渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明
司会と記録:鹿取 未放
46 影として霞ヶ関の上空を月のねずみは過ぎてゆきたり
(レポート)
霞ヶ関といえば東京千代田区の桜田門から虎ノ門にかけての官庁街。国の行政枢要機関が並ぶ。本歌は、この上空を影として月のねずみが過ぎていった、と詠む。何のことだろう。月は前首を受けてぶよぶよの月だが、そこのねずみとは、作者自身ではないだろうか。作者は、地方自治体の職員として、霞ヶ関の所管官庁を訪れ、担当の仕事について意見交換をしたのではないか。大きな実りがあれば実在としてのねずみを実感できるが、そうでないと影のような存在としてゆき過ぎたことになる。(鈴木)
(意見)
★月のねずみって、このレポートのようなことでいいのかなあ。(鈴木)
★月に兎がいるっていいますけど、ここでは月にねずみが住んでいて、そのねずみを乗っけた月が
鬼や蛇や暗黒のもろもろが蠢いている霞ヶ関の上空を過ぎていった、という意味だと思っていま
した。もちろん含みはいっぱいあるんだけど、ここはただ通り過ぎていったよと。あんまり言い
過ぎるとつまらない。霞ヶ関に叱られにゆくという歌もあるので、月のねずみは〈われ〉だとい
えばいえなくはない。(鹿取)
◆(後日意見)
上記、鹿取発言の「霞ヶ関に叱られにゆく」歌とは次のもの。
はるばると書類は軽く身は重く霞ヶ関へ叱られに行く『寒気氾濫』
影については、『ツァラツストラ』で最後まで主人公のお供をする「不毛性」の象徴としての影を思い描いてもいいのかもしれないが、この歌ではもっと単純に実態のないものとしての「影」でよいような気がする。月に棲むねずみが霞ヶ関のビル群に影を落として過ぎた、あるいはただ横切って行った。いずれにしろ、霞ヶ関を揶揄しているように思われる。(鹿取)