called. Whom he called, those he also justified. Whom he justified, those he also glorified.


 僕の身に起こっている「不思議」な事は、「神様からの恵み」である。しかし僕は、2年前までは、その「不思議」な事を、「自分の十字架」と言う様に捉えていた。実際、罪を犯した為の「天罰」と考えられるからである。また、そのどれもが、その当時まで、僕自身にとっては「苦しみ」であったし、「我慢」、「忍耐」を必要としていたからである。正直に言うと、今でも完璧に開き直り切ってはおらず、まだ「苦しみ」や「恥ずかしさ」を時々、感じている。未だまだ、神様への信仰が未熟である故であろうと思う。
 これら僕の「不思議」な事を、僕の捉え方としての「自分の十字架」からの前進した捉え方として、レバル・アップした捉え方が、「神様からの恵み」である。そして、それら「不思議」な事を「神様からの恵み」と捉え切った時、神様に対する「感謝」や「喜び」が、自然と湧いて来る様になる。僕は正直、それら「不思議」な事を「神様からの恵み」と捉え出したのは約1年前からであるので、未だまだ未熟であり、「無限のスパイラル」の様にして、今後も成熟化していくのであろう。
 そうは言っても、折角の「純粋無垢」な心を維持したいものである。汚れた俗世間、理想郷では無い世間の環境の中で、自分の心を守る「盾」や「アダプター」が必要となる。前述して来た様な、人間の作るもの、世間一般的なもの、科学的・物理的なものとしての対策法は沢山有る。周囲の雑音に対するヘッドホーンや耳栓も、その内の一つである。また、人間に頼る「人との繋がり」も、そうである。
 それらを完全否定するつもりは無いし、「渡世術」としては必要に感じる。僕の洗礼名である「アッシジのフランチェスコ」の様に、「神様の道化師」とした完全に開き直り、自分を完全に「無」にして此の世を渡っていくのは、なかなか難しい。しかし何れにせよ、最も必要なのは、「神様の盾」を、「神様のアダプター」を、心に付ける事である。人間を含め、此の世のものは、全てに欠陥が在り、全て不完全であるから、それらに頼るだけでは「失敗」する。人間に頼ったところで、承認欲求から偽善行為に走り、騙され、利用され、裏切られる。
 僕は、「不思議」なものを持っているが故に、周囲、世間からの攻撃を受け易い。故に、一層、「神様の盾」、「神様のアダプター」を心に纏う必要が有る。その為には、絶えざる信仰心と祈り、聖書の御言葉を心に留める事が必要である。そして、その迫害を受ける中での信仰によって、「キリストの“似姿”」、イエス様に似た姿になっていくのであろう。
 「心の安定と集中力」。「イエス・キリストと『直接』繋がる強さ」を心の礎に据え、落ち着き、冷静さを保ち、許容範囲が広がって寛容となり、余裕・ゆとりが大きくなる事で心に大きな波が生じる事も無く、心が安定し、バランスを保ち、集中力を得る。それにより、「目的」をはじめとして、様々な結果に繋がっていくであろう。
 そして、「僕の不思議な事」が、「神様の御計画」の内に存在する事を信じて……。

 
 



 コリント人への手紙 第二12章9~10節
  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
  ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 The Second Epistle to the Corinthians 12:9~10
  He has said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Most gladly therefore I will rather glory in my weaknesses, that the power of Christ may rest on me.
  Therefore I take pleasure in weaknesses, in injuries, in necessities, in persecutions, and in distresses, for Christ’s sake. For when I am weak, then am I strong.


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  ・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド

 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)

 参考文献
  ・2004/03/28付、神戸新聞「著者に聞く 家族狩り 天童荒太さん 世界と個人結ぶ回路を」
  ・2018/09/10付・サンケイスポーツ:「大坂なおみ、躍進の裏に敏腕コーチ!昨年12月就任のバイン氏/全米テニス」
  ・2018/09/11付・神戸新聞朝刊:「人 テニスの全米オープン女子シングルスで初優勝した大坂なおみさん」


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