かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 41

2015年04月08日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)21頁
          参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:鈴木 良明
           司会と記録:鹿取 未放


41 橋として身をなげだしているものへ秋分の日の雲の影過ぐ

       (レポート)
「橋として身をなげだしているもの」とは、作者の身体を投影して実感したものであり、そして、そのあり方は、重力にあらがい、反作用として拮抗している生の力である。空を行く雲も生の力として生成し変化して流れ続け、その結果としての影が過ぎてゆくのである。(鈴木)


      (意見)
★「かりん」の特集号で『寒気氾濫』の自選5首にこの歌は入っていた。《後述》私自身はこれは
 ニーチェだと思った。『ツァラツストラ』で人間は超人になる途上にあって橋のような存在だと
 いうようなことを言っている。そういう精神的な高みに登る通過点のような存在。《後述》でも、
 この歌は何重にも読める。弧の空間を支える緊張感とか精神の危うい状態とか。また、「橋とし
 て身をなげだしているもの」を性愛の場面で身を反らしている女体と捉えると、下の句もとても
 リアルに読めてしまう。そういう解釈だってありと思う。(鹿取)
★「いるものへ」のところが解釈を広げるんでしょうね。(崎尾)
★世界との架け橋、関わりということで考えてもいいのかなあ。何かと何かを結びつける。(鈴木)
★渡辺さんはよく橋を歌っていますよね。地獄への力と天国への力とが釣り合う橋を渡るとか。
    (鹿取)

      【自歌自注】「かりん」2010年11月号
 「橋として身をなげだしているもの」には『ツァラツストラ』が頭にありました。「秋分の日」という言葉で時間的均衡を考えました。「秋分の日」がふさわしいと思いました。佐太郎の歌「秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く」も頭にありました。「雲の影過ぐ」で具体性・具象性を持たせました。

    
      【『こうツァラツストラは語った』】第一部 ツァラツストラの序言 4より
 人間は、動物と超人との間に張りわたされた綱である。深淵の上にわたされた綱である。渡っていくのも危険、途中にあるのも危険、身ぶるいして立ちどまるのも危険。人間が偉大なのは、人間が橋であって、目的でない点にある。人間が愛されうるのは、人間が一つの過渡であり、没落である点にある。(後略)(高橋健二・秋山英夫訳)
 

 ※地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり『寒気氾濫』